街がまるで灰色だ。高尾がそう言って、白く濁る息にさえ笑ってみせたことを、彼はまだ覚えている。

 幅の広い石段を下りた先の石畳は昨晩の雨で濡れていた。夜中の内に雪に変わったとテレビは言っていたけれど、雪は残っていなかった。両側に植えられた木々は葉を落として、視界を遮ることもない。緑間が顔を上げれば雲に覆われて灰色の濃淡を見せる空が見えた。来るときさえ車通りなどなかった時間帯、公園の中は人が歩いていないどころか、鳥一匹さえいない。遠くカラスの鳴く声だけが時折聞こえるような、そういう静かな朝だった。
 皮の手袋に覆われた指が、すっと指し示す先に目新しいものは何もなかった。冬の、全てに色の乏しいことが高尾を楽しませていた。ああほらと、小さな声が耳朶を打つ。公園から一歩出た先に幾らでもあるコンクリートの建物の纏う冷たさに、高尾が彼の目を向けさせて。

「あのへんとか、特に灰色の街って感じ」
「……ローデンバック?」

 首を傾げながら小さく差し込んだ言葉に、高尾は困ったような視線を投げてきた。なぁに、真ちゃん。上目に覗き込むその視線に、分からないならいいのだよと緑間はマフラーを引き上げて口元まで覆う。高尾のそれとは違って2度回しても余るほど長いマフラーを、後ろで結んだのはたった十数分前の高尾だった。門の前で屈んだ緑間が、けらけらと楽しそうだった高尾のやりたいようにさせていた、そのまま。
 この明るいオレンジ色を、高尾に似ていると表したときの分かりやすいはにかみを、彼はまだ鮮やかに記憶している。「チームカラー、……それで少し、オマエに似ているな」。最初の冬のことを、昨日のことのように思い出せるのだ。もう三度目の冬に、緑間はまだ同じ色のマフラーをしている。そのことに、大した理由なんてなかった。

 葉を粗方落とした痩せた木が両側に佇んでいるのを見てさえ、高尾はその侘しさに明るい声を上げる。絵になるような気がすると、通り過ぎるものをひとつまたひとつと黒い指先が差していった。

「まだみんな寝てんのかな。向こうの空とか、ほら、まだほんのり赤っぽいぜ真ちゃん」
「雲が多いな」
「天気予報、にわか雨に注意って言ってたけど、傘持ってる?」
「折り畳みなら」
「さっすがー」

 誰かに悪い気がして、二人して自然と潜めていった声は尚のこと静けさを際立たせる。落ち着かない高尾の忙しない動きは、不安げであり、楽しげでもあった。昨夜の雨で凍りかけの道に、自転車は漕げないなと言ったのは高尾で、最近あまりゆっくり話せていないからと笑ったのもまた、高尾だった。図書館の開く時間まで、とそれは拙い時間の使い方ではあったけれど、緑間は断ろうとは思わなかった。予定の時間よりもずっと早くに来たメールにさえ、文句のひとつも言わずにいた。家を出たとき、携帯片手の高尾が見せた、声のない笑顔の理由はどうにも彼には解せないままだったけれど。
 道の両側へと追いやられている落ち葉に歓声じみた声を上げ、落ち葉清掃やったなあと何でもない言葉を放り、高尾は間違いなくはしゃいでいた。忙しい視線のひとつひとつを横目で追いきれなくなって、緑間は呆れ返った溜め息を吐く。気付けば数歩先に行こうとする高尾の腕を掴んで、諫めるように声を掛けた。

「高尾、少しは落ち着いたらどうなのだよ」
「だーって、誰もいなくて、静まり返って、ゴーストタウンみたいじゃん?」
「ゴーストタウン」

 全く違うものだというのに、薄い本の中に詰め込まれていた薄暗い都のことを、やはり彼は思い出していた。高尾は上機嫌なままだった。弾む足取りが踏みしめるものが、石畳から土へと変わる。殆ど余すところなく霜の降りたそれを踏みしめるたび、軽い音が次々に鳴った。気付けば高尾は何かを口ずさんでいた。流行りの曲はよく分からないけれど、緑間が時折当ててみせると、高尾は今にも溶けそうな、そういう笑い方をするのだった。振り下ろす足に合わせて、あまりテンポの速くない歌を歌いながら、高尾は緑間の隣を歩く。緑間はその間、黙って耳を傾けていた。聞き覚えのないものだった。小さく、低く歌われていたその歌は、歌詞さえ聞き取れないまま段々と薄れていく。
 ああ、とそうして不意に高尾が声を上げた。声は感慨深げな色をしていた。空を仰ぎ、ぐるりと辺りを見回し、悪戯をする子供の顔で、緑間を覗き込んで笑う。長方形に似た遊歩道の一辺を歩ききっていたことに、そこでようやく気付いた。

