【スノー・ホワイト・シンデレラ】
時計塔の上。風の吹き抜ける空も、足下に広がる町並みも、全てを等しく見通せる高所。なまえは、そこで少しばかり人待ちをしていた。
寒い時期だからか、当然の様に人気は無い。せいぜい、偶に清掃員が来る程度か。
「やあ」
「……遅かったわね」
だからこそ、彼らはここを待ち合わせ場所に指定したのだが。
「ごめんごめん……最近、冷えるね」
「そうね」
理由は至極単純。まあ、なまえの待ち人はちょっとした指名手配犯な訳でして。
彼の名は兵部京介。巷ではそれなりに有名な史上最悪のエスパー犯罪者。そんな彼が町中のよくある待ち合わせスポットなんかに現れたら、当たり前の様にパニックが起こるのである。
そういう訳で、地上で目立たぬようにここを指定したのだ。バベルや警察に追い掛け回されては幾ら彼女が高レベルのテレポーターだとしても、中々に面倒なことになってしまう。
「待ち合わせ、屋内が良かったかな」
なまえの真っ赤になった鼻をつつきながら兵部は言った。
「別にいいんじゃないかしら」
なまえはその手を即、払い落とした。ぺん、と乾いた音がなる。鼻の部分だけ化粧が落ちる事を良しとする女子は、そうは居ない。
「そう?」
「ええ」
彼はそれを特に気にも止めず、今度は彼女の髪を弄り出す。やはり時を待たずして、またすぐ、ぺん、と音がなった。
「そっか、じゃあ行こうか」
「そうね」
諦めたのか、飽きたのか。なまえに背を向けて、兵部はひらりと時計塔から飛び降りた。
ああ、降りたと言うには語弊があるかもしれない。彼も高レベルエスパー。飛びはしても落ちたりなんぞはせず、そのまま空に静止している。
「ほら、お手をどうぞ、シンデレラ」
そしてなまえに手を差し伸べる。その図を見て、彼女は少しデジャヴを感じた。
むかし、むかし。もう何年も前の出来事。彼女は、この手に救われたのだった。紛争で身内が皆死んでしまった時、会ったことすら無かったこの手の主だけが生きて自分の事を底の知れぬ二つの瞳で見つめていた。
あまり思い出したい事では無かったらしい。なまえは頭を左右に数度振り、その勢いで脳に映しだされた記憶をも振り払う。先ほど兵部が指を絡めていた髪が、サラサラと冬の冷気を切り裂いた。
「どうしてシンデレラなの」
気を取り直して尋ねる。兵部の手は未だに彼女の方へと伸ばされたままだ。
「もうすぐ12時だからさ」
ちらりと真後ろの時計を見やると、確かに針はその位の時刻を指している。11時57分。なまえがシンデレラだとしたら、もうすぐ彼女の魔法は解けてしまうのでは無いだろうか。
「お昼のね」
「細かい所は気にするもんじゃないよ」
「はいはい」
否、どうやら後12時間はあるらしい。上空は確かに厚い雲に覆われていたが、陽光がしかと肌の上に感じ取れる。寒い冬の真昼だ。
「……あ、雪だよ、なまえ」
少し会話を挟み、いい加減に彼女が彼の手を取ったまさにその時。冷たい氷の欠片が兵部の頬へと落ちて、跳ねた。
「あら、本当ね」
ぽつぽつと小さな粉雪は次第にその数を増す。なまえが彼の手を握っているのとは逆の腕を空へと向けて持ち上げると、肌に吸い込まれるようにふわふわと一粒の結晶が雪色をした手のひらに溶け落ちた。そこに残るは、小さすぎる冷たい水たまりだけ。
「うーん」
「どうしたの」
兵部が、ふと考えこむような素振りを見せた。なまえはと言えば、何でもいいから早く目的地を目指したい。彼の考えなぞに興味はあまり無い。それよりもとにかく、ここはあまりにも寒すぎる。
「やっぱり、君は灰かぶりじゃなくて白雪姫かな、って」
白雪姫。なるほど、雪が降ってきたからか。確かに彼女の頭には灰ではなく、白い粉雪がふわふわと降り積もってきていた。
「へえ、じゃあ私が毒を食んだら京介がキスしてくれるの?」
なまえは、その童話になぞらえた自分をふと瞼の裏に思い描いてみる。……正確には、描こうとした。
しかし、出来なかった。人知れず魔女の林檎を一口かじり取るなまえ。あまりにも呆気なく、疑うという心を知らずに命を落とすうら若きなまえ。残念な事に、ちょっとした妄想すら出来やしない。
だって、そもそも彼女は見知らぬ老婆から受け取った果実を何も考えず食すような、愚かにも純粋で清い少女に非ず。そんな純情からは少し歳を取り過ぎた、狡猾な女だ。
「毒林檎を食べていなくてもするよ」
「ふふ、それもそうね」
まあ、そんな事を考えるのも詮無きこと。笑いながら、どちらともなくもう一度目を閉じて軽い口付けを交わす。……ああ、だのにお互いの柔らかであろう温もりは雪の結晶に阻まれてしまった。冷たい水の鋭さが唇に滲みゆく。そうだ、こんな所ではキスも何もあったもんじゃない。もっと、温かな場所へ行かなければ。
「……うん、決めた」
「なあに」
兵部が口角を上げながら軽く手を叩く。少し腹の立つドヤ顔だな。引っぱたきたい。
そう思いはしたが、なまえは心に秘めておく。わざわざ口に出さずとも、目の前の彼はテレパス持ちだ。
「スノー・ホワイト・シンデレラ、これでどうだ!」
「白雪灰かぶり?」
思わず鼻で笑ってしまった。なまえに悪気があった訳ではない。あんまりにも、あんまりにそのまま過ぎたからつい、だ。
「語感を大切にした結果だよ」
おかげでこの面倒くさい男はちょっとばかり拗ねてしまったらしい。先ほどまでは彼女に向けていた顔を、プイと他方へ向けてしまった。こういう二つ名を考えるのが好きな人だから。そして、自分の考えに文句を付けられるのは大嫌い。実に、子供っぽい。外見年齢相応とも言える。
しかしなまえは彼のそのような性格があまり嫌いではない。むしろそこが彼女の好む彼の一面でもあるのだ。あくまでも、一面だが。
だからこの一見面倒な状況も案外満更ではなかったりする。
「はいはい」
なまえの冷えた唇から、ついぞ笑みが零れた。彼女はこの子どもじみた老人に案外ゾッコンなのであった。
「じゃあ、ほら、早く」
そんな彼女の笑みだけですぐ機嫌を直してしまうのだから、本当に子供の様な男だ。彼の深い苦悩と激情を知っているからこそ、なまえはこの人間の幼すぎる表層が面白くて面白くて仕方がない。
「はーい、どうぞよろしく、王子様」
くすくすと笑いながら、彼女も時計塔から飛ぶ。兵部の能力でその体もふわりと宙へ浮いていた。ついでに風も雪も遮断したのか、寒さも少々和らいだ様に見える。この様なちょっとした優しさも、なまえの好きな彼の一部だ。彼女からすれば人間とは実に複雑で、そして甚く滑稽な生物なのである。
「王子、って歳じゃないけどね」
「いいじゃない、永遠の17歳なのだから」
自分でずっとそう言い張っている癖に。軽口を叩きながら片手で髪にかかった雪を払い落とす。これでなまえはもう白雪姫でも灰かぶり姫でもそのどちらでも無い。スノー・ホワイト・シンデレラは繋いだ手のひらの温もりに溶けて消えてしまった。
「それもそうだ」
「でしょう」
それでも、彼女にかかった魔法はいつまで経っても解けないまま。年寄りの王子様も、彼女の手をきっと離さない。彼女は只今正午の鐘が鳴ったこの瞬間がとてつもなく幸せで幸せで、まるで命を食む林檎の毒の様だと、駆ける雪降る空を仰ぎながら微笑むのだった。
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