(兎虎/不安定な関係)




 泣きすぎでそれこそ兎みたいに真っ赤になったその瞳を見ながら、こいつが身体いっぱいに享受していた幸福が余りに脆かったことを、過去に遡って改めて嘆いてやりたくなった。
 バニーが初めて、世界がこんなに美しいなんて知らなかった、と柔らかに唇を綻ばせたことが、もうずっと前のようだ。バニーの人生の全てはたった一つの事柄に起因していて、幸福も不幸も、あらゆるものはそこから派生するものでしかないのだなあと、やっぱり俺には実感が足りなかったのかもしれない。もう全部終わって、後はずっと、今までの20年を緩やかに取り戻して満たされていくだけだと、あの頃こいつ自身も俺も信じていた。だからこそ、その落差が手酷く心を苛んだのだろう。結構な月日を重ねた後も、不意に美しい世界は信じた途端に崩れ落ちるなんていう不安に襲われては、涙が止まらなくなるくらいには、塞がらない傷になっている。だから俺は、可哀想な兎のために嘆いてやりたいと言っているのだ。

「――……よしよし、」

 さっきから俺の肩口から離れないその頭を、躊躇いつつも撫でてやると、ぴくりと肩が跳ねた。腰に回された腕に力が籠もる。下手な甘え方はいつもの通りで、そうしていつもより切羽詰まった切実さが全て込められていて、どうにもならなくて僅かに目を細める。
 前の前、結構遡って、バニーが甘えることなんて知らず、眉を寄せてばかり居た頃。
 周りの全てに彩りなんてなくて、美しい言葉も仮面みたいな笑顔も目的の為の手段でしかなくて、自分自身が何がしかのパフォーマンスで――灰色の分厚い殻を隔ててしか世界なんか見ていなかったというその時。バニーはそれこそだだっ広い草原で小刻みに震えながら空ばかり睨んでいる兎だったのだと思う。
 世界の全ては須らくその柔らかな肉を抉るに足るもので、何時息の根を止めに来るか分からないもので、一瞬でも気を緩めたら刺し貫かれても可笑しくないと信じていたに違いない。それが例え無意識にでも、だ。
 ようやく手にした手放しの幸福は一年足らずで離れていって、それどころか今まで生きてきた地面さえ奪われたようで、お前は一体どれほど悲しかったことだろう。いざ戻ってきた今だって、離れた全ては元に戻らないし、どちらかといえば失ったものの方が多かった筈だ。

「――バニーちゃんさー、」
「…………はい?」
「ヒーローやってなかった一年間も、こうなってたの?」

 足元全部が不明瞭で、記憶全部を疑ってかかるような夜を、1人で。
 もしそうならば酷く心の痛む話である。愛とか恋とか言葉にしなくたって大事な相棒に報えないこと、それほど苦しいこともなかなかない。長いこと掴み損ね続けている曖昧な感情の、唯一確かなのはこの存在に優しく在りたいことくらいなのに。
 どうでしたっけ、と小さく頼りなく、肩口でバニーちゃんが笑った。良く覚えていませんだなんて、随分投げやりな言葉だと思う。

「特に縋る相手も居なかったので、こんな酷くはなかったとは思います。」
「何かそれ、俺が悪いみたいな言い方だな?」
「そう言ってるんです。」

 その背を叩いて、無責任な相槌を打つ。いつか手の込んだ同情だと責められたのと同じように、俺はただ同じことを繰り返しているのだ。何時また同じように責められても可笑しくはなかった。それでも俺をやさしいと呼ぶバニーのことが、時折どうにも分からない。
 ごめんなさいってバニーが言う。僕は貴方に迷惑を掛けたいわけじゃなかったのにと、なあ、そんな顔をするなよ、

「俺、お前のために出来ることなら、何だってしてやるのに。」

 我ながら随分と酷い言葉だった。責任も何もない、見捨てるような言葉でさえあった。自分が選べないことを、全て押し付けるためのそれに、微かな罪悪感が心臓を刺したようだ。とても痛かった。
 ああ、とそのくちびるから祈るような声が漏れる。そんな動作に、期待しているのは何時だって俺の方なのだ。

「……こてつ、さん、」

 それでもやっぱり、バニーは俺を呼んだだけだった。今にも消えそうな、涙に濡れた、道に迷った声だった。
 俺の顔を見ようと動く緑色が、何だかまるで、縋るみたいな風なのを知っている。
 たとえば、ほんとうに、貴方は僕から離れないでくださいとたった一言紡ぐことも、そうして俺を縛り付けることも出来ない可哀想な兎の為に、どうしたってやさしい歌のひとつでも歌ってやりたかったことは確かなのだった。けれどその緑色が、俺を見て永遠を見たみたいに細められるとき、俺はちゃんと笑えているのだろうか?



 この世の全てはその柔らかな肉を抉るだけで、世界はこぞってお前をひとりきりにするだけで――そうして俺だってそうやって、いつかおまえをひとりにするというのに。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -