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聞こえたチャイムの音で立ち上がり、壁に手を当てながら玄関へと向かった。
視界は変わらずぼんやりと滲んだままなので、足取りがおぼつかない。
自分の家だ、すっかり歩き慣れていてあらゆる物の位置や距離などもう感覚で覚えている。目をつぶっていたって問題なく移動できるとは思うけど、何かを踏んでしまった時の危険性を足の傷の痛みが強く訴えていた。
無事に玄関まで辿り着き、目をぎゅうぎゅう細めながらドアを開けた。
「おはよ…ってすげー顔してんな」
「こうしてると少しは見えるの」
ドアの外にまず見えたのは肌色のマッチ棒みたいなシルエット。命の恩人であるB級ヒーローハゲマントさん。
彼は直接的でないにしろ、私の眼鏡を割ってしまった責任をそれなりに感じていたようだ。私を家まで送り届けた際に「明日時間あるなら、眼鏡買いに行くの手伝うから」と言ってくれたので有難く頼らせてもらうことにした。裸眼の状態で外を出歩くなんて一人じゃとてもできない。
少しでもスムーズに行動するために財布を入れたバッグはもう持った。あとは靴を履けばいいだけなので、なるべくヒールの低い靴を手で触って確かめながら探す。
「お前そんなに見えてないの? スペアとか持ったらどうだ」
「持ってるけど見つけられないんです」
どの辺にあるかは見当がつくけど、焦点がまるで定まらない今は手探りで見つけるしかない。そんな労力も残っていなかった昨日はお風呂から出るなり倒れるように眠ってしまった。今朝だって準備をするのにずいぶん手こずったのだ。
ぎりぎり十センチいかないだろう靴をようやく見つけ出し、それを履いて立ち上がった。さて出掛けようと改めてハゲマントさんの方を見ると、さっきは気付かなかった人物が目に入った。
「…えっと、ハゲ…」
「サイタマ」
「サイタマさん、そちらは?」
後ろに、彼より少し背の高い人が立っている。体つきからして男性のようだ。ぼやけた輪郭でも分かるくらいがっしりしている。
「ああ…まあこいつは」
「弟子です」
「うんそう弟子だよ…」
B級で弟子持ち!?
ヒーローがチームを作ることはまあ珍しいことじゃない。一人で怪人や犯罪者に挑むよりも数で戦った方が勝率も上がるし、更に凶悪な敵に立ち向かうことができる。
サイタマさんと同じB級のヒーローである地獄のフブキも、フブキ組と称した派閥を組んでいる。だけど彼女はB級一位だし、そもそも敢えてその位置に留まっているだけで実力はもっと上を目指せるヒーローであることは協会でも周知の事実だ。
B級七位と言えば充分ヒーローとして活躍していることは分かるし、実際サイタマさんはわけが分からないレベルで強かった。それにしてもB級である彼にわざわざ弟子入りする人物がいるのか……。
何やら物珍しくなって貧弱な視力を駆使しながら見つめていると、金色の髪と血の気を感じさせない白い肌が気になった。なんとなく見覚えのあるシルエットに、見えるまで顔を近付けてみる。
「……鬼サイボーグ!?」
「…そうだが、顔が近い」
言われてみれば鼻先が触れ合いそうな距離だった。さすがに近付き過ぎた。サイタマさんが私の首根っこを掴んで「嫁入り前がはしたねーぞ」と棒読みで言いながら引き離す。
鬼サイボーグ、というかジェノスは今一番注目されている新人ヒーローだ。実力的にも、アイドル的な意味でも。精悍な顔とクールな立ち振舞で女性を中心にファンを増やしている。実を言えば私も一度会ってみたいとか思ってた。
なんでB級ヒーローのサイタマさんがS級の彼を弟子にしているのかますます分からなくなってきた。本当に何者だこの人。
「一般市民の救助だけでなくアフターフォローも怠らないとは……流石です先生!!」
「いや今回は俺の責任だし……ああもうめんどくせーな」
