Reversi小説 | ナノ



7-2

 蝶の羽ばたきが止まる。

 光一とイリアは、蝶が動きを止める前に既に立ち止まっていた。眼前に、森の中にはおよそ似つかわしくない建造物が現れたからだ。

 それは辺りの木々より抜きん出て高く、空上の雲さえも突き抜けて頂上が見えない。もっと身を隠すようにこじんまりとしたものを想像していたのだが、その豪壮さにまず光一は驚いた。

 そしてそれ以上に衝撃を受けたのが、これほどまでの質量をあと数メートル、というところまで接近しなければ認識できなかったという事実だった。魔法で隠す、と言葉では簡単に聞いていたが、いざこの奇妙な感覚を肌で体感すると言い知れない薄気味悪さを感じる。

 建物は大きさこそ迫力があったが外装などは至ってシンプルで、とくに飾り気のないレンガ造りのものだ。ご親切に、ここが入口だと教えるかのように短い階段が積まれていて、その先に木製の扉があった。

 イリアが特に警戒する様子もなく扉に手をかける。が、さすがにあっさりと入れてもらえるわけではないらしい。扉はがたりと音を立てることもなく、侵入者を通すまいと立ち構えていた。イリアはふむ、と思案顔を浮かべる。

「魔法鍵がかかっているな」
「そのドア、木やろ? 燃やしたりでけへんかな」
「《魔返し》の術もかかっているからな。試してみてもいいが……骨くらいは拾ってやるぞ」
「ムリならムリて言うてや? どっからどこまで冗談なんかわからんねん」
「私はいつだって本気だよ」

 首をかしげ、真顔で言い切るイリアに光一はため息で返した。そんな態度を気にする様子もなく、イリアは再び扉へと向き直った。

「さて、時間は少しかかりそうだが仕方ないな」
「どないするん」
「扉だけでなく、建物の外壁全体を結界が包み込んでいる状態だ。だが、これほどの規模となればどこかにおそらく、ほんのわずかにもろい箇所は存在するはずだ」

 どうやら彼女は「その」箇所を探し当てることにしたらしい。しかしこの巨大な建物の全体を、しらみつぶしに叩いていくというのだろうか。それしか方法はないのかもしれないが、この急を要するときに地道にやっていくしかないのか。

 光一が何もできない自分を歯がゆく思い足の底から這い上がるむず痒い感覚と戦っていると、後ろから草が不自然に揺れる音が聞こえた。反射的に光一は身構える。風ではない、明らかに生き物が意思を持ってこちらに近付いてくる音だ。

 ドラゴンか、敵軍か……、このあたりの草は背が高く視界が狭い。光一がネックレスを握る力を強めた。

 光一の身長ほどある草をかき分けて、現れたのは光一によく似た黒髪の少年だった。


「……ヒカル」
「…………」


 相変わらず不愛想な表情のヒカルを見て、光一は気づいたことを口にする。

「お前……一人か?」

 すぐそばに誰かいるような気配は特にない。

 光一があの場から別れてどのくらい時間が経ったのか定かではなかったが、戦いに決着がつくには十分な時間だっただろう。ヒカルは勝利したのだろうか。それなら、一緒にいたケントやマロンはなぜいないのか。

 心配と困惑の色を隠し切れない光一に、ヒカルが落ち着いた声で返す。

「ここに来たのは一人。正確にはセレナさんと二人でだけど、彼女は別で役割があるから手前で別れてきた。さっきの広場でマロンとアイツとドラゴン使いの子が休んでる。それで全員でしょ」

 アイツというのがケントのことだろう。一緒に来ないということは怪我を負ったのかもしれないが、ひとまず無事らしい。ニーナとセレナも合流できているのは良かった。みんな上手くやったようだ。光一は握りしめていたネックレスをようやく離した。

「そうか……良かった」
「何も良くないでしょ。目的はこれからなんだから」

 いちいち棘のある言い方だ。ケントと仲が悪いと言っていたが、嫌味な態度だけなら似た者同士じゃないかと光一は眉間にシワを寄せる。

「お前はホンマに……オレっぽくないなぁ」

 そうこぼすとヒカルは心なしか、ほんの少しだけ悲しいような寂しいような顔を見せた気がした。それは一瞬で、すぐに仏頂面に戻る。

 気にはなったが、光一にはかける言葉もとくに浮かばない。

「セレナも来ている……ということは、入る手段はありそうか?」

 建物の壁を見つめて思案していたイリアが、ヒカルに向き直ってそう尋ねた。《リトル・パピヨン》を使ってここまで道案内もしてくれた彼女なら、闇雲に壁を叩くよりは有効な手立てを知っているかもしれない。

 ヒカルは表情を変えずにひとさし指を上にあげた。

「上から9段、正面の真裏の窓。そこが他よりほんの少しではあるけど、結界がもろくなってるみたいだよ」

 ヒカルの指が窓をさしているのだと気づき、光一も目線をそちらにやる。が、そこに行くにはいくらか問題があるように思えた。

「高すぎやろ。あんなんどないして行くねん」

 思わず顔をしかめてしまうほど、「上から9段」目に位置する窓は地上から離れたところにあった。円柱状にそびえ立つ高層建造物だ、頂上付近はかすんでしまってハッキリと視認することさえかなわない。

