sample

嗚呼、 -Preparation book- sampke

※土井さんのお部屋(捏造)です



 更に頁を進めようとした所で、居間と台所を隔てる衝立の向こう側で、雨音の様に延々と鳴っていた水の音が、きゅ、と云う蛇口の捻る音と共に止んだ事に気付く。其の音を合図と取って手許の本を閉じると、卓袱台よりも少し遠く、本棚やラックのある壁側へと本と団扇を追いやる。最早読み取れない程に傷んだ表紙の文字を一度軽く撫でる。其の上に団扇を乗せて、ゆっくり立ち上がり台所へ歩を進めた。
 時間にして三分強と云った所だろう。
 鍋の湯は幾らか冷めて仕舞っている様だ。再び焜炉の火を掛け、衝立に掛けている着物や小物の内から、襷(たすき)を手に取り、簡単に浴衣の袖を纏め上げる。更に割烹着へと腕を通す。首を動かした事で、肩へと落ちてきた幾らか長い髪を片手で元の位置へと払い退ける。
 仕事では紙縒(こより)等で長く元結をしているが、既に風呂にも入り、髪も洗ってあった為、組紐で簡単に蝶々結びをしていた。一つ結びなのは変わらない。しかし、こうして台所に立つと、汗や湿気で首許にかかる髪が些か邪魔だ。もっと大雑把に玉簪辺りで一括りにして置いた方が良かった気がする。
 両手を洗い、冷蔵庫から目当ての物を取り出す。少々冷めたおかずを安っぽいトースター軽く炙り、沸騰した湯に麺を入れる。そんな作業中、背後から衣擦れの音や水音等が、ずっと私の聴覚を刺激していた。
 相手が後方の扉を開ける音と、自分が其れの軽い水切りをし終えたのは丁度同時位だった。
「ああ、」
 丁度良いタイミングだったと云う事を漏れる様な声で伝えると、自分よりも多少高い背の主は、まるで肩を組む様に此方の首許へと腕を回して応えてきた。強く硬い腕と共に、濃い灰色の細縞柄が頬に触れる。肌に触れる綿の布地が心地良い。
「柔造さん、お風呂はどないでした?」
「えかったわ。生き返った気分や」
「ほんに、お疲れ様です」
 自分の肩に触れている二の腕へ、猫の様に頬擦りしてみると、柔造は満足そうな、其れでいて何処か恥ずかしそうな笑みを漏らした。
 上二級仏教系祓魔師の志摩柔造は、祓魔一番隊の隊長を任されている。思いの外、仕事が長丁場になったらしく、結局最初に此方に告げられた時刻よりも二時間遅れで此の部屋に来たのだった。
 新人の育成も楽では無い。七年前、まだ俺が新人だった頃の隊長も大変だっただろう。と、祓魔装束を脱ぎながら、そんな事を苦笑気味にぼやく彼に、食事より先に風呂を勧めたのは自分だった。
 風呂にするか、御飯にするか。
 そんなベタな台詞が世にはあるそうだ。生憎、このアパートの風呂に湯の温度を保持する様な機能は無いが、京都出張所から此処迄の移動時間の逆算をすれば、温かい食事と風呂の双方を整える程度は容易である。
「なんや、土井。蕎麦か」
「生蕎麦を鳴海さんから頂いて。何でも先の連休に信州に行かはったとか。柔造さんも蕎麦御好きでっしゃろ? お気に召しませんでしたか?」
「嫌やわけやなくてな――」
 回していた腕を解き、歯切れ悪くそう間を置いた柔造に、私は思わず笊に盛った蕎麦を片手に視線を向ける。柔造は些か申し訳なさそうに視線を背けていた。
柔造の視線の先にあるのは天麩羅である。
 柔造は天麩羅も蕎麦も嫌いでは無い筈だ。天麩羅と云っても茄子や獅子唐等の野菜が目に付き、蛋白質と云えば、この人から連絡を貰った後に、近くのスーパーに買いに行った海老位なものである。
 更に野菜の殆どは、柔造の父である八百造の趣味の賜物だった。故に産地と味の保証は出来る。しかし寧ろ食べ慣れて仕舞っているからこそ多少飽きて仕舞っているのかも知れない。そう考えると、もう少し蛋白質類を増やすべきだっただろうか。そんな事を居間と台所を往復し、其れらの品を卓袱台に置きながら考えてもみる。