「ふたりっきりですね、真ちゃん!」
「……今更だろう」
「そうだな、オレ達、結構ふたりだったよなあ」

 歌の余韻の残る抑揚で、幾度か頷きながら高尾が言う。改めて言われるまでもないことだった。振り返るどのシーンにも映り込む高尾のことを、彼は深く認識していた。高尾はそうではなかったのだろうか。手袋をしながらも指を擦り合わせて息さえ吹きかける高尾をじっと見つめた彼のことを、全て御見通しのように高尾は笑うのだ。
 たとえば、と歌うように言うのを、耳を澄ませて聞いていた。

「世界にふたり的な、そういう、かっこつけた歌詞みたいな雰囲気」
「世界に?」
「ああ、オレ真ちゃんとふたりっきりなら、ちょっといいかも」

 なーんて、と相好を崩す、全てに音の見えない冬は気持ちが落ち着かなかった。だから緑間も笑い返す。馬鹿げているとは思わなかった。どちらかといえば、納得と同意を滲ませたつもりだった。高尾がふと言葉を切る。視線を泳がし、そうして困ったように微笑んでみせた、その流暢な動作を見て目を細める。


「逃げちゃいたいなあ」


 歌の続きを歌うような声だ。何から、と尋ねると、高尾は黙って首を振った。真ちゃんの好きなものからでいいよ。何だそれは。淡々と交わしながら、そういえば公園をこちら側から抜ければ駅まですぐだったと思い出す。だから高尾は曲がらないのか。静かに納得して、肩に下げたトートバッグに手を置いた。このまま逃げ出すのも、あるいは。ああ、でも。けれど。

「高尾、オレは今、筆記具と参考書しか持っていないのだよ」
「うん?」
「だから、今日は無理だ」
「……うん」

 そういうことは早く言え。そんな言葉に、高尾は何故か眉を八の字にして不格好に笑うような顔をした。笑うことの得意な彼の、初めて見る下手な表情の動かし方に首を傾げる。けれど高尾はそれ以上何も続けなかった。振り切るように朗らかな、もしも、と一言だけが少しの間を置いて緑間に投げられた。もしもの話を、高尾がすることを何処か意外に思って目を瞬かせる。もしも。互いにあまり好きではないと言った覚えがあるその三文字を、彼が使うところを緑間は初めて見た。

「これから先、オマエが何もかも嫌になって、二人でもいいってなったときにでも」
「……迎えにでも来るのか?」

 遮って続けると、高尾は目を丸くした。そうして目を細め、大きく開いた口から白い息を吐き、ぐっと眉を顰めて、何かを言いかける素振りで、しかし唇を噛んだ。一連の動作は流れるようだった。名前を呼ばれる。答える。それだけを経て、高尾はまた笑った。やはり少し、情けない笑い方だった。

「ああ。逃げてくれるの、真ちゃん」
「そう甘やかすものではないのだよ」
「それを甘やかすって言っちゃうオマエもどーなんだろ」

 ふと、あ、と高尾が声を上げる。指差した先に、久しぶりに人の姿を見た気がした。犬の散歩らしい。公園の前の道路、紫色のダウンジャケットを着た妙齢の女性とトイ・プードルが忙しなく行き過ぎるのを見て、気が抜けたように高尾は笑い出した。なんだ、と心底残念そうな声さえ楽しげだった。灰色の街の終わりを見る。
 立ち止まって、勢いよく腕を上げた高尾が伸びをする。気を取り直すような動作だった。「ま、迎えに行かないくらい幸せになることが一番だよなー」「オマエもな」「オレが駄目になってもお迎え来てくれんの?」「慰めぐらいしてやるのだよ」後はもう高尾も彼もいつも通りだった。おかしいことは何もなかった。そこは灰色の街ではない。高尾も彼も知っていた。知っていたけれど。

「……もう冬も終わりだな」

 白い息を見上げながら、子供のような顔をして高尾が言う。頷くと、控えめに指を繋がれた。高尾。呼べば、寒いなと返ってきた。人差し指を挟んでいたその指に、ふっと力が籠もる。高尾はその指ではなく、2人の足下をじっと見ていた。

「なあ、案外さ」
「ああ」
「結構何にも変わんなかったりしてさあ」

 惜しむような言葉を、高尾が言うとは思っていなかった。それは彼にとって確かな衝撃だった。惜しむことなどないと彼は信じていたのだ。春が来ても、ずっと変わらない何かがあることは、彼にとっては当たり前だった。高尾にとってはそうではなかったと、そんなことに声も出なくなる。「……春が来ても?」「春が来ても」寂しいなんていう当たり障りのない言葉だけでは、彼は何も分からなかった。訳が分からないという顔をすれば、眩しげに高尾は笑う。

