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 人気のない薄暗いプラットホーム。
 ぼんやりとした頭で今自分が置かれている状況を把握しようと雪男は躰を起こして周囲を見渡した。椅子に座った儘いつの間にか転寝して仕舞っていたらしい。
 如何やら此処はプラットホームのようだ。
 プラットホーム自体はよくある一面二線の島式ホームだが、随分と広い駅らしく駅構内へと向かう階段が米粒の様に見えた。何故自分が此処にいるのかと云う事すら思い出せず、ただ不気味に感じてコートを纏った身を震わせた。
 ゆっくりと立ち上がりこの場を確認しようとするが、終電を逃してしまったのか将又電気の供給が切れているのか、電子デバイス式の案内掲示板も発車標も、何もかも昏く沈黙している。視認できる範囲ではこの路線が何処に向かうホームなのかすら何処にも明記されていない。唯一此処が十五番線であると云う事だけが確認できた。
 更に左右を見渡す。並列して何本もの線路と幾つものプラットホームや線路が整列して綺麗に並んでいる。しかし自分から向かって左側はまるで廃線の様な様相を呈しており、右側は深く霧がかっており、矢張り如何にも気味が悪い。人気がないどころか駅員を含め人っ子一人いないように感じられる。
 全体の薄暗さや気味悪さも、黄昏時や夜の闇の様な色彩ではなく、例えるならば色褪せた写真、若しくは古い映画に迷い込んで仕舞ったかの様な雰囲気だ。
 プラットホームに備え付けられている質素な時計を見ようと顔を上げると、短針も分針もない文字盤だけが視界に映った。眉根を顰めて愛用の腕時計へと視線を映す。矢張り腕時計からも短針や分針は消滅しており、まっさらな文字盤だけが残されていた。
 時計の有様からこの空間が現實ではないと云う事だけは確信する。奇異な様相と嫌な予感に、左右や背後に気を配りつつ遙か遠くの階段へと歩を進める。せめてこのプラットホームが何処に向かう為の列車なのか知りたかった。
 ふと、古めかしさすら憶える木の看板が視界に映り足を止める。電子案内板は作動していなくとも、これならば灯りがなくとも行先の確認はできる。雨風で大分傷んでいるらしく酷く読みづらい。消えかかっている文字の判読に意識を集中しようと文字を指先でなぞろうとした時だった。
 ――……カタン、カタン、カタン、
 突然列車が近寄ってくる音が聴こえ、反射的にその音の方角へと全身を向ける。自分以外誰も居なかった筈のプラットホームの十数メートル先に人の影が映った。
 それが誰と判った訳ではないが、その人影へと向かって思わず走りだす。しかしいきなり足が鉛にでも繋がれてしまったかの様に重くなり、なかなか思う様に足を運べない。
 何故こんな労苦を負ってまであの人影に近寄らなければならないのか――そんな事は判らない。ただの六感だ。直感だ。あの人影を止めなければならないという使命にも似た予感。
「っ、兄さん!?」
 ホームの上、足場ギリギリの所に見知った兄の姿を見付けてその名を叫ぶが此方に気付く様子はない。既に視認できる所まで列車が迫ってきているにも関わらず。
「兄さん下がって!」
 それでも矢張り此方の声は届かないのか、燐はホームの上からまるで線路上の幽霊でも話しているかの様に笑ったり呆れたり怒ったりといった表情をころころと見せている。自分の声が燐に届かない様に、燐の声も此方には届かない様だった。
 燐の様子は到っていつも通りだ。これは現實ではないのだから燐の言動がおかしいのは想定の範囲内と捉えるべきだろう。ただそれを除いても何処となく、何かが違う様に感じた。しかしその些細な違和感の原因を探る程の余裕は今の自分にはなかった。  目前まで迫ってきている列車は真っ黒でブラックホールを彷彿とさせ、雪男は全身に鳥肌が立つ感覚を憶える。
 もう少しで兄へと手が届く。重い躰を引き摺りながら、それでもあと数メートル。
「っ! 兄さん!!」
 不意に燐が空へと僅かに足を一歩踏み出した。
 無論その先は線路でしかない。
 列車は既に燐の数メートル先へと迫ってきている。
 此の儘では轢かれて仕舞う。
 飛び降り――と云うよりはバランスを崩してうっかり足を踏み外したと云う言葉がしっくりくる状況。
 驚いた様な表情と共に体勢を崩して落ちて行く兄の後ろ姿に目を細めて雪男は必死に腕を伸ばす。
