※【鉄の鳥】のアンサー。歌鶯の心中未遂。ちゅっちゅぎゅっぎゅしているだけの平和な話。
【生きて、息】
「呼吸を止めたら、俺達は死ぬのだろうか」
歌仙兼定が縁側で茶を嗜んでいた頃。鶯丸は、突然に妙な事を言い出した。
「急にどうしたんだい」
歌仙兼定は眉根も動かさずに尋ね返す。そう、彼の発言は少々唐突だった。穏やかに羽根を伸ばしていた所を急にやってきてこれである。しかもそのまま隣へ腰掛けてくると来た。驚いたといえば驚いたが、歌仙兼定はこんな事で心乱されるほどにやわな精神を持ってはいない。ああ、今日も茶が美味である。そう思いながら鶯丸の言葉に耳を傾けている。
「俺達の肉体が死ぬのは、この刃の折れた時だろう」
「そうだね」
「となると、この肉体が先に限界を迎えればどうなるのか」
気にはならないか。そう、声を荒げずに捲し立てる彼は少し珍しかった。歌仙兼定は思い返す。鶯丸は刀にしてはそこそこに珍しく平和主義だ。彼が傍に居る時は自分すら落ち着いて過ごせている気がするほどに。まあ、彼も自分もやる時はやるが、それは置いておいて。
「なるほど、どうだろうね。試してみなければ分かるまい」
鶯丸の常との差異に歌仙兼定は少々興味が沸いた。まだ一度しか口を付けていない茶碗を置いて彼の方へと向き直る。そこには嬉々としながらも真剣な双眸を光らせる刀が居た。
「ならば、試してみないか」
「試す、と」
「そのままの通り、呼吸を止めるんだ」
「ふむ」
確かに、これがどうなるのか知るにはそれしか方法がない。となると鶯丸はそれなりに危険な賭けをする気なのだろうか。何も起こらないかもしれないが、このまま死んでしまう可能性だってあると言うのに。
「出来れば君にも」
瞳が煌めく。春告鳥の名を冠する刀の二揃の翡翠。緑の光が、ゆらゆら。
「何故」
夜に乱れる庭の桜木を思わす怪しさ。実に神らしい視線に喉が鳴る。自分はこの瞳が嫌いでない。
「一口だと、どうしても手を離してしまう」
「なるほど、ならば互いの口と鼻をふさぎ合えばいいのか」
そんな神ですら生存本能には逆らえないと言うのだから、驚きだ。
「いいか?」
「いいよ、この本丸にて今後の役に立つかもしれない」
「……感謝する」
歌仙兼定が了承すると鶯丸の瞳は何処か色濃さを増したような気がする。その色を見てふと思い出す。そう言えば自分は茶を嗜んでいた所だった。茶碗を手に取り直し、飲み口へそっと口付ける。瞬間、重い苦味が舌先から口内へ広がった。これは酷い。出がらしだ。時間を起きすぎたのだ。眉をしかめて歌仙兼定は茶碗を元の場所へ戻した。
「では、具体的にどうするんだい」
話題を戻して茶を濁す。今の自分は実に風流に欠けた顔をしていただろう。風流でないものに触れてしまったのであるから、当然の事と言えば当然の事なのだが。視線を戻した先で鶯丸の唇が緩やかに弧を描いている。お互い見つめ合って会話を交わしていたのだ。先程の自分が目に入らなかったわけがない。歌仙兼定の頬がカッと熱くなった。
「方法はもう決めてある。良い物を前に見かけたんだ」
一瞬、彼の目が大きくなった気がした。
「ふむ、それはどんな……んっ」
それは気のせいで。彼の顔が自分のそれに急激に近づいていたのだと、歌仙兼定は少し遅れて知覚する。
唇と唇が、触れていた。なるほど、確かにこれならば呼吸のしようも無い。触れた時に相手の歯で切れたのか鉄の味が口内へ広がる。歌仙兼定は笑う。苦すぎる一口よりも血の気滲んだ口吸いがいい。
鶯丸も笑う。笑って、舌を入れた。驚く目前の青玉が小気味いい。平生に動じなさ過ぎるのだ、この刀は。これから死ぬかもしれないのだ。鶴丸国永では無いが、最後にちょっとばかり驚いていればいい。
「う、」
鶯丸が前歯の裏を撫でると、歌仙兼定が嗚咽のように奇妙な音を上げた。良くは知らないが人間はここが良いらしい。きっと彼もそうなのだろう。それ故の喘ぎなのだろう。ちょっと試してみたらこの反応とは。人の体と言うのは中々に奇妙奇天烈摩訶不思議。
何度もそこを舐めていると次第に歌仙兼定の瞳がうるみ、体が小刻みに震えるようになっていた。そして段々と力が抜けていく。
ああ、面白い。もしかしたら自分はこの静か過ぎる刀が少々憎らしかったのかもしれない。いつも片割れを待って心乱されている自分と違って、常にどっしりと構えている歌仙兼定の事が。もちろん、戦場での彼の所作は別として。
鶯丸は思う。ただ、その綺麗な面差しが歪む所を見たくてあんな事を言ってみたのだと知ったら彼は怒るのだろうか。どのような顔で怒るのだろうか。戦時の様な敵方の首を一つでも多く落とさんと迫る修羅の顔だろうか。それとも弟分である和泉守兼定が悪さをした時に叱る、兄の顔か。
考えを巡らせていると、段々歌仙兼定の動きが弱くなっていたことに鶯丸は気がついた。そう言えばこの目で見ること永劫叶わぬであろう彼の面差しに思いを馳せている間にも、口内を責める事をやめはしなかった。その間かなり呼吸乱れていたから早くも酸欠を起こしているのだろう。今の歌仙兼定の目はぐでんぐでんに溶けて明後日の方向を向いている。中々けったいな顔だ。小気味いい。
ああ、となると、先に落ちるのは歌仙兼定か。ここまで考えてから鶯丸は気が付く。歌仙兼定が死んだら、そうしたら、自分は今度誰に口を塞いで貰えばいいのか。
「……駄目だ」
自分の考えに驚いて、頭を後ろへ下げた。顔は案外簡単に離せた。おかげで話せた。歌仙兼定の意識が既に朦朧としていたのが幸いか。
「起きてくれ、歌仙兼定」
今にも倒れそうにふらついた彼の体を支える。鶯丸の声が聞こえているのか居ないのか、歌仙兼定は全速力で駆けた後のように荒い呼吸を繰り返した。背筋が冷える。この感覚はなんだ。変だ、気温が変わったわけでも無いのに寒い。寒いのに汗が出る。何も口へ含んでいないのに、舌の裏が苦い。気持ち悪い。
「……どうしたんだい、急に」
これを知らないと言うのは、嘘になる。触れたことがなかっただけで、存在していた事だけは長らく付喪神として過ごして知っていた。
「君が死ぬかと思うと、怖くなった」
置いて行かれるのが、怖くなった。彼の冷たい躯を抱く事を思うと、背筋を嫌な寒気が走った。背骨の周り、肉の間をかき分けるように通る風。それは、恐怖。きっと恐怖。恐らく恐怖。
そう告げると、呼吸の落ち着いた歌仙兼定は少し意外そうに言った。
「君も、そんな泣きそうな顔をするのだね」
何を言ったのかと思った。そして鶯丸は気づく。ああ、自分は泣きそうだったのか。気が付いたら透明なしずくが瞳から零れ落ちていた。もう、声すら出ない。
これが、涙か。これも、初めて触れた気がする。鶯丸は思う。思うと同時に頭の中がいっぱいになった。そのまま自分ですらよく分からない衝動に襲われて、視界の端で揺れる紫髪に指を絡ませる。
「いいよ、なけ、なけようぐいす」
そんな鶯丸の姿を見ると、どうしてか。歌仙兼定は鶯丸の頭を自らの厚い胸板に抱きしめていた。柔らかな緑を撫でてやると、鶯丸は大声まで上げて泣き始めた。
「いきろ、うぐいす。しぬな、うぐいす」
死んでは、片割れに永劫会えなくなるぞ。思えば彼は長いこと存在する刀だが、この本丸では一番に遅く肉を受けた。彼の言動はまさに最年長とも言える穏やかさで、彼が一番の乳飲み子である事に誰も気が付けなかった。この涙は、この遅すぎる産声は、死への恐怖という人間の原始的な感覚であろうか。それとも長いこと慕っていた相方に会えずに病んだ気の噴く欠口か。刀であり、鶯丸では無い歌仙兼定にはそれの意味する所が何であるかはわからない。彼が今ここでやっと生まれた意味も理由すらもわからない。ただひとつ、この大きな雛鳥が愛しくて愛しくて堪らなくなった。こんな簡単に死んでくれるな、と思った。
「生きろ、鶯丸」
生きるというのは、素敵なことだよ。空を飛ぶ鳥。日々の疲れを癒やす花々。全てを包み込む大樹の森林。季節を感じること。言葉を交わすこと。体を力いっぱいに動かすこと。戦うこと。切ること。生きること。今のうちに手に触れて、視界に入れて、いつの日か来るであろう兄弟にこの素晴らしさを君が分けてやれ。
「この、歌仙兼定と共に」
それまでは自分がただこうして傍にいよう。二口とこの本丸中の刀とで時の流れを歩んでいこう。空の飛び方は、少しずつ知っていけばいいいんだ。
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