既望

 真っ白な朝だった。障子を透く朝日はやわく、薄紅の桜と鶯の輪郭を写している。昨夜の大雨は降り止み、ぴつんと雨樋からひと雫、水張りに落ちる音がした。
 山笑う春立つ日とはいえ、雨上がりの朝は未だ寒かろうにと、主人である数馬の肩を、何の助けにもならないがさすってやる。そうすると、数馬に触れられる十分な理由になる気がして。傍に居るのは誰でもなく自分であることを、錯覚できるような気が、して。
 数馬は八重の華奢な躯をその腕にすっかり抱きすくめて眠っていた。細い黒髪越しの額に唇を落としているために、どうしても八重から数馬の寝顔は窺えないが、ただほんのすぐそばで、穏やかに寝息をたてている。

「数馬」

 今朝の最初の一声も、数馬の名だった。吐息に紛れてしまうほどのちいさな声で、毎朝、飽きもしないで声を掛ける。そうして数馬が目を覚まさなかったときも、八重の至福の一時は許された。
 八重は遠慮がちに身を捩り、数馬の首筋に鼻を寄せる。ゆっくりと強く流れる血の音を、あどけない寝息や、小鳥の囀りと重ねて聞いていた。
 自分から、数馬との距離を縮める。たった三寸のことが、八重にはひどく贅沢なことのように感じた。

「……すき」

 消え入る囁きが、この人に届くことはないと知りながら、ほろ、とこぼれる“すき”は、甘い毒だと思う。
 とくとく、とくとく、何処からか入ってきて心を蝕んでいく毒は、あの桜と同じ色を帯びていた。この毒のせいで高鳴る鼓動が、部屋中に喧しく響いてしまいそうで、こわくなって離れる。といっても、八重は数馬の腕に抱かれる身ゆえに、動きは殆どといってないようなもので、身を寄せた分、三寸だけ。
 勇気を、だした。嬉しいやら、愛しいやら、切ないやら、どうにも忙しない心を落ち着かせようと固く目を瞑る。そんな八重を、皮肉にも数馬自身が、再び三寸ほど抱き寄せるものだから、とうとう八重の心臓は破裂してしまいそうだった。
 まわる、まわる、毒が、甘い。

「……ん」

 それからすぐ、高鳴る鼓動を静める間もなく、陽が瞼を透いて瞳に差し込む頃に彼は目を覚ます。ぼんやりと、視線だけが八重をとらえている。この優しい瞳の色に、どれだけ心救われ、そして殺められたか。
 これから彼に問われることは、八重にとって一日の始まりを憂えるものだ。あのまま、この人はずっと眠っていたらいいのにと思う。目を覚ますまでの僅かな時間がひたすらに恋しくなる。けれどそれに答えねば、一日どころか何も始まらないし、終わりもしない。
 八重の春は、唐突に閉ざされた。

 きみは、何番目だろうか?

 愛しいはずのやさしい瞳をまっすぐに見られないのは、滲む泪のせいにしたかった。

「……六番目にございます」

 落胆と、悲哀が二人を包んでいた。
 真っ白な朝が、鶯をとり殺す。


 *


 八重は、八の人格をその胸に宿している。
 いつ、どうして幾つもの人格がつくられたのか、何を切っ掛けにそれらが入れ替わるのかは分からない。元の八重に呼び掛けることすらかなわず、ただ、どうしていいか分からないまま、三年の月日が経とうとしていた。
 “六番目”の八重に入れ替わったのは、長く恋愛した二人の婚儀がとり行われた翌日だった。
 春立つ日、真っ白な朝。八重は、八重でなくなった。
 おそらく話には聞いていたのだろう彼は呆けた表情で膝を折り、項垂れて、「……こんな朝から、出掛けちゃったのか」と、一言呟いただけだ。
 それからというもの、どこか遠くを見詰めることが増えた彼だが、何故だか一度たりとて自分を責めたことはない。何故お前なのだと責めてくれたほうが幾らか楽だったかもしれないのに、彼が喚き立てる様子は一切見られなかった。今思えば、頭の中は虚空だったのでは、と。
 その代わりといってはおかしな話だが、毎夜、腕に抱きすくめられて眠るようになり、目覚め、問われ、答えるかなしみの縁をなぞる日常に、花々しい二人の――無論、元の八重との――将来は書き換えられた。

「二月というのにあの桜は、せっかちだな」
「……ええ、あの鶯も……」

 彼が初めて声をあげて泣いたのは、問答の反復が千を数えた時、ようやくだった。
 錯乱した心を抑え込み、ひたすらに八重の帰りを待つことを選んだがために、とうとう壊れてしまった。その夜は骨が軋むほどきつく抱き締められ、眠った。“六番目”の八重は、彼の焦燥する鼓動を今も忘れられずにいる。
 四季折々の日々を、二人は、息を詰まらせて生きている。

