「俺が悪かったって、いい加減に泣き止めよ」

 そんな風に謝られたって何もかも遅いのだ。壊れてしまったものはもう元に戻らない。
 目の前の男は疲れ果てたように慰めの言葉を私に掛け続けるが、まるで無意味だった。

「…お前だって前に進むべきなんだ」

 そう言われても先がまるで見えなくなってしまった私には、どこへどう進めば良いのかなんてもう分からなかった。宥めるように背中を撫で続けていた彼の手を思い切り振り払う。

「じゃあメガネ弁償しなさいよハゲェ!!」
「うっせーハゲで悪いか!!」

 私のカスみたいな視力では世界がぼやけてしか見えないのだ。目の前のこいつだって輪郭がはっきりしないから肌色の電球だかゆでたまごに見える。本人もそれなりに気にしていたのか光の速さで言い返された。

 分かってる、このハゲは命の恩人だ。憎むべきは家を出てすぐに出現しやがった怪人なのだ。それでも、それでもこの憤りを誰かにぶつけずにはいられなかった。

 ヒーロー協会での慣れない仕事を早くこなせるようにと休日を返上し働き続けて数ヶ月。
 自分へのご褒美に憧れていたブランドのメガネを購入し、出来上がったのが昨日のことだ。使用して一時間も経たないうちに、私のメガネは塵と化した。
 揺れる地面に足がもつれ、転んだ拍子に外れたメガネがどこかへ飛んでいったのだ。ハゲの繰り出した一撃で吹き飛んだ怪人の肉片や、崩れ落ちてきた瓦礫の中から拾い集めた私の元メガネは、見るも無惨な姿に成り果てていた。

 ハゲが私の両手にある残骸を覗き込みながら「…ちなみにいくら?」と尋ねるのでぼそぼそと金額を口にした。フレームは高級ブランドの数量限定ものでレンズは遠近両用の極薄型にカスタマイズしたえげつない値段のマイメガネ様。ハゲは一気に青褪める。
 ゆっくりと財布を取り出すが、小銭とレシートくらいしか入っていないようだった。

「いいよ…さすがに命を救ってくれたハゲの貧乏なヒーロー様にそんな大金を要求できないって…」
「あの…少しはオブラートに包んでくれる?」

 これだけ原型を留めていないとなれば修理できるはずもないので、私は諦めて元メガネをその場に散らした。

「そういえば、ちゃんと協会に報告したの?」
「あ? 何の?」
「怪人を倒したんだから報告しなさいよ、ランキング上がらないでしょ」
「いいよ別に」
「よくない! じゃあ私が代わりにしておくから、あんたヒーローネームは?」
「…ハ……本名はサイタマだ」
「ヒーローネームだってば! …もう、じゃあハゲとマントが特徴のヒーローって伝えておくから」
「やめろ!!」

 やけにうるさいハゲを無視して携帯を取り出し協会に連絡する。本部に確認をとってみると、どうやらこのハゲはハゲマントというB級7位のヒーローだったらしい。
 通話を終えて振り返ると、ハゲマントは瓦礫の上に座り込んでいじけていた。

「だから嫌だったんだよ名乗るの…」
「そのまんまだね…」
「誰だよこんなヒーローネームつけた野郎は!」

 ヒーロー協会の偉い方々だから感謝しなさいと言いたいところだけど、さすがにこれは同情を禁じ得ない。

「私は入りたての下っ端だから特に力になれそうにはないけど…機会があれば一応ヒーローネームの変更を持ち掛けてはみるよ」
「ああ…よろしく頼むぜ…」
「じゃあね…っと、いたっ」

 立ち上がった瞬間パンプスのヒールが根本からぼっきり折れた。見えなくても感覚で分かる。構わずに歩き続けようとすると、今度は瓦礫か何かに躓いたのか盛大に転んだ。

「おい何やってんだあぶねーな」
「家に帰るの、協会にはそのことも伝えたから」
「いやそんなのどうでもいいわ、生まれたての子鹿みたいだぞお前」

 大した距離もないけど、すぐさまハゲマントが駆け付けて倒れこんだ私の身体を起こす。

「見えないならそんな危なっかしいもん脱げよ」
「誰がこんな身体にしたと思ってるの? 責任とりなさいよ!」
「誤解を招く言い方すんな!」

 この上なく不本意だけど、視力が当てにならない今は十センチ超のヒールが役に立たないどころか邪魔でしかないことは確かだ。すっかり傷がついてしまったようだし、これも修理するのは無理だろうから脱ぎ捨てていくしかない。
 渋々お気に入りだったパンプスを脱いで瓦礫まみれの地面に立つと、ハゲマントが私の前に立ち塞がったまま動かない。どうやら私をまじまじと見つめているようだった。