 まるで走馬灯、スローモーションの様な世界。そんな窮地にまた黒い人影が現れ、雪男の目の前を通り過ぎて燐の背を掴む様に手を伸ばした。
「駄目だ! 止めて! 嫌だ!」
 何が駄目なのか、何を止めて欲しいのか。兄に対してなのか手を伸ばした黒い人影に向かってなのか一体何なのか。咄嗟に出た言葉の意味さえ判らない儘――地鳴りの様な轟音を響かせて列車が通り過ぎた。
 肌を切る様な一瞬の強風を巻き起こして過ぎ去るその巨大で無慈悲な塊を血の気の失せた顔でただただ茫然として見ていた。列車が過ぎ去った線路の上から働かない頭でふらふらとホームから覗き見遣る。心臓が早鐘を打っていた。
 兄は――無事だった。
 ほっとするのも束の間、兄が抱き締めている人影を薄目で見遣る。雪男にはあの人影が一体誰なのかと云う確信めいたものがあった。だからこそ今度は色付いた人影の姿を確認して息を呑んだ。
「……とう、さん……」
 燐を庇った人物はこう云った事故にありがちな損傷ではなく、まるで悪魔との戦いでボロボロになって事切れたと云った様子の養父――藤本獅郎だった。
 父親に縋り付いて泣き喚く兄の声は相変わらず此方には聞こえない。
「…………とうさん……」
 雪男は兄の様に泣く事も出来ず、ただもう一度だけ力無く呟き、その場に崩れ込んで二人の姿を暫く茫然と眺め、瞳を閉じた。



 ――座り込んだ其の足許には《4》と記されていた。





プラットホーム15番線のメメント・モリ





 愛を求めて鳴き叫ぶ蝉の声ももう勢いがない。
 九月中旬にもなれば当然かと思いつつ、分厚い茶封筒の縁を持ち直して目の前の人物へと恭しく差し出した。
「――以上が今回の報告となります。いつも通り仔細は書類に」
「……結構☆ 例によって私が受理しましょう」
 目の前の道化から受領書を受け取ろうと手を差し出すが虚しく空を切る。
「紅茶でも如何です? 良い茶葉が手に入りましてねぇ」
「……名誉騎士。私、遊びに来たわけやあらひんのですよ」
 意味深な眼差しに目を細めて態と他人行儀の体で突き放す。聖十字騎士團に於いて京都出張所の特異性を維持する為にもメフィスト・フェレスとの関係は切っても切れないが、庇護下にあるからと云って頭を垂れて傅く気はない。
「なに、貴方のお時間を少々頂戴したいのですよ」
 何時の間に取りだしたのか一眼レフのカメラを手にして子どもの様な体で此方を興味津々に見詰めてくるメフィストに溜息を吐く。
「はあ。写真撮影ならお断りですえ」
「なんとつれない! 自ら萌えの権化の様な恰好をしておいて! ……っと、そうじゃなかった。この現状に於ける貴方の見解をお伺いしたいのです」
「……私からお話するようなことはありません」
「聖十字日報やファイルには目を通されたのでしょう?」
 一方的に話を進められて思わず睨み付けるが、メフィストは意を介さずに視線だけで椅子へと誘導させてきた。
 致し方なしと、深い溜息を吐いてふかふかの椅子に腰を沈ませる。疲れた身を覆う上等な布地が心地良くて緊張が解れてしまいそうになるが、此処はメフィストの掌の上どころか胃の中の様なものだ。一呼吸置いて直ぐに居住まいを正した私を見てメフィストは満足そうな笑みを向けた。
「……増加の一途を辿る悪魔相談とロシアに出現した人工的な虚無界の門の事でっしゃろか」
 己が記憶を辿って与えられている情報を復唱する。
「流石☆ 話がお早い!」
「やけどまだそれ以上の情報開示はされとりませんので――」
 相手の言葉を遮って話を終了させようとすると、すっと薄紫色の指先が唇を撫でた。絹の手袋越しに感じる氷の様な指先に今度は此方が言葉に詰まる。
「形式的な事ではなく貴方の見解を伺いたいのです。いやなに、ちょっとした世間話ですよ、土井龍之介。京都の特異性はどのように現状を感じ取っているのかと……ね?」
 顔を上げてメフィストを見上げると細い瞳孔を更に細めて愉快そうに指先を咽喉へと這わせてきた。
「……報告書にもある通りですが本部支部と違うて京都はわりと平和ですわ。悪魔相談も平時と変わらず重篤な部類しかありません」
 京都出張所の特異性。
 其れは悪魔の存在を非公認ながら容認している事、また共生関係にある事だ。京都に限らず日本各地に置かれた古都は何処もそう云う関係を多かれ少なかれ築いている。
