(家と三/家康赤ルート/二度と戻らない)




 許されていると情けなく笑った顔を、忘れることが出来なかった。





 とん、と。声もなく室内へ入ってきて、文机を前にした己の背に遠慮がちに合わされたそれが、余りにも家康という男らしからぬ所作であったものだから、まず驚いた。本当に恐る恐るといった調子で、まるで人見知りのする幼子のようだったのだ。やたらと高い体温が伝わってくる嫌悪感は、不思議と余りない。人が太陽と呼ぶのも頷けるような、陽だまりじみた、どうにも抗いがたい類のものなのである。同じ人の体温であるというのに、三成自身のそれは、何時でも大した温度さえ持ち合わせていなかった。

「……何だ?」
「……怒らないのか?」
「意図して私の妨げをしに来たのなら容赦はしないが、」

 どうせそんなつもりもないのだろう貴様は、とどちらかといえば吐き捨てるようだった三成の言葉に、何故だか背を合わせた男は小さく笑いだした。その振動に仕方なしに筆を置き、未だ怖々としか触れあっていない背に此方から重さを掛けると、その笑みは困ったようなものになる。
 家康という男は、三成の一挙一動に苦笑することの方が多いほどだった。
 何をしても――それが例え家康にとって喜ばしいことだろうと、何時だろうと家康は困惑ばかりを顔に乗せるのだ。そう思い返すと益々苛立ちが増して、更に体重を掛ける。するともう殆ど背を丸めた家康が、今度こそ途切れがちにではあるが、耐えきれないように声をあげて笑った。

「ああ、もう、三成はワシに寛大だな。」

 言葉と共に、体重を乗せ返されて、結局は三成が少し前かがみになる。体格の差だ。いっそ苦しいほどの圧迫に、三成は唸るように抗議の声をあげた。家康は笑うばかりだった。

「ワシは、三成に許されると、どうしようもない心持になる。」
「……背を合わせるくらい、戦場でもしているだろう。」
「違う。こういう戯れを、お前が交わしてくれるだけでワシは随分と嬉しいということだ。」

 大層なことでもあるまいに、家康がまるで、何にも勝る僥倖とでも言いたそうな切実な声音で言うものだから、三成は居住まいを正さなければならないような気が起きてくる。
 家康が三成に寄せる、夢見るような感慨に触れるたび、三成の胸中を満たすのは何とも名状しがたいものだ。それこそ、どうしようもないような。

「私自身が、私の判断で、人を許すわけがない。」

 ようやく絞り出した言葉に、しかし家康は、何ひとつ変わらぬ調子で言葉を重ねる。

「三成、お前がどう思っていても、ワシにとってお前は寛大な存在で、たったこれだけの戯れも許しなんだ。」

 それは先ほどまでの所作とは違う、家康らしい独善的な色を纏ったものだった。家康という人間を支えるのは、自らの信じる正しさだ。三成のそれよりも恐らくは独善的だろう正しさを、三成は余り好いてはいなかった。時折相容れない原因は、常にそこからの相違であるからこそ、どうにもならない。人の正しさを許容出来るほどに、三成は決して寛大などではないのだ。
 合わせた背が、釣り合う程度の重さを掛けあっている。
 それにまるで笑むように目を閉じた三成は、家康を決して好ましくは思っていなかったけれど、本当に時折、自分とは似ても似つかない家康と過ごす時間のこういう緩やかさは好ましかった。恐らくはとても優しい造りをしているだろう男の、縁遠かった筈の生温さが近くにあることが、とても。「――……三成に許されないワシを、ワシはきっと、愛せはしても好きにはなれないのだろうなあ。」

 そうして零れ落ちるような言葉に、愛せるのなら好いているのではないかと不満にも似た声を漏らした三成に、酷く柔い声でそれでも否定を示したときでさえ、家康は苦笑を浮かべていたのだ。常と同じように、呆れたような、安堵したような、途方にくれたような――そういう顔で、




 ――どうして最後にそんなことを思い出してしまったのだろうか。偽善を振り撒き続けた男の拳がこの身を決定的に抉ったときに見えた顔が、笑えるほどに空虚だったからだろうか。
 許されるとは欠片も思わなかったに違いなかった。男は決して愚鈍ではなかったし、むしろとても聡明であった。全て理解しても尚、三成の世界を蹂躙することを選び取ったのだ。憎かった。ゆっくりと命の灯が消える瞬間にさえ、憎くて堪らなかった。音を立てて緩やかだった時間が崩れ去ったことも、重ねた言葉が色を失くしていったことも、全てはもうすぐ意味さえ失う。
 嗚呼、何処かで信じていたのだ。男の言葉を、一字一句漏らさず、心の底から。男が三成に抱いていた夢想が、三成のそれと同じように、男の心に例えようもなく――切り捨てがたいほどに根ざしているものだと、信じていた。
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