「あの……何?」
「お前…身長ひっくいな」
「えっ」
「さすがにタツマキよりは高いのか? しかし靴とったら中学生に見えるな」

 人が気にしていることをずけずけと!
 地雷を踏まれて一気に頭に血が上った私はハゲマントを避けてさっさと歩き出した。コンクリート片を思い切り踏みつけた。

「痛い!!」
「あ…考えてみりゃこんなとこ裸足で歩いたらあぶねーぞ」
「あんたが脱げって言ったんじゃないの!」

 じんじん痛む足の裏を見てみると、かかとに血が滲んでいる。おまけにストッキングもあちこち伝染して酷い有様だ。

 三年勤めたブラック会社から逃げ出して、やっとの思いで憧れていたヒーロー協会に入った。そりゃ大変なのは分かっていたし、報われない事もある、こうして危ない目に遭うという事も覚悟していた。それでも、いざ災害に巻き込まれてみると何とも言えない、疲労のような悲しみのような、よく分からない感情が込み上げてきた。
 痛いしメガネは壊れるしものすごく怖かったし死ぬところだったしスーツも汚れたし何も見えないし、もう、もうやだ。

「うううう」
「え? 何? 泣いてんの? そんなに痛かったのか?」

 私はその場に座り込んで、声を上げてみっともなく泣き始めた。混乱してぐちゃぐちゃになった頭の中とは別のどこかで、以前救出した子供みたいだと泣き喚く自分のことを冷静に見ていた。
 こうして泣いている人の助けになりたかった。人々のために戦ってくれるヒーローの役に立ちたかった。
 それがこうして訳も分からず泣いている自分が情けなくて、また泣けてくる。

「ああ、なんだよもう…あ〜〜〜〜……、とりあえず、ほれ」

 ぼろぼろと溢れる涙で更に悪くなった視界で何かがうごめいている。目元を袖で擦って、ぎゅうっと目を細めて見てみると、ハゲマントがこちらに背を向けた状態でしゃがんでいるようだった。

「えっと…なに?」
「なにじゃねえよ、おぶってやるから乗れ」
「…そのうち救助隊も来るだろうし、いい」
「駄々こねんなよ子供かお前は」
「うっさいハゲ!」
「蹴んなチビ!」
「あれ、うわ、これ背中? 筋肉? かったい」
「グリグリすんじゃねーよ! いいから早く乗れ!」

 結局、救助隊を待つにも周りのビルが崩れかねないという理由でおんぶで送って貰うことになった。ますます子供みたいだな、とひっそり自嘲する。
 おぶさるのに滑って邪魔だからと外してもらったマントは、私の肩に掛けられている。
 
 裸眼の私にはシルエットくらいしか分からなかったけど、こいつは熊のような大男ではなかったはずだ。それなのに災害レベル鬼くらいの脅威であっただろう怪人をパンチ一発で倒してしまうとは、このハゲは一体何者なんだろう。
 近距離にしてようやく見えるようになった後頭部はやっぱりつるっとしていた。それと、首や肩は意外にがっしりしている。密着してみて分かったけど、背中や腰や腕も、よく鍛えられていて頑健そうだ。

 一定のリズムに揺られながら目をつぶる。砂利や瓦礫を踏む音。先ほどの、恐ろしい光景がまざまざとまぶたに浮かんだ。見上げるほどに巨大な異形の怪人、それに破壊される見慣れた街並み。自分が災害から生き延びたことを改めて思い知り、緩んだ涙腺からまたぼろぼろと零れ出す。
 首に涙が落ちて冷たい、と文句を言われたけどどうにも止められそうになかった。べそべそ泣きながら大きな背中に顔も埋めた。


「ありがとうハゲマントさん…」
「あの…ハゲマントって呼ぶのやめてもらえる?」


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