 悪魔は存在するものだと民の殆どが知っており、視えない者も悪魔は居るのだと教えられる。故に悪魔は存在しないと思っている東京の市井の様相にはやや違和感を憶える。
 低級悪魔は京都出張所と協力関係にある中級・上級の土地神や神使が抑えており、結界自体も土地神達に任せている部分が多い。其れ故に日本支部の様に仰々しい結界は張れない。張ってしまうと彼等の邪魔になるからである。
 無論京都内でも此の体制に対して賛否両論あるが、日本は森羅万象、八百万の神々の国でありアニミズム崇拝が根底にあるのだからこの形が相応しいと土井は思っている。
 慥かに不浄王の様に手に負えない悪魔もいるが、物質界に腰を落ち着けたがる意思のある悪魔の主食は人間の畏怖と信仰だ。共生関係はギブアンドテイクである。
「おやぁ? それだけですか?」
「私から何を訊き出したいんです?」
「現段階では恐らく貴方が気付いている事を此方から話す事ができません。しかし段階的に必要な話だからこそ私は問うているのですよ」
 首許から指を離し値踏みをする様なメフィストの好奇な視線を受けて首を傾げて目を背ける。フィギュアやゲームのパッケージ等が視界に映り溜息を吐いてから頷く。
 聖十字騎士團でも手におえない悪魔、時の王サマエルの居城の一つだ。口にしても問題はないだろう。
「今回の件……、私は啓明結社イルミナティの関与があると踏んどります。そして彼等の噂では其処には貴方のお兄様も関与しとるのではないかと」
「…………素晴らしい」
 一瞬息を呑んだ後に心から感嘆の声を上げた相手を、眉間に皺を寄せて上目遣いに窺う。如何やら読み違えてはいないらしい。
 此処数年の被害を統計しても光の眷属の動きが非常に鈍く、数少ない事件から残された足跡を辿っても不自然に軌跡を消されて原因に行き着けない例もある。光の眷属に限って証拠隠滅が謀られているのは明白だった。
 小躍りする様に椅子に座り直したメフィストを見上げる。
「内に籠っているかと思いきやいやはや☆ 京都の情報機関も侮れませんねぇ」
「お褒めの言葉はうちの土地の神々たちに。時の王サマエル様のお言葉とあれば喜ぶ者もおるでっしゃろ」
「その際には月読命からとでも云うべきですかね」
 自分の力ではなく仲間の情報筋だと念を推すとメフィストは何処までも愉しそうに薄い笑みを湛えて指を鳴らした。ショーダウンとばかりにドライアイスの様な蒸気が上がり隠されていた人物の姿が露わになっていく。
「――奥村先生。聞いていましたね?」
「…………は、はい」
「こんにちは」
 仰々しく演ずるメフィストに合わせて両手を膝の上で重ね笑みを浮かべて頭を下げる。挨拶されても困るだろうが其処はメフィストに任せるしかない。
 壁に背を向けて正三角形を作る様に自分とメフィストの横に現れた奥村雪男中一級祓魔師。天才最年少祓魔師と名高く、目立ちはしないが長身で整った顔立ちの美丈夫で、黒縁眼鏡と左頬と右の口許に零れる黒子が印象的だ。何度か見掛けた事はあるのだが歳の割に少年と呼べる様な雰囲気ではない。目の下に薄らと隈があり睡眠不足や過労が窺えた。
 緊張気味に「こんにちは」と此方にぎこちない笑みで返し、どうしたものかと様子を窺う姿が可哀想で腰を上げてしまいたくなるが、メフィストが其れを雰囲気だけで制していた。
「貴方はつまらないですねぇ」
「私に述べさせた状況は上から箝口令が敷かれており、それと奥村さんが関わる件で話をしたいと云う事は判りました。いえ、順序的に奥村さんの件で私に話をしたい、でっしゃろか」
「非常につまらないですねぇ」
 言葉通り心底つまらなそうに両手を広げて溜息を吐くメフィストに苦笑を零す。かれこれ十年近く日本支部と京都出張所の情報の橋渡しをしているのだから一々驚いていたら此方の心臓がもたないと云うものだ。
 身を竦めつつも腕時計に視線を遣った雪男の姿を見てメフィストが口を開いた。
「奥村燐の夜の監視を暫くの間辞退したい――と、奥村先生が先程仰ってきたのですよ」
「夜の?」
 引っ掛かった所を復唱して首を傾げると、メフィストは満足そうな笑みを浮かべて頷いた。
「奥村先生は兄であり魔神の落胤でもある奥村燐と旧男子寮で同室なのですよ。監視の意味もありますが。つまり奥村先生は同室で兄と寝るのを暫く避けたいそうで」