周囲に媚びることなく敵と闘い続ける様子から勝手にストイックで慣れ合いを好まないタイプなのかと思っていたけど、鬼サイボーグことジェノスくんがこんな人物だったとは知らなかった。
改めて思ったけど、私はヒーロー協会の人間なのにヒーローのことを把握できていないことが多すぎる。眼鏡を作ったら、今夜さっそく勉強しなくては。
「それじゃあ行きましょう。駅ビルにすぐ作ってもらえるメガネ屋さんがあったから、そこで」
「おう、駅ビルな」
そう言うとサイタマさんはごく自然に私の手をとって歩き始めた。
「……おお……」
悲しいかな男の人に手を握られるなんて久し振りすぎて思わず動揺してしまった。仕事漬けの日々も考えものだ。
私達の手元に気付いたジェノスくんが「流石です先生!」と褒めちぎり、なぜか最終的に左手を握られ私は捕獲された宇宙人のような状態で歩くはめになった。
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「そもそも眼鏡がこれだけ安く買えるこのご時世になんであんなもん買ったんだよ」
「喧嘩売ってるの?」
「いや純粋に疑問に思っただけ」
「……」
正直な話、私だって眼鏡は自分に合っていれば安くたって良いと思ってる。あの眼鏡にアホみたいにお金をかけたのは、自分で気に入ったということ以外にも理由があった。
陳列された眼鏡の中から好きなタイプのものを選んでかけてみる。用意された鏡をのぞき込みながら一週間前の出来事を思い出してなんとも複雑な気分になった。
「ちょっと……以前かけていた眼鏡を知り合いに酷評されて、あのブランドのものを勧められまして」
「すすめられて買うかあんなもん」
「う…うるさいですよ! いろいろ意地とかあったんです」
あの眼鏡が壊れてしまった以上はあまり思い出したくないことなのだ。おそらくこの安価な眼鏡を購入することで奴からまた何かしらの罵倒を受けるだろうが仕方がない。私にあんな眼鏡をいくつも買うほどの甲斐性はないのだ。
それにしてもこんなにたくさんの眼鏡をかけたり外したりしていると混乱してくる。ぼんやりとこんなデザインが良いという希望はあったが、いざ鏡を前にすると何が合っているのか分からなくなってきた。
「うーん……」
「それいいんじゃねーの似合うし」
「え? これですか?」
五つ目にしてようやくしっくりくるものがあったと思っていたら、ちょうどサイタマさんからも好評のようだった。他人からの後押しも得た私はそのフレームで眼鏡を作ってもらうことにした。
++++++++++
視力検査を終え、眼鏡が仕上がるまでに二時間ほど待つこととなった私達はちょうどお昼時ということもあって同じビル内のうどん屋に来ていた。
「あれなら予算範囲内だし助かったぜ」
「え?」
なぜサイタマさんが眼鏡の予算を決めているのだろうか。それが全く検討がつかないほど私も鈍くなかった。
「い、いやいいですよ」
「これくらいは弁償させろよ、そこまで貧乏なわけじゃねえんだから」
でも、と言おうと口を開くとバッグに入れていた私の仕事用の携帯が震え出した。サイタマさんに失礼と一言告げて取り出すと、同時に店中にけたたましい警報が鳴り響く。
携帯を確認するまでもなく、ヒーロー協会からの緊急避難警報だと勘付いた。するとすぐに轟音と共に激しい揺れが断続的に訪れる。ただでさえ悪い視界がぐらぐらと揺れて、踏ん張りもきかずに私は床に転げ落ちた。
「うわ、ちょ、かい、かいじん!?」
「ほら逃げるから早く立てって」
そう言われても足に力が入らないんだから仕方ないだろう。壁に手をつきながらよろついていると、見かねたジェノスくんが私を抱えて走り出した。あまりのスピードと振動に思わず悲鳴を上げてしがみつく。この感覚を例えるならシートベルトも何もないジェットコースターだ。
よく見えなくても建物内にいる人達がパニックで逃げ惑っているのが分かる。かく言う私も冷静にはなれなかった。
「さささい、サイタマさん、どう、どうしっ」
どうしようと言いたかったはずだけど上手く呂律も回らず、舌を噛んだ痛みで黙り込んでしまった。それでもサイタマさんは私も言わんとすることを察したのか「分かってるよ」と出口へ避難する人々を掻き分けて窓際へと走っていく。
「ジェノス、そいつ頼んだぞ」
「はい先生!」
ジェノスくんは私を抱えたまま避難する人々を誘導する。相変わらずぼやけたままの視界では人の流れがまさしく波のようだった。サイタマさんがそんな波の中を一人だけ逆らって突き進んでいく。
すると何か巨大なものがビルの大きな窓を覆い尽くした。怪人だ。こんなのB級の彼が敵うはずがない。
「サイタマさん!!」
「暴れないでくれ」
「だって危ないですよ! 応援が来るまで逃げ……」
「先生なら大丈夫だ」
ビルの窓を突き破って侵入してきた怪人は、サイタマさんの貫くような拳により一瞬で散った。
私の携帯に「A級ヒーローを三人そちらへ向かわせた」と連絡が協会から来た頃には、サイタマさんは汚れたと言ってトイレで手を洗っていた。
++++++++++
あんなことがあったにも関わらず、眼鏡は無事に出来上がっていた。幸いビルは割られた窓以外に損害は無く、ガラスが散らばった場所の周辺以外は落ち着きを取り戻し始めた。
「どうですか?」
店員さんに言われて完成した眼鏡をかけたまま辺りを見回す。突然くっきりした景色に少しだけくらくらしたが、問題はなさそうだ。
「よかった、よく見えます」
「お、やっぱ似合うじゃん」
その声に振り返ると、サイタマさんの姿を初めてはっきりと目に捉えることができた。
頭部の寒々しさからして、サイタマさんの年齢は私より一回り以上は上なのかと思っていたけど、そういうわけではないようだ。レンズ越しのクリアな視界で見たサイタマさんは思っていたよりずっと若く、せいぜい二十代半ばというところだろう。
私とそう変わらないであろう年齢でここまで毛根に大ダメージを受けているとは、あまりに悲惨だ。
「おいキサマいつまで先生の頭部を見ている? 先生は若くしてハゲていることを気にしてらっしゃるんだぞ今すぐに視線を外せ!」
「ジェノスそれフォローになってねーぞ」
「すみませんつい」
凄い剣幕で捲し立てられ、そっと目を逸らす。
眼鏡の代金をサイタマさんが払ってくれて、「眼鏡かけても危なっかしい」という理由から家まで送ってもらえることになった。さすがに手をつなぐことはもうなかったけど、相変わらずヒーロー二人の間に挟まれながらゆっくりと歩を進める。
オレンジ色に染まった街は実に普段と変りなく、交差点は様々な人が行き交う。分かっていたことだ、ヒーロー協会の人間として普通の人よりも分かっていたことなのに、改めて思い知らされた。
どこかで災害が起こっても時間は当たり前に進んでいく。誰かの命の危機も対岸の火事でしかない。最近は雑務が多すぎて忘れかけていたけど、私が足を踏み入れた世界は火事側だったのだ。
「……サイタマさんたちは、何でヒーローになろうと思ったんですか? きっかけとか、あったんですか」
管理する側の私達とは違って、前線で戦うヒーローはいつだって死と隣合わせだ。実際のところ、その点を深く考えずに試験を受けてC級ヒーローとして軽犯罪の取り締まりや人助けをして過ごしている人も大勢いる。
だけど、サイタマさんは臆することなく二度も怪人へ立ち向かっていった。緊張した様子もなかったからきっと何度も怪人と対峙しているんだろう。
私からすれば理解しがたい。火事の中へ飛び込んでいこうと思った理由が、私には検討もつかない。
「きっかけって……お前だろ」
相変わらず何を考えているのかいまいち読めない顔で、サイタマさんが確かに私のことを指さしながらそう言った。
「……はい?」