騙されてあげよう。



 腕を伸ばし、手を広げ、その頬に触れる既の所で、動きを止める。俺の目の前で膝を付く、その顔に浮かんでいるのは、浮き沈みの極端そうな驚きだった。薄暗い俺の庭で、ただただ、アンタばかりが目眩がしそうに明るいと。そんなことさえ考えながら、俺は手を伸ばしたのだ。
 こうしていざ言葉にしてしまえば、我ながら情けない動作だった。
 まるで、縋っているようじゃないかだなんて――それはそれは馬鹿らしい、妄言ではあるが。

「触らないのか、」

 僅かに身構えていた先輩は、怪訝な顔で俺の手と顔を交互に見遣ってみせる。「期待してたんすか?」揶揄するように笑えば、いとも容易く頬が紅潮する。そのまま怒鳴ろうとしたらしく開いた口は、しかし唐突に声を失ったように、無意味な開閉を繰り返すだけだ。一瞬、逡巡するように伏せられた目に、ぞくりとした。
 それは決して揺らがないようなものが僅かにでも崩れる素振りを見せると、異常なまでに肝の冷えるあの生々しい感覚である。断じて、胸が高鳴るような前向きなものではない。

「……していたと言ったら?」

 なのにそうして困ったように先輩は笑ってみせるのだ。優しいというよりは迂闊で、迂闊というよりは無防備な笑い方だった。嫌だと思った。
 嫌です。いやですよ、と。

「アンタ優しいから、そういうの、駄目だろ。」
「意味が分からん。」
「優しい先輩は、……嫌いなんですよ、俺。」

 声は震えるわけもない。その鮮やかな赤が、気の毒そうに俺を見ている錯覚。あながち間違った認識ではないから、困ったものだ。其処に在るのは哀れみに良く似た感情だと知っている。
 その手のひらが、行き場のない俺の手の甲に添えられた。「クルル。」低く掠れた、囁き声に呼ばれる。

「俺は貴様が嫌いだ。」
「先輩。」
「だから、安心するといい。」
「せんぱい。」

 止めてくれよとでも言いたかったのに、人の話を聞きやしない。手放しに顔を崩して笑う、その顔に肌が触れる。堪らなく泣きそうだったのは確かに気の迷いで、その生温い体温に、どうしようもなくなったのに理由はないのだ。
 同情や、哀れみや、その他少しの暖色系の感情。
 可哀想な子供に優しくしたがる、良く出来た大人の、持て余したようなそれらに溺れるなんて御免だったから、俺は笑った。この人の下手な嘘に取り繕われる為に生まれてきたようなつもりで、それが当たり前のような顔で、俺は笑ってみせてやりたかった。これで満足なのだ。――どうしようもないことに。




 1.アイデンティティー
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -