1.悲しい
自分が何者であるかなんて、とっくの昔に考えるのをやめていた。答えを突き止めたところで無意味だからだ。私がどこで生まれたのか、もしくは作られたのかなんて覚えていない。ただあるのは今だけだ。
進化の家は壊滅した。たった一匹の現人類の拳によって、人工進化の最終形態である阿修羅カブトと共にジーナス博士の思想は消し飛ばされた。
「君ももう自由に生きて構わないんだぞ」
ジーナス博士は私にそう言ったが、私にはその自由というものが分からない。私には望む生き方というものはない。そもそも今まで縛られて生きてきたつもりもない。昔の私には進化の家で生きる時間が苦しかったとか辛かったとか、何か思うことがあったのかも知れないが、今の私にはそれすら分からない。思い出せない。
感情という煩わしいものを、ずっとずっと前に麻痺させたままここまできてしまった。何も感じない方が楽なのだと昔の私は考えたのだろう。
ともかく、今の私には望むものも失うものもない。生きているから生きている。ジーナス博士がたこ焼き屋を始めたから私も手伝っている。ただそれだけなのだ。
「お待たせしました、ソース多めの青のり抜きです」
野望を捨てたジーナス博士は、自分のクローンを作ることをやめた。あれだけあった同じ顔も今では一つしかない。旧人類撲滅用精鋭戦力も作りかけだった人工新生物も施設ごと焼却された。だからジーナス博士の本体と、壊されなかったアーマードゴリラと私でこの「たこやきの家」を回している。
今日の分の材料がもう無くなったことを博士に告げると、「じゃあもう店じまいだ」と言って片付けを始めた。私もそれに倣って器具の掃除を始める。すると博士は手を動かしながら独り言のように話し始めた。
「65号にはやりたいことが無いのかい?」
「やりたいこととは何ですか?」
「いやこっちが質問しているんだ」
「私が何かしらの行動を起こしたいという欲求を抱いているか、ということですか?」
「やはり君と会話するのは面倒だな。知性を失うような改造を施した覚えはないんだが……まあ心を閉ざすというのも、自己防衛本能から起こるある種の進化なのかも知れないな」
ジーナス博士は何かを思い出すように遠くを見て、くくくと笑った。
「では好きなものは無いのか?」
「好きなもの」
すきなもの。
「好きとは何ですか」
「えらく中学生じみた会話になってきたな。それと、質問には質問で返すものではない」
「65号はプリンが好きだったろう、ずっと昔のことだが」
一向に進まない会話に痺れを切らしたのか、アーマードゴリラが口を挟んだ。
「プリン」
「覚えていないか?」
アーマードゴリラが言うには、彼の記憶の中の私は既にリアクションの薄い子供だったらしい。それでも食物に対する関心は今よりはあったらしく、プリンを与えると心なしか嬉しそうに受け取っていたという。
「プリン」
卵と牛乳でできたあの甘いデザート。考えてもいなかったが、あれを最後に食べたのは十年前だ。なぜ食べなくなったのだろうか。最後に食べたプリンは確か――
「ジーナス博士」
「何だい」
「プリンについて考えていたら突然身体の内部に異変が起こりました」
「どんな風に」
「上手く説明することができません、胸部の辺りが……モヤモヤする、と言うのか、苦しいと言うのか」
「……私が推測するに、それは悲しんでいるんだろう」
「なぜですか」
「そのくらいは自分で考えたまえ。君は感情を知らないわけではないんだ、目をそらし続けて忘れただけで」
「はい、分かりました」
「……そうだな、君の当面の課題は”感情を取り戻すこと”にしよう。これ以上煩わしい会話はしたくない」
こうして新たに行うべきことを与えられた私は、試行錯誤の日々を迎えることとなった。