3.恥ずかしい
ずいぶん長いこと感情というものに向き合ってこなかったためか、自分の感情はおろか他人の気持ちを推測することも難しくなっていた。
涙は悲しいことだけでなく、嬉しい時にも流れるものらしい。しかし嬉しい時はたいていの場合口角をあげて目を細めるようだ。そして何か苦しいときには眉間にしわが寄り、怒りを抱くと目がつり上がる。
日のでている間は公園のベンチに腰掛け、訪れる人々をじっと見つめ、夜になればテレビをつけてドラマなどを鑑賞し表情筋の観察を行っていた。そしてだいたいの感情に伴う表情の変化を把握できるようになっていた。しかし、私には今どうしてもわからないことがあった。
玄関の鍵を開ける音がした。手に持っていたリモコンでテレビの電源を落とし、大きな歩幅でそちらへ向かった。
「おかえりなさい」
「……おう」
眉根は寄せられている。目を細めている。上唇と下唇を何かを押さえつけるようにくっつけ、口角は下げている。声色は柔らかい。
体調が悪いわけでも、怒っているわけでもなく、動作は穏やかだ。
66号は家に入る際、いつもこのような表情をする。「緊張」だろうか、とも考えたがここは彼の自宅だ。むしろこの条件の場合、緊張する可能性が高いのは部外者である私の方だ。ますます彼の表情が謎を極めてきた。
「プリン買ってきたけど食うか?」
「いただきます」
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次の日も私は公園へ訪れ、日課である表情の観察を行なっていた。ブランコや滑り台で遊ぶ子供たちの顔を見つめ続ける。砂の城の完成に飛び跳ねて喜ぶ子供、遊具の取り合いをしてぎゃんぎゃんと言い争う子供、転んで膝小僧に擦り傷をつくり大声で泣く子供。
この公園は様々な表情で溢れているが、やはり無い。66号のあの表情と類似したものをじっくりと探すが全く見つけられない。
「さっぱり分かりません……」
これ以上どこで何を探ればあの表情の意味を理解することができるのだろうか。すっかり行き詰まってしまった私は、砂でできた城のてっぺんを見つめてため息を吐いた。
そうしているうちに、母親と思われる女性たちが訝しげな顔をこちらへ向けながら、自分の子供を引き連れてそそくさと去っていった。眉間にしわを寄せているという点で66号と共通しているが、彼とは目元の雰囲気が違って見えた。
「分からない……」
がくりと項垂れて、足元の蟻の行列を見つめる。考えるとは、自分で何かを探し求めるということは、こんなにも難しいことだったのか。
また一つため息をつくと、視界の端に白くふわふわした何かが映った。顔を上げると、犬のような形をした生き物が私の前に座り込んでいた。
「新生物……いえ…怪人……?」
「新生物でも怪人でもない、ヒーローだよ」
番犬マンっていうヒーローネームでやってるんだけど、と言われたが66号以外のヒーローを知らないため参考にはならなかった。私もたまにはドラマ以外のチャンネルを回して、世の中の情報を把握していくべきなのだろうか。
ヒーローとは人間が請負うものだと認識していたので、目の前のふわふわした生き物を頭からつま先までじろじろと観察してしまった。
犬だとしたら口にあたる部分に人間の顔がはめ込まれている。なんと不完全なキメラだろうかと思わず首をひねったが、これはキメラでも何でもない、犬の着ぐるみを身につけた人間のようだった。
「鬼のような形相をした女がベンチに座り込んだまま動かないって通報を受けて来たんだけど」
鬼のような形相。つまり思い悩むあまりそれが表情に出たということなのだろう。
「そうですか……良かった……私も進歩しているんですね」
「何ホクホクしてるの」
番犬マンは四足歩行でベンチにひょいと飛び乗り、私の隣にのっしりと座った。
「不審者じゃないなら帰ってもいいんだけど、なにか悩んでるなら聞くだけ聞くよ」
「ヒーローとは人生相談も承っているのですか」
「普段はやってないけど、なんか君ほっといたら悩みすぎて怪人になりそうだから。眉間のしわがすごく怖い」
そう言って彼は前足を私の額に押し付けた。肉球らしき柔らかい感触がぐりぐりと私の眉間を圧迫する。
「……それでは、聞いて頂きたいのですが」
「うん、なに」
「同居人の気持ちが理解できません」
「現代文の読解問題みたいだね。ええとね、そりゃその人の気持ちなんて、その人にしか分からないんじゃないの」
「しかし、ある程度推測して、理解したいと思うのです」
なぜそのように思うのか、理由は自分でも分からないけれど。従うだけの道を外れ、自分で考えることが増えてから分からないことだらけだ。
「……そうだなあ、理解に一番必要なのは、まず相手の立場に立つことじゃない?」
「相手の立場に立つ、ですか」
「全然違う方向よりも、同じ方向から見た方が似たものは見えると思うよ」
物事の視点を変えるということだろうか。66号の視点に立って考えると言っても、彼の視点はどこにあるのだろうか。まず彼の立場に立つために家主と居候の関係を逆転させるべきなのか、とまで考えたところで番犬マンがベンチを降りた。
「今日は珍しくまともなこと言っちゃった」
「ありがとうございました、参考にいたします」
「うん、気をつけて帰ってね。近くで怪人の匂いはしないから大丈夫とは思うけど」
番犬マンはすんすんと鼻を鳴らして、辺りを見回す。そして立ち去り際に私を振り返った。
「まあ何かあっても、君の同居人だったら助けに来てくれるだろうしね」
そう意味深な言葉を残し、白い毛並みを風になびかせながら彼は行ってしまった。
気付けばもうすっかり日が暮れていた。人通りのない住宅街はひどく閑散としており、ちかちかと点灯を繰り返す外灯ばかりが存在感を放っている。
66号はもう部屋へ戻っているだろうか。私は今朝来た道よりも最短距離を選んで駆け出した。
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「おかえり、遅かったな」
66号が穏やかに笑う。煙草を吸っていたのか、ほのかにそれの匂いがした。
「……ただいま、戻りました」
なんだろうか、この感覚は。なんと形容すればいいのだろう、なにか、体中が――
「かゆい……」
「は? なんだ虫さされか?」
「いえ、これは痒いというより……むずむずするというか……」
「……草むらにでも飛び込んできたのか?」
風呂ならわいてるぞ、と訝しげな顔をする66号に返事をする余裕もないほど私は自分の中で起こっている異変の原因を突き止めることに必死だった。むずがゆい。そわそわする。居心地が悪い。しかし不愉快とは違う。くすぐったい。
「これは……はずかしい…とは違う……これは……」
「?」
「……照れくさい」
その言葉を口にした途端、パズルのピースがかっちりとはまったような心地がした。照れくさい。これだ。
「分かりました、66号が帰宅する際にいつも見せるあの表情は”照れくさい”です」
「は!?」
「同じ立場で物事を見るというのは大切ですね」
「おい一人で納得してんじゃねえ何の話だ」
「66号が帰宅する際にいつも見せる表情の話です。むずがゆさの中に嬉しさと似たような心地を覚えました。複雑な感情ですね」
先ほど「おかえり」と言われた瞬間に生まれた感情を言葉で表現していると、66号が頭を抱えた。
「具合が悪いのですか?」
「今まさに”照れくさい”通り越して”恥ずかしい”を味わってるところだ」