 しかしイリアもヒカルも、そんなことは問題にはならないといったような平然とした顔をしていた。

「どうって……飛べばいいじゃないか」

 言うやいなや、イリアの長い髪が不自然に下から巻き上がった。砂ぼこりが宙を踊っている。突然、強風が足元から湧き上がってきたのだ。

「舌を噛まないようにだけ気をつけろ」

 そのイリアの声が合図となり辺りの風が止んだかと思うと、光一の身体がものすごい力に押し出され上へと跳ね上がった。圧縮した風の力が、全て光一の足裏に集中したようだった。

「うぉあッ!?」

 突然浮いた光一の身体が重力の置き場を見失う。おそらく地面から一メートルほど離れた状態だろう。空中でなんとかバランスを立て直した光一は、再びイリアに目線を向けた。

「『飛んで』って……まんまやな」
「他に何があるんだ?」

 呆れ顔の光一に、イリアは不思議そうに首をかしげた。隣ではヒカルが、同じように地面から離れながらもしっかりとした姿勢で立っている。特段驚いているふうでもない。予想通りの展開だったのだろう。魔法の世界で生きる人間にとっては至極当然の考えだったのかもしれない。

 イリアが「行くぞ」と声をかけ、足元の風圧が一層強くなる。押し上げられた三人はぐんぐんと地上から距離を離し、文字通りあっと言う間に目標の高さまで届いた。

 光一はつい興味本位で下を見てしまったのだが、すぐにひどく後悔した。自分の体重を支えているものが「魔法」という目に見えない力のみで、今自分は命綱もなく高層ビルの上部に浮いているのだ。足の下に自分の視界を遮るものは何もない。さっきまで踏みしめていた地面が遠いながらも鮮明に映り、思わず膝が笑った。

「これ……時間切れとか……ないねんな?」
「私の集中が切れない限り魔法も切れないから安心しろ。……くしゃみが出たらすまんな」

 ひゅっと血の気を引かせた光一の顔を見て、イリアは満足そうに「冗談だ」と笑った。やっぱり冗談も言うんじゃないか、と青い顔のまま光一は心の中で毒づいた。



 そこから建物の中に入るのは存外簡単だった。ヒカルに言われた通りの場所をイリアが拳で叩き、派手に割れた窓から侵入するに至った。光一が靴の裏に刺さった小さなガラス片をほろっている間に、イリアは一人でつかつかと奥へ進んでいってしまった。

 中は円形のホール状にひらけており、壁を縁取るように螺旋階段がぐるりと続いている。イリアは下を目指して降りて行った。

 床を踏み、ざらざらと滑るような感覚がなくなったのを確認した光一は一度ゆっくり息を吐いた。おそらくこの建物のどこかに、賢斗がいる。やっとここまでたどり着いた。

 イリアに続こうと光一が下の段に足を踏み込んだ時、それまでじっと黙っていたヒカルが光一の背に向けてぼそりとつぶやいた。

「あんたはさ、今回の……アイツの本体を無事に保護することが出来たら、向こうの世界に戻るんだよね」

 予想外の質問に光一の足が止まる。振り返るが、ヒカルの表情からは何も読み取れない。向こうの世界というのは、元居た世界のことだろう。それは当然のことだ。そのためにここに来たのだ。

 だけど何故だか、それを口に出してしまうのはひどく寂しいことのように感じた。

「え……まぁ、そう……なるやろな」
「……この世界のことは忘れることになっても?」
「……え」

 漠然と、賢斗を助けたらそれでゴール、ゲームクリアだと思ってここまで突き進んで来た。そのあとのことは具体的に考えたことはなかった。

 鏡界に来てすぐのころ、記憶を消すという話をイリアとケントがしていたような気がする。魔法がある世界だ。おそらくそういったことも実際に可能なのだろう。本当に自分の記憶がなくなってしまうことは考えてもいなかったが、確かにここでの記憶を持ったまま元の世界で暮らすのはおそらく色々と、イリアの言葉で言うと『この世界にとって都合が悪い』のではないだろうか。

 ここで起きたこと、出会った人、全て忘れてしまうかもしれないのか。急に、頭の後ろを流れる血液がヒヤリと冷たくなるように感じた。

 言葉を返すことができない光一から目をそらし、ヒカルが再び口を開く。

「……ごめん。多分余計なことを言った。あんたが背負うべき問題じゃなかった。八つ当たりだ。……今の発言は忘れて」
「忘れられるかい! それこそオレの記憶から消してくれや!」
「オレにはそんなこと出来ない」
「なんやねんお前……」

 埒が明かない上に意味のわからないヒカルの言葉に光一は眉をひそめる。だが、ヒカルの言葉を無視する気は起こらなかった。光一が彼と出会ってから初めて、上辺ではない会話ができたような気がしていた。


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