2.嬉しい

感情を取り戻すと言っても、一体どんなアクションを起こせば良いのか私は考えあぐねていた。何を行動すれば良いかを一週間ほど考えて考えて考えて考えて、とりあえず自分というものを省みることにした。

 まず現状として、私は何をすればどんな感情を抱くものなのかすら思い出せなくなっている。最初から感情が無かったわけではない。押し込めて押し込めて、表に出さないようにしただけである。
 ここまで考えて、新鮮そうなねぎをカゴに入れる。ジーナス博士に買い出しを任された私はとなり町のスーパーまで足を運んでいた。
 元々、私にだって感情はあったらしい。思い返してみるとそうだったような気もする。なぜ感情を忘れようとしたのか。進化の家の被験体として過ごす日々が苦痛で、何も考えたくなくなったから。
 自分の記憶を辿って得た情報はこんなところだ。ここまで自分で納得し、新たに問題を提起した。先日、私が抱いた感情についてだ。
 デザートコーナーに陳列されたプリンを見て、再び妙な感覚に襲われた。これが悲しみというものだろうか。喉がぎゅうと締め付けられるように苦しく、みぞおちから心臓部にかけて突き刺さるような痛みを感じる。ような気がする。
 カゴにプリンを四つ追加して、レジで精算を済まし店を出た。

 最後に食べたプリンは十年前。サンプル66号が研究所を破壊して脱走した日だ。
 66号は私と歳の近い男の子だった。感情を捨てようとしていた私と違って、彼の目にはいつも進化の家への憎しみが宿っていた。
 不死身シリーズ唯一の成功例であった彼は、他のサンプルよりも実験の回数が多かったように思う。刺殺毒殺撲殺斬殺絞殺爆殺、毎日のようにありとあらゆる方法で殺されていた。そしてその度すぐに彼の身体は何事も無かったように復元した。
 66号はよく同じ部屋で管理されている私に話しかけてきた。内容はよく覚えていないが、被験体として生きることが辛くないのか、ここから出たくはないのかといった話だったと思う。そうして私自身が何と答えていたのかも覚えていない。必要が無いからと今まで思い返さなかったせいか、記憶は非常に曖昧なものになっている。

 十年前のあの日の記憶を掘り起こしていると、何かに躓いて派手に転んでしまった。咄嗟についた腕がコンクリートに擦れ、放り出されたエコバッグから先ほど買ったものが転げ出る。ねぎは折れていないだろうかと地面に這いつくばったままそれらを見つめていると奇妙なことに気がついた。
 なぜプリンが四つあるのだろうか。たこやきの家で待っているのはジーナス博士とアーマードゴリラ。この二人に私の分で三つあれば足りるはずなのに、これでは一つ余ってしまう。というか、そもそも何で私は頼まれてもいないプリンを購入したのだろう。殆ど無意識にカゴに入れて、なぜ一つ余分に――

「そこの君、大丈夫かっ!!」

 溌剌とした声が響き渡り、倒れこんだままの私の前に誰かが跪いた。

「はい大丈夫です」
「どこも怪我はないか!?」
「はいありません」

 ゴーグルを装着した男は私を立たせてどこも損傷していないことを視認すると、急いで散らばったネギやプリンを拾い集めた。埃を払ってエコバッグに戻した後、それを私に握らせる。

「怪我がないようなら良かった! 気をつけて帰りたまえ!」
「はい、わかりました」

 そして男はママチャリに跨り颯爽と去っていった。周りにいた人間の「C級の無免ライダーよ」「さすがヒーローね」という会話が耳に入る。ヒーロー。あれがヒーローというものか。
 そういえば進化の家にも過去に何度かヒーローが訪れたものだ。ジーナス博士の研究を悪だと言って施設を破壊しに来た人間たち。私も何人か撃退した覚えがある。
 そこで考える対象が「善悪とは」にシフトした私は先程までの命題を忘れ、いつの間にか博士たちが待つ家までたどり着いていた。

「ただいま戻りました」

 エコバッグを肩にかけたまま居間へ入ると、ジーナス博士は何者かに刃物を突き付けられていた。
 即座にそいつを敵とみなし、手首ごと刃物を奪い取った。

「大丈夫ですかジーナス博士」
「65号、以前も言ったが私はもう生に執着はない。護衛の必要もないんだ……ああ、畳が血で汚れたじゃないか」
「申し訳ありません」
「クソ……相変わらず手荒だな」

 千切れた左手から血を噴き出しながら、呆れたように男が言う。くたびれたコートの内側から煙草を取り出して咥えると、片手で器用に火を付けた。

「覚えていないか65号? 66号だよ。世間ではS級ヒーローのゾンビマンと呼ばれているらしいがね」

 その瞬間、せき止められていた記憶が一気に溢れ出すように蘇った。66号。プリン。脱走。あの日のことがまざまざと瞼に浮かんできた。


+++++++++++++++++++


「俺はこんなところ絶対に抜け出してやる」

 三十分ほど前に焼き殺された66号は、どこで手に入れたのか様々な武器を手にして帰ってきた。そして脱出方法と破壊すべき新生物、施設を出た後の逃走経路など私に伝えた。

「お前の怪我も治りきってないから辛いかも知れない、でもその分俺が守ってやるから」
「なんでここから出るの?」
「なんでって……ここから出たくないのかよ?」
「なんで?」
「ここから出られればもうあんな化け物と戦わなくていいんだぞ!?」
「そう」
「…お前……この間まで痛いって……こんなの嫌だって、……言ってただろ」
「……そう?」

 首を傾げた私を見て、66号がうろたえる。暫く逡巡するように黙り込んだ後、覚悟を決めたのか彼は床に座り込んでいた私の手を掴んで走り出した。

「もういい、とにかく逃げるぞ!!」
「でも」
「何だよっ!?」

 施設の中を夢中で走りながら、振り返りもせずに66号が叫ぶ。どんどん私たちの部屋が遠ざかって行く。私はこの時、小さな恐怖を感じていた。命じられた以外の行動をすることに、自分の足で走り抜ける66号に。

 そして66号は、私を置いて行ってしまった。「今日のおやつプリンだよ」と立ち止まる私に「お前なんか一生実験体やってろ!!」という捨て台詞を残して。

 ぼろぼろに破壊された研究所で「優秀な素材だったな」とどこか満足気に呟くジーナス博士を眺めながら、瓦礫の上でそっとプリンを口に運んだ。何の味もしなかった。膝の上にのった二つのプリンを力の限り振り払うと、近くにあった瓦礫ごと吹き飛んでジーナス博士のクローンが何人が犠牲になった。

「ジーナス博士、身体の内部に違和感があります。どこか損傷したかも知れません」
「……それは泣くほど痛むのか?」

 そう言われて自分の頬を触ってみると、涙でびしょびしょに濡れていた。少し苦しさを覚えるだけで、激痛ではないのに。涙はその後もしばらく止まらなかった。
 

+++++++++++++++++++


「とりあえずよ、それ返してくんねえか」

 66号は紫煙をくゆらせながら、左腕の切断面をこちらに向ける。私ははっとして、ゆっくりと彼の左手を差し出した。ぐちりと肉の交わる音がすると、それは瞬く間に治癒した。
 くっついた左手がちゃんと動くかどうか、拳を握って開いてを数回繰り返す。そして問題ないことを確認した66号はにやりと笑うと、私の手をしっかり掴んだ。

「遅くなっちまって悪ィな、迎えに来たぜ」

 なぜだかそれが十年前のあの日と重なって、胸の奥がじわりと熱を持った。どうすれば良いのか判断のつかなくなった私は振り返って博士を見たが、穏やかに笑っているだけだった。アーマードゴリラも何も言わない。

「…………」
「……65号」
「っ、はい」

 何も言えなくなってしまった私に、ようやく博士が言葉をくれた。

「言っただろう、自由に生きて構わないと」
「……自由とは、何ですか」
「好きな生き方をして良い」
「好きとは何ですか」
「さあ、それは君次第だ」

 畳に血ではない何かが滴り落ちる。自分の頬を触ってみると、涙でびしょびしょに濡れていた。

「……これはどういった感情なのでしょう」
「さーな」

 66号が天井を仰いで、ふうっと煙を吐き出す。

「嬉しいんじゃねえの」


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