「……今日のきみも、六番目なんだな」
「はい……申し訳ありません、すうまさま」
「いや、謝らないでくれ。……もうとうに、一目見てきみだと分かるようになっているんだ」

 それなのにすがり付いて、こちらが申し訳ないことだ、と、笑った彼の声が掠れている。元の八重に入れ替わったかどうかの問いが、“六番目”に間違いないかという問いに性質を変えたことに、自分も気が付いてはいた。こうしてこれからの日々も過ごすことになるのだろうとも。
 彼は緩慢な動きで起き上がり、離れていく。いつもと変わらない寂しそうな表情をしている。

「もう少し、待ってみようかと思うんだ」

 鶯を待つ桜は、かの人を迎えるために咲く。どんなに厳しい冬にも、迎えるためならば咲こうと足掻くのだろう。この人がそうだ。壁の暦は三年前のままなのに、過去にすがって先を見ようとしているなんて、こんな滑稽で美しいものはない。そう思うと同時に再確認する。
 自分には、居場所がない。今まさに、“六番目”の八重は改めて全否定されたわけなのだった。
 たまらず俯いてから、泣いていることに気が付いた。はっとして唇を噛み締めたが、どうにも止まってくれない。いつもなら、こんな些細なことに引っ掛かりを感じたりしないのに、日に日に自分は卑屈になっていくようだった。
 溢れる泪をどうしようものかと、思案している隅で、昨夜の雨の音が頭に流れこんできた。雨樋は、ない。
 心の臓の裏側がぴりぴりと痛んで、声を押し殺せば肺の中の空気はたちまち澱んでいった。もう絶望とも悲哀とも呼べないこの気持ちを、彼に伝えてしまおうかと思った。けれどそうすれば彼の壊れてしまった心に酸をかけるようなものだと。虚しくて。何もなくなれば、いいのに。

「わたしも……お待ちしております」

 どうか笑ってください、と、短く告げた。これは、毒だ。甘く二人を蝕む毒だ。言い聞かせるようにして泪を拭う。泪なんかを流せる資格が自分にあろうか? いや、ないはず。
 彼と、自分にも嘘をついてしまった。長い間、重ね祈れど届かぬ想いが弾けてしまわぬよう。

「……どうした? どこか痛むか?」

 泪を振り向いた彼が、戸惑っているのがよくわかる。こうして俯いていれば、なんのことはない、彼が求める八重そのものなのだから。
 全くの別人ならどんなに良かったことだろう。なまじ器が同じだというだけでこんなにつらい思いをするのなら、彼のように、すっかり壊れてしまいたい。願い、俯いたままの八重の背を、恐る恐るさする無骨な手が、愛しくてたまらなくて、……壊れてしまうなんて出来なくて、かなしさばかりが増す。

「目覚めるのは、いつも“六番目”」

 溢れ出していた。

「わたしも、あなたも。すうまさまが眠っている間、逢いたい想いが募るばかり……わたしは、わたしは……もう、待ちくたびれてしまいました……」
「……いったい、何を」

 閉ざされた春を遠くに見据えながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。懺悔にも似た、悲痛な叫びを、泪に乗せて。
 告白することが、彼を絶望の深淵に立たせることになったとしても、構わなくなっていた。紡がれる言葉の数々で彼が消えるのなら、むしろ望む。自分は、彼の八重にはなり得ない。そして、自分の数馬にも、なり得ないのだから。
 覚悟した。
 弾かれたように、彼の胸に飛び込んだ。大粒の泪が襟元を濡らしたが、気に掛けている暇もなかった。一縷の光を断ち切ってでも、ここを抜け出さなければならない。でなければ毒は二人を蝕み、三半規管を激しく揺すぶり、それっきり二度と立ち上がれなくしてしまう。
 もう十分に待ったと自分を赦して、泪を拭うことはやめた。たがが外れてしまえば、想いが雪崩れ込むのは当然早いもので、塞き止められるものはなにもない。
 戸惑いつつ申し訳程度に拒む彼の手をとり、指を絡め、唇を奪った。不思議と罪悪感はない。
 私が想う、寝坊助の桜。せっかちな鶯は、止まり木を探して、疲れてしまいますよ。
 溢れる泪と共に、啄むだけの口付けを。狂ったように何度も、何度も、何度でも。心の奥に眠るあなたへ、届け。

「逢いたいと、どんなに月へ願っても、愛しい“数馬”は目覚めない。いつも、いつも、そう。わたしは毎朝、落胆するのです。……“六番目”のすうまさま。あなたに」

 叫びは、静かに、しかし重たく数馬の吐息を裂いた。一陣の風が吹き抜け、鶯が飛び立ち、ざわめいた木々が二人の沈黙を重たく揺らしている。
 真っ白な、朝だった。

「めぐりあえない……」

 するすると胸板を流れ、泣き崩れる八重を、数馬は見つめている。
 今まさに、『すうま』の春は、閉ざされた。



 終


20150131 「始まらない恋企画」投稿

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