(兎→虎/空白の10ヶ月辺り)



 最近の僕は何処からどう見ても可笑しかった。今まで心を占めていた復讐の文字が消えて、おそらくはとても空虚になるはずだった心を、柔らかに満たそうとする人のせいだ。僕は知っていて、それなのに、心にある感情にどうにも名前をつけあぐねている。
 ――こんなに世界は色に溢れていただろうか。
 そんなことさえ分からなくて立ち止まる僕に、彼は朗らかな笑みを向けるのだった。朝の空気の澄んでいること。真昼の空が眩しい青をしていること。雲がゆるやかに流れるということ。夜、様々な光に照らされ、色付く影のこと。改めて知り直しては目が眩んで戸惑う僕の手を引いて、ただ笑ってくれるのだ。おまえの部屋から見下ろしたら、夜の街はきっとすばらしくうつくしいと、たとえばそんな、ひとつひとつ掬いあげるように説かれるたくさんの事柄が、僕の心を端から満たしていく。
 僕はこの感情の名前を知りたいとは思わなかったし、付けられるとも思っていなかった。そのかたい手のひらで僕の世界を作り上げることの出来る人に、一体どんな名前の感情を向ければ正しいのか、分からないのだ。どんな名前もふさわしくはないように思えたし、どんなかたちも思い描けなかった。
 指を繋ぐ、子ども騙しのような触れ合いが、確かに僕を満たしていくのだ。貴方はきっと知らないだろう。虎徹さん、と。なかなか呼び慣れない名に、むず痒く痛む心臓なんて、知らないに違いないのだ。僕は彼をとてもうつくしい人だと思っている。眩しい光に照らされて、その左の手のひらをかざすのを見たときさえ、僕はそんなことを考えていた。あのときも彼は、僕に少しだって気付いていないようだった。
 窓際に佇むその穏やかな横顔は、まるで敬虔な信者のようにも見えた。暖色の光が、情景に神聖さを纏わせている。目線の高さまで掲げた手のひらを見る、いつくしむように穏やかな瞳から、僕は目が離せなかったのだ。――す、と。くちびるを寄せられた銀の輪を見て、僕は心臓を強く握られたような心地がしていた。瞳を伏せて、囁くように動いたくちびるが恥じらった風に綻ぶのも、掲げた手のひら、そこにある銀の輪が光を浴びる様をいとおしげに見やるのも、すべて見ていた。それはうるわしい儀式だった。愛のかたちとは、かくあるべきだ。そうして僕は、しかと認めた。僕のこの、心を占める感情はもしかすると、そういう愛にも似たかたちをしている。まだいびつで拙く、笑えるほどに幼いそれが、どんなものだか知ってしまった。それが僕にとってひどく大切であろうこと、失っては生きていけないほどのものであろうこと、そしてそれがおそらくは永遠に報われないだろうことなどがよく分かって、今にも泣き出してしまいたかった。


今はうつくし愛の片隅
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -