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角を曲がった瞬間、光一が見たものは別世界だった。つい先ほど通ってきたばかりの道だというのに、先ほどとは様子がまるで違う。この辺り一面の道路が、まるでスケートリンクのように不自然に凍り付いていた。
「なんやコレ……」
ところどころ、地から伸びた氷が鋭くそびえ立っていた。つららが地面から生えてきているかのようだ。ザラついた、粒子の荒い空気が肌にまとわりつく。光一はすっかり変わり果てた道に困惑しながらも、その場にいるはずの親友の姿を探した。
パキパキと、足元で氷の割れる音がはじける。おそるおそる少しずつ進むと、大きな氷の陰に黒い塊が見えた。それは学ランを着た少年だった。光一は少しの安心感を覚え、急いでその少年の元へと向かった。
「賢斗!!」
光一が駆け寄った先には、地面に手をつき今にも崩れ落ちてしまいそうな賢斗がいた。立ち膝でなんとかバランスを保っている様子の賢斗は顔面蒼白で、腹部を強く押さえていた。よく見ると上着部分は破れ、中のシャツが赤い液体で染まっていた。それを発見した瞬間、光一の呼吸が止まる。隣に膝をつき、賢斗の肩に手を置いた。
「お前、ケガしとるんか? 何があったんや!」
賢斗はぼんやりとした瞳を光一に向けると、薄く微笑みを浮かべ掠れた声を絞り出した。
「あれ、光一……来るなっつったのにこのバカ……まぁ言っても無駄か」
半ば諦めた口調で話し、賢斗は
「俺もワケ分かんないんだけどさ……とりあえずこの怪我、あいつにやられたってことだけ伝えとくわ」
光一は、目を見開き唖然とした。賢斗が「あいつ」と呼ぶ、視線の先に映ったその姿は光一の想像を遥かに超えていた。そこにあったのは、大きな氷から削り出された氷像のようなものだった。細身の胴体に腹部だけ膨らんだ身体はトカゲ類を思わせる。どっしりとたくましい二本の脚に、鋭い爪が輝きを放っていた。両腕は小ぶりで少々頼りなさげに見えるが、それを補って余りあるであろう背中から生えた巨大な翼が、身体全体を覆っていた。さらに背中からは数本、つららのようなものが突き出している。顔面に埋め込まれたふたつの瞳は、感情のこもっていないガラス玉のようだった。その瞳がギラリと青く光ったかと思うと、横に広い口が大きく開かれた。
『グルォァァァアアアアッ!!』
けたたましい雄叫びが響き渡り、同時に激しい地響きと氷粒の吹き溜まりが辺りを呑み込む。目の前にどっしりと立ちふさがるこの巨大な氷は、よく出来た氷像などではなかった。これは動き、咆哮する。まるでファンタジーの世界でよく見る、架空の生物。ゲーム内で二人が毎日のように戦いを挑んでいる《ドラゴン》という生物に、とてもよく似ていた。
光一は息をのんだ。あれだけ画面の外から見ていたドラゴンは、現実で見るとこんなにも恐ろしいのだ。足がすくみ、声が出ない。いつもボタン操作で動かしているゲームの主人公に、尊敬の念すら抱いた。
「なん……や、アレ……」
光一の喉からかろうじて出た声は震えていたが、もはやそんなことは気にならなかった。賢斗も苦笑いを貼り付け、少しでも恐怖を紛らわせようとしているのかゆるやかな口調で返す。
「すごいよなぁ、動くんだもんそいつ。流石にびっくりしちゃったよ」
「つーかお前、あいつにやられたって……ケガは大丈夫なんか?」
光一はハッとしたように、再び視線を賢斗に戻す。賢斗はひらひらと手を振り、いつも以上に間延びした声をあげた。
「んーまぁとりあえず生きてるよー。ただ出血量は若干多いかもね」
「若干て……どう見てもヤバいやろ」
「だーいじょうぶ大丈夫! 病は気からって言うだろ?」
「病ちゃうぞソレ」
「ナイスツッコミ」
グッと親指を突き立てる賢斗を光一は睨みつけたが、いつも通りの彼の様子に安心もしていた。そのおかげか恐怖心も先ほどよりは薄まり、冷静な思考で前に向き直った。ドラゴンはこちらの様子を伺っているのか、じっとこちらを見据えたまま動かない。野生動物の如きその気迫に、隙は一切見当たらなかった。全身から大粒の汗が噴き出す。周りの空気はどんどん凍り付いているようで、寒さに手足がかじかむ。氷粒が混じる強風は刻一刻と威力を増している。このままこの場に固まっていれば凍死してしまうだろう。ジリジリと脳の神経が
「賢斗、動けるか?」
光一が問いかけると、賢斗は自らの傷を確認した。一番深い腹の
「走るのは厳しいかも、ごめん」
へらへら笑う賢斗を見て、光一は苦い顔をする。見た限りすぐにでも医者に診せなければならないような傷だ、走ってこの場から逃げるというのは当然無理だろう。
考えているうちに、ドラゴンが再び雄叫びをあげた。辺り一帯に地響きが轟く。このドラゴンが発する声は、何故か光一の不安を異様に
光一はなにかないかと、学ランのポケット内を探った。いつのものか分からないお菓子のゴミがカサカサと音を立てる中、右手が硬い物に触れる。何気なくポケットから出してみると、それは小型のライターだった。何故こんなものが、と思ったが、すぐに経緯を思い出し口元を緩めた。賢斗もそれに気付いたのか、わざとらしくズルい表情をしてみせる。
「あれ光一くん、未成年が喫煙ですか?」
「アホ、こないだ教室で花火大会やろう言うたんお前やんけ」
「いやー、あの時のおりぴーの顔ほんとウケたよなー」
少し前の出来事を思い出し、光一の胸に温かいものが込み上げる。ドラゴンの冷気によって異常に乾燥しているこの空気も、火を使うにはむしろ好都合だ。光一はぐるりと周りを見渡し、ある場所に目をつけた。
「……賢斗、お前ん家の隣にある畑、燃やしてもええかな」
光一の言葉に、賢斗は目をぱちくりさせる。光一の視線の先には、広大な畑があった。そこは手入れされている様?
