きみと見た三日月
「こんばんは、たしかユーリさん、でしたよね」
僕は、彼のことをよくは知らない。
それでも声を掛けずにはいられなかったのは、声を掛けなければ消えてしまいそうに感じたからだ。
何故そう感じたかは、僕自身にもよくわからない。
「君はたしか…」
彼は驚いたようだったが、立ち止まってくれた。
「スカイハイです。今はプライベートなので、キースと呼んで下さい」
手を差し出すと、緩く握り返してくれたので力強く握り返した。
彼の手はとても冷たくて、彼の指はとても細くて、簡単に折れてしまいそうだ。
そして、いつも思ってはいたが、やはり顔色も良くはない。
「キースさんは、どうしてこんな所に?」
キースの手には白い薔薇の花束が握られていた。
「待っている人がいるんです。けれど、もう会えないのかもしれない…」
キースの瞳にはみるみるうちに涙が溜まり、頬に一筋雫が流れる。
これにはさすがのユーリも驚き、戸惑いながらもキースの背にそっと手を沿えた。
「少し、座りませんか」
キースは黙って頷き、二人は並んでベンチに腰を降ろした。
シュテルンビルトの街の明るさに弱々しい星の光りは殆ど掻き消されてしまっていたが、空には細い三日月が引っ掛かっていた。
隣からの啜り泣く音が止むまで、ユーリは夜空を眺めて過ごした。
どうして、よく知りもしないこの男のことを放ってはおけないのだろう。
「……すみません、もう、大丈夫です」
キースの声に隣を見れば、彼は泣きすぎて鼻が垂れて止まらないらしく、必死に啜っている。
ユーリは思わず笑いが込み上げてきて、笑ってしまうのを堪えながら、きっちりアイロンの当てられたハンカチを差し出した。
「よかったら、どうぞ使って下さい」
「……でも、あの」
他人のハンカチを汚してしまうことに抵抗があるのだろう、キースはなかなか受け取ろうとしなかった。
ユーリは深く考えずに口にしていた。
「では、今度洗って返して下さい」
「……それなら、お借りします」
キースはハンカチを受け取って、盛大に鼻をかんだ。
ユーリはついに堪え切れなくて、くっくっと肩を揺らして笑い出した。
急に笑い出したユーリに、今度はキースが戸惑い首を傾げる。
「あの、どうかしましたか?」
「……いえ」
まだ込み上げてくる笑いを必至に抑えながら、ユーリはキースへと視線を向けた。
そこには大きな図体のくせに身体を丸め、なんだかしょんぼりした様子の彼の姿があった。
なんだか、大きな犬みたいな男だな…。
ユーリの目は自然と細められた。
「今日でちょうど、一週間なんです」
ぽつりと呟かれたキースの声に、ユーリは再び隣へと視線を向けた。
「ここで、彼女と出会ったんです。もう、一週間姿を見ていません。今日逢えなかったら、もうここへ来るのをやめようと思っていました」
ユーリは口を挟まず、黙ってキースの言葉を聴いていた。
彼は別に、相槌など必要としていないように思えた。
ただ、誰かに話を聴いてもらいたいのだろう。
だから、ユーリはキースの言葉を聞き流しそうになった。
「君に会えてよかった」
ユーリがその言葉を理解するのに、僅かに時間がかかった。
「また、ここで会えますか?」
返答に詰まり、ユーリはキースの瞳を見つめた。
これは社交辞令なのだろうか。
キースの真意が読めず、返答に詰まっているとキースの眉毛が情けなく下がった。
「急にこんなことを言って、迷惑だっただろうか…」
ユーリには、キースの頭に犬のように耳が生えていて、その耳がしゅんと垂れているように見えた。
そのせいで、普段のユーリならば絶対に言わないであろう台詞を思わず口にしてしまっていた。
「また、お会いしましょう。ここで」
キースは一瞬驚いたように目を丸くして、すぐ破顔した。
「ありがとう!そしてありがとうっ!」
急にキースに抱き着かれ、ユーリは不慣れな展開に戸惑った。
それでも、キースの温もりは不快とは思わず、むしろ心地好いとさえ感じている自分自身にまた戸惑う。
どうしてよいかわからず、しばらくの間ユーリはキースに抱きしめられたままでいた。
しかし、キースの力は強く、ユーリは徐々に息苦しくなってきた。
「あの……、すみません。離して頂けないでしょうか。少々苦しくて」
「わあっ、すみません!」
慌ててキースが腕を解き、ユーリはようやく自由の身になった。
けれど、彼の温もりが離れてしまったことを淋しくも思った。
そんなユーリの心を読んだように、隣に腰
掛けるキースがユーリの手を握ってきた。
キースはユーリの方は向かず、空を眺めていた。
つられて、ユーリもキースの眺める空へと視線を向ける。
先程と変わらず、空にはやはり細い三日月が浮かんでいる。
「月が、綺麗ですね」
キースの言葉に、ユーリは同調しかねた。
こんな細い三日月が何故、綺麗なのだろうか。
ユーリが黙っていると、キースは続けて言葉を紡いだ。
「空を飛んでいると、満月は明るすぎて吸い込まれそうで怖いんです。僕は、三日月の儚い光の方が綺麗で好きです」
二人は手を繋いだまま、空に浮かぶ三日月をいつまでも眺めていた。
Fin.
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ユーリ=ペトロフ・ルナティックのWEBアンソロ企画