【火の粉は忘れない】


 コツコツコツ。低い音が断続的に響く。金属質な音。硬い革靴が鈍く床を叩く音。階段を降りる音。
 コンコンコン。ノックする。冷たいドアノブ。鉄製のドア。地下室の野暮ったいドア。返答は無い。予想通り。ノブを回す。耳へ残る歪なノイズ。甲高い悲鳴と共に扉を開く。

「……やあ、久しぶり」

 そこは狭苦しい地下室。僕のかつての私室。ぼくのかつてのせかい。窓のない暗い部屋。ズタズタの人形と壊れた玩具が転がっている。

「あまり、変わらないね」

 埃が煙る程度だろうか。最後に見た時となんら変わらない光景が広がっていた。誰も入っていないのか。思わず安堵する。ここへ僕以外の人間の侵入を許す気は無い。そもそも誰も入りたがらないだろうけれど。
 何の気なしに、転がっていたウサギの人形を1つ拾い上げた。ボロボロで耳が外れ、目も抉れたぬいぐるみ。白かった布地はいつの日からか黄ばみ、濁った灰色になっている。

 懐かしい。誰も愛をくれなかった頃、大切に大切に愛情を持って接していた覚えがある。勿論今でもそんなもの、誰もくれるわけが無いのだけれど。
 大切に抱きしめて、愛おしさを持って傷つけて。僕は満たされながら飢えで泣いていた。

「今更そんな物、欲しいとも思わないけどね」

 そんな事はもうどうでもいい。もう、僕にはちゃんと新たな居場所があるのだ。
 去年、僕はこの部屋を出た。ユーリの代用品として使用人に連れられて。おかげで今は屋敷の上の方にちゃんとした研究室がある。僕の部屋。御父様から与えられた、新しい世界のうちの1つ。ここは古い部屋。古い1つだけだった世界。ここはもう、用済み。

 そう、用済みだ。

「今日はここを処分しに来たんだ」

 無造作に灯油を辺り一面へばら撒く。ここは全て焼却するつもりだ。理由は特にない。あえて言うとしたら、目障りだからだろうか。
 勿論この屋敷を火事にするわけにはいかない。ちゃんと水流操作に長けた者を上の階へ配置してある。僕が火を付けてここから出たら、上から頃合いを見て一斉に水をばら撒く所存だ。連れてきてはいない。邪魔臭いし。
 ついでに僕も消火器を噴射する。役に立つとは思えないが、何もしないよりは良いだろう。何もしないでその後を彼らに任せるのはいささか不愉快だ。

 さあ、辺りはびしょ濡れだ。僕に残された道は、さっさと火を付けて退散するだけの事。

「そういうわけで、さようなら」

 古臭いマッチ。火を付け、手にしていた人形と共に放る。壊れたウサギは床へと転がる一瞬で炎に包まれた。もう跡形も無い。灯油の入っていた缶も適当に投げ捨てる。カランと小気味良い音が地下の空間へ反響した。
 散った火の粉が肌を暖める。埃の焦げる、饐えた臭いが空間を埋めた。扉を閉める。鈍い音がまた僕の鼓膜を揺らした。部屋の中はもう見えない。
 僕は階段を上がる。ゆっくり上がる。コツコツ、乾いた音が再び響く。背を熱い風が湿らせた。
 床が見える。一階の床だ。僕は出る。新しい方の世界。見慣れぬ屋敷と、見慣れぬ能力者達が出迎えた。

「……よし」

 一息つく。僕は先程からあまり呼吸していなかったようだ。何故だろう。知らない。心臓が熱く脈打つ。空気は肺を押し広げて肉を蝕む。
 後はひたすら待つだけだ。あの火の勢いを考えると、そう長くはかからないだろう。せいぜい半刻か。消火活動自体は、恐らくこの人員で十分だろう。ちゃんと埃の1つも残さずに全てを消せる。余裕を持った配置が功を為した。この世界では、念には念を押しすぎるくらいが丁度いいのだ。

「さあ、早く」

 薄笑いを浮かべて念じる。さあ、早く。きっと早く。もっと早く。少しでも早く、全てを灰に。急げ、僕には時間が無い。無いんだ。
 逸る気持ちを抑えきれない僕の頬を、ここにある筈の無い火の粉が、さっと撫でた気がした。僕のかつての世界。今はきっと真っ赤に燃えている。積もった年月を焦がして、赤く全てを飲み込んで。

「早く、消えてしまえ」

 部屋の中。放ったウサギの人形はもう死んでいる。
 過去の何処か。かつてのぼくも、もうしんでいる。





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