子はなく、背の高い雑草類が生い茂っている。やがて賢斗は勢いよく吹き出し、腹を抱えて大笑いしだした。
「あっはは、いいねぇさすが光一! スケールのでかいこと考えるねぇ! いんじゃね、アレ俺ん家の畑じゃねーし」
傷に響いたのか、賢斗はうずくまりながら目の端に溜まった涙を拭いた。光一はそんな賢斗の様子に少しふくれながら、ぼそぼそと言葉を続ける。
「しゃーないやろ、他に燃えそーなモン思いつかんかったし……つーかお前ん家の畑やないんかい、勝手に許可出すなや」
「あそこは俺の父さんが農家に土地貸してるだけだよ。はぁ笑った笑った」
「笑いすぎやろ」
賢斗は笑いが収まると、氷の壁に手をつきながらゆっくりと立ち上がった。光一もドラゴンを睨みつけ、ライターを強く握りしめた。ドラゴンはこちらが行動しようとしているのを察知したのか、目をギラつかせて態勢を整えた。
「アイツ倒したらドラハンやからな!」
「まだドラゴンと戦う気かよ! ったく、随分とハードなチュートリアルだねー」
湧き上がる恐怖心を隠すように、ふたりは軽口を交わし合う。ドラゴンがどんな攻撃を仕掛けてくるのか分からないが、賢斗の傷を見る限り決して楽な相手ではなさそうだ。なにかドラゴンの気を引くものはないかと光一は考えたが、そう考えたのは賢斗も同じだったらしい。いつも通りのゆるい口調で、彼は光一に提案した。
「よし、俺がおとりになるから、その間に光一は畑に向かって全力で走れ」
「はァ? お前、おとりって……立っとるんがやっとのくせになに言うとんねん!」
「それしかないだろ、なんとかなるって! じゃ、よろしくな!」
言い終えると、賢斗は畑とは別の方向に走り始めた。ドラゴンが、突然動き出した賢斗を目で追う。光一が止めようと腕を伸ばすが、賢斗はそれをすり抜け離れた場所にあった氷の壁に身を隠した。ドラゴンは翼をばたつかせ、賢斗に意識を集中させているようだ。
「無茶しおってあのアホ……ッ!」
賢斗の無謀とも言える行動に愚痴を吐きつつ、光一は言われた通り畑へ向かって走り出した。木で作られた柵を飛び越え、畑へ踏み込む。賢斗の狙い通り、ドラゴンは動き出した光一には気付いていない。凍りかけて硬くなった土の上に降り立った光一は、ライターに手をかけた。乾燥した伸び放題の草は、火を点ければ簡単に燃えてくれそうだ。指で着火装置を押すと、ライターから出た炎が草に燃え移る。小さな火種は瞬く間に辺りに広がった。
光一は「よし!」と呟き畑から出ようと走り出した。しかし、その足はすぐに止まる。ドラゴンが炎に気付いたらしい。賢斗の様子を探っていた顔はいつの間にかこちらを向いていて、じっと畑を見つめていた。ドラゴンは軽く息を吐くと、その風は氷をまとった小さな吹雪となった。それは広がり始めた炎を包み込み、燃え上がる炎を瞬時に消し去ってしまった。光一が悔しさから奥歯を噛みしめる。
賢斗が舌打ちをし、氷の壁から姿を現した。
「くそ、お前の相手はこっちだっつーの!」
血のにじむ腹部を押さえ、賢斗はドラゴンに向かって叫ぶ。その声につられ、ドラゴンは再び視線を賢斗に戻した。
ドラゴンは賢斗の姿を確認すると、ゆっくりと口を開いた。また雄叫びがくるのかと光一は身構えたが、どうやら先ほどとは様子が違う。大きく息を吸い込んだドラゴンはそのまま数秒間静止し、やがて口の周りにぼんやりと白い光が集まり始めた。光はみるみる大きくなり、ドラゴンの顔を覆うほどの球体になった。
光一が危険を感じ、賢斗に向かって叫んだ。
「賢斗逃げろ! なんか来るで!」
俯いた賢斗の首筋から汗がしたたり落ちる。痛みが限界に達したのか、動くのが辛そうだ。賢斗は足を引きずりながら少しずつドラゴンから距離をとる。
「なんかってなんだよ……ざっくりしすぎだろ」
ドラゴンは目を見開き、溜めていた光の塊を賢斗に向けてまっすぐに吐き出した。賢斗は後方に飛ぶが、光は今まで賢斗が隠れていた氷の壁に直撃した。砕け散った氷の破片が賢斗を襲い、体を切り裂いた。バランスを崩した賢斗は、地面から突き出た氷に背中から衝突してしまった。背中を打った衝撃で、賢斗は激しくむせ返る。その瞬間、口から出た真っ赤な血液が地面に広がった。
賢斗はふらついた足取りでなんとか身体を支え、ドラゴンを睨みつけた。ドラゴンは早くも二発目の攻撃を打とうと身構えているが、もう賢斗は動くことができなかった。
光一は手に持っていたライターを地面に叩きつけ、近くに落ちていた木の棒をつかみ上げる。こんなものでどうにか出来るとは思ってもいないが、頭より先に体が動いていた。柵を飛び越え、ドラゴンの元へ突き進む。賢斗がなにか言っていたが、光一には聞こえていなかった。
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