(兎虎/記憶改ざん後と♯14前)




 目が醒めた。

 心はやけに凪いでいて、頭の中は靄が掛かったように不明瞭だ。自分が横になっていたソファーが見慣れないものだから、暫し首を傾げたけれど、すぐに思い出す。そうだ、僕は、マーベリックさんの別荘に居るのだ。
 どうしたことか、ずっと寝ぼけている感覚から抜けきらない。自分のことも一瞬分からなくなるような、酷い倦怠感が四肢に纏わりついている。
 僕はバーナビー・ブルックスJr.で、職業ヒーローで、ワイルドタイガーとコンビを組んでいる。そこまで覚えていることを確認した頃、ふとまた眠気が襲ってきた。眠ってはいけないような、何かまだ考えるべきことがあるような気もしたが、一度だけ少しだけと瞼を閉じた。




 朝一番の呼び出し――やはり急用だとか緊急事態だとかありふれた嘘で僕は、何故か虎徹さんと海に来ていた。朝日がまだ水平線上を滑るような位置にあって、煌々と瞳を刺す。僕より2、3歩先で、虎徹さんは上機嫌に鼻歌なんて歌っている。

「どうだバニー、綺麗だろ?」

 僕の知らない、恐らくは即興のメロディーの中で、虎徹さんがそう尋ねた。綺麗だとか美しいだとか、まだ余り理解の追い付かない僕は、それでも1つ頷いてみせる。たった数週間前には、考えたこともなかった概念だ。綺麗だとか、美しいとか、そんなものが世界に存在することさえ疑わしかった。
 例えば何か、眩しい、瞼を焼くようなものを、美しいと呼ぶのなら。

「出勤時間まで散歩でもしようぜ、」

 な、と振り返る虎徹さんの顔が、多分一番、今に限っては、美しいと呼ばれて良いのだと思う。僕はどうにも、どんな顔をすれば良いのか分からない。



 何か瞬きの隙間に夢のようなものを見た気がしたが、眠気と共に手の届かないところへ行ってしまったようだ。
 僅かに心の縁に引っ掛かっていたそれも、付けたテレビに映し出された情報に、全て眩んで消えていった。目の前が真っ白になって、ただただ、目を見開いたまま煌々と刺すように眩しい光を齎す箱を見ていた。




 出勤してからも、虎徹さんは度々思い出したようにあの適当なメロディーを口ずさみ始める。音程が少しずつ変わって、段々大袈裟なアレンジが加わっているようだった。彼のあまりテンポの良くないタイピングの音とそのメロディーが、ずっと隣から聞こえてくるのに、僕は文句のひとつも言えないでいる。

「いやー、やっぱ朝から良いもん見ると、何か爽やかだな!」
「……作業は捗っていないみたいですけど?」
「うっせーよ!」

 拗ねたように声を荒げたあと、自分で何が面白いのか朗らかに笑った。思い切り口を開けて目尻に皺を作る、底抜けの笑顔がこの人の得意な表情だ。
 頬杖をついて先程より控えめなメロディーを尖った唇の先から零す横顔を、僕は何とはなしに眺めていた。




 ゆるさないとは、随分と久しぶりに吐いた呪詛の言葉だったと思う。
 薄暗い部屋の中で、四角い箱に映し出された顔を瞳に焼き付けるように見詰めた。マーベリックさんの声が酷く遠くに聞こえる。背をさする手があるような気もしたが、冷静になれというその言葉、冷静になる理由があるわけもなかった。
 その顔を、憎しみを込めて、睨むように見ていた。



 どうしてと、ぽつりと放ると、伸びてきた手のひらに慣れた手付きで髪の毛をかき混ぜられた。明るい色の瞳が、ゆるゆる細められて、幼い子供を見るように慈愛に満ちたものになる。

「――お前に、見せてやりたいものがたくさんあるんだ。」

 僕の幸福を、容易く作るような人だった。
 今まで糧にしていたものを無くしても、こんなにも空虚ではない理由ならば知っていた。こういう時には笑うべきだろうと分かっていたけれど、何故だか泣きそうになって、唇を噛むしか出来ない。虎徹さんは、やはりどうにも朗らかに笑った。掬いあげられるような心地だった。




 ゆるさないと低く唸った僕に、目の前の殺人犯は顔を歪めたように見えた。憎しみが心を焼く感覚を思い出す。ようやく幸福になれると思っていたのに。ようやく、ようやく、目映い光の中で、生きていけると思っていたのに。


 耳の奥で、聞いたことのないメロディーと誰かの声が鳴ったような気が、
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