「真ちゃん、図書館前の自販機っておしるこ入ってたよな?」

 何でもない風に話題を変え、投げられた言葉に、散歩はもう終わりかと彼は尋ねた。後はベンチでお話でも、とやはり軽く高尾が言う。笑う。指は気付けば解かれていた。
 駆けるように数歩先へ行った高尾の背を急がずに追った。ポールを越え、市道へ出る。空気の澄んだ冬の朝に、視界は何処までも鮮明だ。先ほどまで確かに此処は灰色の街だった。高尾が踊るようにアスファルトを踏む。少しずつ離れる距離に、焦れることなど何もなかった。ないはずなのに、焦燥感が胸を塞いで、足が進まない。高尾。小さな声に、彼はしかし振り返らなかった。

「――高尾!」

 半ば叫ぶようにして呼べば、勢いよくくるりと回って振り返った。やはり踊るような動作だった。
 そうして、たった一周回しただけのマフラーが翻るのを見ていた。胸より上の位置で揺れる緑色を、高尾も、彼の色だと言っていたのだ。恥ずかしげもなく、二人はそんなやりとりばかりをしていた。ゆるりと細められた目が、彼を映してじわりと滲む。冬の空気のように冴えたブルーグレイを見て、しかし、言葉が出てこなかった。言いたいことが何処を探してもない。何度探しても見当たらない。ただ満ち足りているけれど、彼は言いようのない後悔をしている。


「たかお、」


 白い息を吐きながら高尾は笑う。なぁに、と笑う。拭いきれない違和感に喉が詰まって、それ以上の言葉が出なかった。これはちがうと遠い声がする。
 嗚呼、これは夢だと、彼は何度でも知るのだ。知っては、笑う。そこに何の努力もいらなかった。灰色の街は夢見るたび美しかった。夢見るほど、何かを齎すものではなかった。言いたいことなど、何もなかった。





 目が覚めると夜だった。
 光のない室内は濃紺に見えた。薄く持ち上げた瞼が段々と室内の様子を認識するに従って、瞼の裏の灰色の街が白く溶けては輪郭を失う。瞬き。遠く子供の泣き声が聞こえた。あやす声も聞こえる。扉を1枚を過ぎて、廊下を突き当りまで進むだけで辿り着ける場所で。聞こえるからには動くべきかと思うのに、体が重くて少しも動けずにいる。俯せに埋もれた白いシーツを掻き集め、寒さに漏れた息は震えていた。夢の中も冬だった。曖昧で不明瞭な思考を、他人事のように俯瞰する。悪夢ではなかった。悪夢ではなかった。それだけが。それだけで、また手放しで眠る気になれた。息を吸う。微睡みにすぐさま覆われて、目を閉じる。そうすると、妻の口ずさむ子守歌がよく聞こえた。潜めた声音で、少し抑揚に乏しい、しかし美しい歌だった。そして何かにとてもよく似ている。何にかは分からなかった。妻は美しい声をしている。初めて向かい合ったとき、名乗るその声の美しさが、とても印象に残ったと今でも覚えているほどに。夢を見る。何度でも繰り返すそれに、言いたいことはやはりない。逃げたい世界は何処にもない。不満など少しだってなかった。彼は妻を愛していたし、子供を愛していた。滞りのない日々を、その幸福を愛していた。明日も変わらない朝が来ることも、そして見る街が灰色ではないことも理解していた。目の覚めない夢を見ている。





 駆け出した高尾の背を急がずに追う。空気の澄んだ冬の朝に、視界は何処までも鮮明だ。あのさ、とその背中が切り出したのもまた唐突だった。酷く言いづらそうな所作だった。切り出しの三文字を何度も繰り返していた。

 ――真ちゃんあのさ。

 アスファルトを強く踏む。勢い付けて、踊るようにくるりと回って振り返った。
 そうして、たった一周回しただけのマフラーが翻るのを見ていた。胸より上の位置で揺れる緑色を、高尾も彼の色だと言っていたのだ。恥ずかしげもなく、二人はそんなやりとりばかりをしていた。ゆるりと細められた目が、緑間を映してじわりと滲む。もう一度名前を呼ばれても、目を逸らせずにいた。

「オレに何か、言いたいことがある?」

 空気の色にとても似ている。高尾の吊り目から覗くブルーグレイを、そう思って眺める季節を冬と呼んだ。そういう日々だった。その色だけが光っていた。――いいたいこと。咄嗟に繰り返した幼い響きに互いに足を止めたまま、そこから不自然に滞る時間が足元に積もるのを感じた。高尾はそれでも笑っている。理由なく戸惑う彼のことを、大股5歩の距離から、笑って見ている。

「……なにも」

 ――なにも、ないのだよ。
 ようやく投げた言葉に、高尾は安堵したように目を閉じた。吐き出した息は白く溶けていく。「ああ、やっぱり」。掠れた声は確かにそう聞こえた。高尾。呼べば、また笑う。それだけで良かった。言いたいことは、やはり彼には何もなかった。


 そこは美しい灰色の街。動けない冬のすべて。



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