「はあ。それは……何か問題でも?」
 魔神の落胤が日本支部に存在すると云う事は既に周知の事実である。不浄王戦では日本支部からの増援の一員として奥村燐も駆け付け、色々と問題はあったものの結果として一線で大きな功績を納めた。現状、所長である志摩八百造以下京都出張所は全面的に奥村燐を擁護する方向でいる。土井から見ても奥村燐は魔神の落胤以前に年相応の普通の子どもでしかなかった。
「まあ、そう云われると特に無いんですけどね。奥村先生の理由が理由と申しますか」
 其処で言葉を途切り、チラリと含みのある眼差しを雪男へと向けた。
「…………最近あまり夢見が良くなくて」
 メフィストに視線で促され、雪男がやっと重い口を開いた。声に迷いが滲んでいるが澄んだ綺麗な声音だった。
「悪夢に魘されとる、という事でっしゃろか?」
「魘されているのか如何かは判りません。ただ、魘されているとしたら……」
 其処まで話して口籠った彼に笑みを湛えて助け舟を出す。
「奥村さんはお兄さんに心配させとうないのですね」
「…………はい」
 少し気恥ずかしげに、面目ないと云った体で肯定した雪男を見て頬を緩ませる。こう云う所は年相応だと思う。
 矜持、体裁、惨めさ、情けなさ、面倒くささ。
 己の弱さに気付かれたくない理由は「心配」の一言で片付くものではないだろう。しかし流石に其れ以上踏み込むのは野暮と云うものだ。
 少しの沈黙の後メフィストが「ふむ」と声を漏らし、右手を軽く上げてパチンと指を鳴らした。彼と自分の座る椅子の横に小さな丸いテーブルが現れ、其の上で透明なティーカップから優しい香り立つ紅茶が湯気を立てていた。
「良い茶葉が手に入ったと云ったでしょう? フィナー・ティピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコーです☆ さあ御二人共どうぞ! ……っと、土井くんは紅茶は大丈夫でしたかな?」
「はぁ。フレーバーティー以外でしたら」
 正直紅茶の良し悪しは今一判らない。ハーブの香りが強い紅茶は好んで飲まないがアールグレイは嫌いではない。紅茶に限ると好きな匂いか否か、飲んでみて好みか否かと云った程度である。大した拘りが無いのである。
 爽やかな香りが鼻孔を擽りティーカップに口付けると、すっきりとした甘い味が口内に広がった。渦中の人物に視線を向けると、同じく紅茶を口に含んで溜息にも似た穏やかな吐息をそっと吐いた。若干緊張が解れたようだ。
「奥村先生はこの人があまり信用ならないと見えますね」
「っ!? い、いえ、そう云う訳では!」
「そりゃそうでっしゃろ」
 いきなり核心を突いたメフィストの言葉に噎せた少年を見て苦笑いを浮かべる。見ず知らずとまではいかないだろうが、ほぼ接点のない人物にいきなり込み入った話をするのは無茶がある。
「しかし奥村先生本来の希望を早急に叶えると云う意味では土井くんは適任ですよ。日本支部の人間ではありませんから噂になって外聞が悪いと云った事も起きづらい。そして何より先程聞いた通り独自の情報網で貴方の喋りづらい事も彼は気付いている」
「それは……」
 若き祓魔師は其処で口籠りカップをティーソーサーに静かに置いて口許に指の節を当てた。葛藤を顕わにしている雪男を窺い、軽い溜息を一つ吐いて自分もティーカップをソーサーに置き、両手を相互の袖へと滑り込ませ腕組みをする。
「待ってください、名誉騎士。貴方ならこない面倒な手順を踏まずとも悪夢を消すんは造作もない事でっしゃろ」
「ええ☆」
「そして貴方は奥村雪男さんの後継人。お間違いあらへんでしょうか?」
「はい☆」
 睨み付ける様に目を細め、この道化が奥村雪男と云う人物に対して責任があると云う旨を態と刺々しく全面に押し出すがメフィストは相変わらず飄々とした様子だ。
 其の態度にソファーの背凭れにずっしりと背を埋めて此の上司を見下す様に脚を組む。
「……貴方が己が愉悦の為だけに前途ある若い子の心を弄び、誑かし、惑わせる心算で居るんでしたら私はお断り致します。もしほんまにその御心算でしたらうちの息のかかる者にも最低最悪の御人やと愚痴らせて頂く所存です」
 完璧な上から目線で上司を上司とも思わない慇懃無礼な様子の土井を見て、メフィストは机に片肘を突いて感心とも呆然とも取れる微妙な表情を湛えた。
「……見事に急所を狙ってきますねぇ。しかしその聡明さと気の強さとしたたかさはなかなか……在りし日の藤本を思い出しますよ」
 藤本――其の名が出た瞬間、雪男が纏っていた空気がやや重くなったのを感じた。そう云えば奥村雪男は公私ともに藤本獅郎によって育てられたのだと書類で読んだ記憶がある。
 メフィストは頬杖を突きながら視線だけを雪男に向けつつ、気を取り直してと云わんばかりに両手を組んだ。
「悪夢の排斥であるならばそう手間ではありません。今回彼の云う悪夢の引き金を引いてしまったのは私のミスでもありますからね」
「ミス?」
「……その、」
 紅茶の慰安効果もあってか、雪男は軽く目を伏せた後に顔を上げてゆっくりと此方を見遣った。
「先日、擬態霊を調査した際に……お恥ずかしい話ですが障ってしまった可能性がありまして……」
 ――擬態霊。
 其の名に再び紅茶を啜りつつメフィストを見遣ると、ポップなカラーの道化は両肩をわざとらしく上げた。
「まあ……そう云う事です☆」
「……はー……、まったく。御自分のコレクションはちゃんと管理しはってください」
「ハハハハ! いやはや本當に手厳しい。ですからこの件に関しては私は落ち度を認めているではないですか」
 さも愉快と大袈裟に両手を上げて笑うメフィストに絶対零度の眼差しだけを向けた後に再び雪男へと視線を移し無言で続きを促す。メフィストのそんな様子に流石の雪男も若干呆れた表情を浮かべていたが、彼も彼で慣れているのか小さく溜息を吐くと此方へと躰を向け直した。
「土井さんが仰りたい事は判ります。ただ僕は此の夢に関しては抹消して総て御終いにすると云う荒業は本意ではないんです」
「向き合わなければならない、と云う事でっしゃろか」
 雪男が碧の瞳を僅かに揺らして軽く頷いた。強さの中に儚さを纏っており少しだけ不安になる。
「障ったかも知れないと云いましたが、夢自体は半年前位から時折見ていたものなんです。ただその一件以降毎晩見るようになってしまって……。御存知通り日本支部は他支部に漏れず悪魔相談が急増しております。言い訳のようで心苦しいですが、それもあって僕も精神的余裕はあまりありません。ですから自分で解決するまで部屋替えの希望を出したんです」
 やっと総てに合点が行った。
 奥村雪男が云えない事を気付いていなければいけない理由も、ほぼ接点のない京都出張所の自分に白羽の矢が立った理由も。
「ほら、それに京都出張所には奥村先生の恋人がいらっしゃるそうですし?」
「っ!? フェ、フェレス卿!? いきなり何を――」
「道化るんはもう結構。お茶、ありがとうございます」
 羽織の奥で組んでいた両手を再び膝に乗せてソファーから立ち上がる。焦る雪男を敢えて無視してメフィスト・フェレスの机の前へとブーツの音を響かせる。
「迷者不問の理と心得ます」
「結構。必要な事はある程度語って構いません。奥村先生は口も頭も固いですから」
 道化の主は目を細めて口許だけで満足そうな笑みを浮かべ、ペラペラと語りながら先程渡した分厚い封筒から一番後ろの返送用封筒と紙を取り出し羽根ペンでサインを入れた。最後に手袋の上から小指の先をナイフで突き僅かな血を紙に付着させる。
「受領書です」
「慥かに」
 受領書の入った封筒を受け取って頭を下げて踵を返すと遣り取りを怪訝そうに窺っている雪男の姿が瞳に映った。恐らく先程自分から隠されていた間も同じ瞳をしていたのだろう。
 今更ながら見られていた歯痒さと申し訳無さから思わず苦笑を浮かべてしまう。
「奥村さんが望むのならば、私、お待ちしております」
 語先後礼と頭を下げると、彼も無言で立ち上がって会釈を返してきた。まだ奥村雪男の心が決まっていないのは明白だ。しかしこの後メフィスト・フェレスの手練手管で追い遣られる事になるのだろう。
 片手に握られた封筒に指の力を僅かに入れる。
 指先二本で足りる程に小さく軽くなったと云うのにも関わらず、行きよりも重くなった気がして、土井はそんな胸中を隠す様に懐から京都出張所への鍵を取り出した。




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※土井さんが若干チートです






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