 こういう時に難だと思うのは、自分自身が食についてあまり頓着しない事だ。そもそも基本的に料理のレパートリー自体もそう多くない為、庶民的な物でも更に固定されたものしか作れない。
 栄養バランスだけはそれなりに考慮している心算ではあったが、栄養の点だけを重視するならば、朝も昼も晩も変わらない食べ物で良いと思う。極端に云えば、飽きる迄はシリアルで十分だとさえ思うのだ。五穀米に納豆に味噌汁。時々生卵。朝晩はそれだけで二週間近く過ごした事もあった。そんな偏った食生活を八百造に知られて大目玉を食らった事もある。
「八百造様から紫蘇を頂いたんですわ。薬味にも天麩羅にもええなぁ……て。私、そう思いまして……」
「せやない。こない時間に押し掛けてもうたのに手土産一つお父任せで。更に態々天麩羅迄作らせてもうて。なんや、悪いわ」
 そう云って、濡れた黒く短い髪をロングタオルで拭きながら、柔造は手慣れた手付きで押入れから座布団を卓袱台の傍らへと引き摺り出した。其の上に胡坐を掻いて座り、此方を窺う彼に、思わず声に出してやんわりと笑って箸を促す。もう然程、遠慮の無い間柄であると云うのにも拘らず、本當(ほんとう)にバツが悪そうに云う。
 笑って仕舞ったのは、自分自身が不要な配慮をして仕舞った事に対してと云うべきか。この人はこう云う人だと云う事を思いだしたと云うべきか。
「なんやもう。変な心配してまいましたわ。天麩羅なんて一人やと作らへんですから丁度良かったですわ。如何しても惣菜コーナーに御世話になってしもうて。御酒は?」
「冷酒――いや、缶ビールを一本」
「はい」
 硝子のコップを二つ手に取り、缶ビールと作り置きの水出し麦茶を冷蔵庫から出す。 此の人は本當に優しい人だと思う。其れは恐らく柔造に限った事では無く、明陀の人間と云うのが全体的にそう云う人柄なのだろう。
 己の識る限りでは、明王陀羅尼宗は少なくとも『青い夜』から聖十字騎士團に吸収される迄の約五年間、冷遇されていた時期があったと云う。他者から酷い仕打ちを受けたと思う人間は、概して他者に優しくなるか、それとも冷たくなるかの二極化するものらしい。無論、大雑把な分類であり、此れらに当て嵌まらない人間もいるだろうが。
 現在、明陀宗は、頭首の勝呂達磨大僧正の振る舞いにより内輪揉めを起こしている。特に二大僧正血統の志摩家と宝生家は犬猿の仲だと本人達が認める所だ。だが、両家の現当主である八百造と蟒は決して仲が悪い訳では無い。此の二人の関係は寧ろ良好だとも云える。衝突しあうのは其の子供達であるらしい。
 しかし、強く衝突しあっても、互いに表立って不平不満をぶつけられる間柄ならばまだ良いものなのではないだろうか。ただ、彼等のいざこざを仕事にまで持ってこられると少々困ると云うだけだ。
 何が云いたいのかと云うと、志摩家も宝生家も、明陀以外の祓魔師仲間には到って温厚だと云う点である。
 自分が京都出張所内でも所謂中庸と呼ばれる立場に居るが故に、そう感じるのかもしれない。
「美味いな」
「信州は信州でも『戸隠そば』だそうですわ。水切りは少なめにて、まあ書かれた通りに作っただけですけど」
「蕎麦もやが、天麩羅もや。衣が一等ええ」
「これは……天麩羅粉の代わりに薄力粉を使うとるんです。あと水だけやなくてビールも少し混ぜとるんですよ。その方が衣がサクサクするて、そう虎子さんから丁寧に教えて頂きまして」
「流石女将さんやな」
 誇らしげに感嘆する柔造に、思わず頬を緩めて微笑んだ。






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