薄暮の先で | ナノ
少し前まで日の入り直前までギラギラと辺りを照らしていた太陽が、随分大人しくなった。そういえば、蝉の声もあまり聴こえない。変わりに鈴虫や蟋蟀が、やんわりと心地よい音色を奏ではじめた。数刻後には、見えない月が太陽と同じく西の空へと向かい始めるはずだ。月に一度のもう慣れきった、それでいて厄介な自分の体質を思い、犬夜叉は足を速める。
立派とは決して言えないが、かごめと二人で暮らすには十分な広さの家に帰りつく。陽はほとんど傾いている。間に合った、と心の中で呟いた。
「犬夜叉!良かった」
玄関先で、菜箸を持ったかごめに出迎えられた。
「ちょっと遅いから心配しちゃった。今日は弥勒様と一緒じゃないってさっき珊瑚ちゃんに聞いて……」
犬夜叉としては、一人で行って早く済ませたかった。妖怪に困っている人間は、一日でも一晩でも早く何とかしてほしいと思っている。いつどうなるか分からない状態で一晩過ごすよりも、早く言って退治してやった方がいいと、今日は特に思ったのだ。
「大丈夫だった?」
「雑魚妖怪だ。一発だぜ」
「そっか。お疲れさま」
かごめは安心したように息をついて労う。
「おかえりなさい」
二人でこの家に住みだしてから、犬夜叉が帰宅する度に必ず口にする一言。一度も欠かしたことがないことに、実は気付いている。が、それが何となく気恥ずかしくて、口にはしない。否、出来ない。
「おう」
「おう、じゃなくて」
かごめが少し剥れる。妙にこだわりがあるらしい。
「ただいま」
かごめの意図を汲み取って返すと、嬉しそうに微笑んだ。つられて頬が緩む。そのまま腕を伸ばして抱きしめた。腕の中から伝わるあたたかさ。鼻腔を擽る優しい匂い。クラリと眩暈がしそうだ。
「待ってて。ご飯もうすぐできるから」
手中から離れる瞬間がもどかしい。このまま手放さずにいたい―――……なんて。
(できるわけねぇだろ)
腕の中からすり抜けていくかごめを目で追いながら、胸の中だけで呟く。
かごめにヤキモチ焼きと言われたことがある。以前は否定していた。それがどうだ。最近は。
(ヤキモチどころじゃねぇ。独占欲の塊みたいになって……ねぇよな?)
何度も自問しては答えが出ず、自信がなくなる。自分でそんな問いを持つ時点でもう手遅れなのかもしれない。
抱きしめて、口付て。
それから。
(あ〜くそ!)
それから先を知りたくて。
かごめがどんな反応をするのか。
無意識に一度、肩を押したことがある。かごめはいとも簡単に後ろへ倒れた。覆いかぶさると視線が絡まる。驚き目を見開いた表情。その頬に触れる。と同時に、目についた自らの指。長く伸びた爪。それらに目がいって、結局犬夜叉の口から出た言葉は。
「寝るか」
「え?あ、うん」
驚きの中に垣間見えた脅えのような表情が、犬夜叉の理性に歯止めをかけた。だから、たどたどしく返事をしたかごめのその後の表情を、犬夜叉は見ていない。
「今日はね、ずっと気になってたことを教えてもらったの」
かごめの手料理を食べながら、今日の出来事などを話す。今日も楓のところで薬草と巫女の仕事を学んでいたらしい。
食事の片付けが終わってから、かごめは妙な模様を練習し始めた。
真面目なかごめは、学んだことをその日のうちに犬夜叉に聞かせたり見せたりして、復習することが多々ある。
今日もそれだろうと思っていた。だが、家の外にまで出てグルッと一周するもんだから、ちょっとの復習にしてはやけに本格的だな、と思った。
「まじないか?」
「うーん、そんなところ」
かごめが少し考えてから、出来た!と嬉しそうに答えたのと同時に。
ドクン
犬夜叉の心臓が大きく脈打つ。
「あ、始まっちゃった!間に合って良かった」
髪と瞳の色が漆黒へと変化していく犬夜叉の隣に座り込む。
「朔の日と関係あるのか?」
無意識に声が固くなった。話している間に、もう耳も爪も、五感も、かごめと同じ人間のそれになっていた。
「関係あるっていうか……」
「何だよ」
「楓おばあちゃんに結界の張り方を習ったの」
「結界?」
「そう、巫女の結界」
そうか、と得心がいく。
「桔梗は寝てる間でも結界を張ることが出来たでしょ?私も……練習すれば出来るようになるんじゃないかなって」
楓おばあちゃんに聞いてみたの、と続ける。
「だから、今日はゆっくり休んで」
少し心配そうにかごめが見上げてくるので、気にかかった。
「?」
「最近あんたなんか変よ」
「何が?」
「言いたくないならいいけど……さっき帰ってきた時だって何だか上の空だったし。せっかく結界覚えたんだしゆっくり休んで」
言いながら手を握ってくる。
「こうすると安心しない?」
「……」
無防備なやつ。逆効果だろ、と言いたいのを飲み込む。
「膝枕の方が……いい?」
「膝枕?」
「だって……」
かごめは言いよどむ。
「やっぱり何でもない!」
「はぁ?何だよ」
言えよ、と意味深に赤くなるかごめに詰め寄る。
「……いい匂いがするんでしょ?」
「へ?」
小さな声で聞いてきたかごめの頬がうっすら赤い。
その言葉で犬夜叉の脳裏に薄ら浮かんだのは。
『お前、いい匂いだ』
『あんなの嘘だ』
ぼんやりとした意識の中で、響いた自分の声。夢の中で囁いたような。そんな感覚。
あれは確か、初めてかごめにこの姿を見られた時。
「そ、そんなん言ったことねぇだろ!?」
耳まで真っ赤になる。
「そっか。無意識だったんだ」
「何だよ」
「ううん。やっぱり何でもない」
かごめは伏せ目がちに、大切そうに微笑んだ。
「さ!布団に入って!」
「んなのんきなこと出来るかよ」
人間の姿で布団に入るなんて、今まで一度もしたことがない。
「犬夜叉……お願い」
「何かが襲ってきたらどうするんだよ」
「……私の力じゃ信じられないってこと?」
「違う!」
はっきり即答した。
「まぁ、いいわ。どうせそんなこと言うと思ってたから」
そう言って、最終手段とばかりにかごめは顔を引き締める。
「ねぇ、犬夜叉。なるべくこの手は使いたくなかったんだけど……」
「……」
本能が警戒している。これはやばい。やばい。気がする。
「お願い。布団でゆっくり休んで。じゃないと……」
「じゃないと……?」
「おすわ…」
「わーかった!!入りゃいいんだろ!入れば!!」
予感は的中だ。人間の体でおすわり攻撃を食らうのだけは避けたい。
「ありがと」
かごめはホッとしたように微笑んだ。
二人並んで布団に潜り込む。別々の布団だ。隣り合わせでピッタリくっつけてはあるけれど。
誰より守りたいやつに守られている。
この状況は、犬夜叉にとって少し情けないような……男として歯がゆい思いが残る。
頭の後ろに腕を組んで、そんなことを考えていると。
「やっぱり眠れない?」
かごめが少し身を乗り出して尋ねてくる。
「……まぁな」
「そうよね……。ごめんね」
「かごめが謝ることじゃねぇだろ」
俯くかごめの表情を少しでも和らげたい。
「犬夜叉が安心して休めるように、私が守りたいって思ったんだけど……」
だんだんと萎んでいく声を聞いて、犬夜叉はむくりと起き上った。
「お前……」
分かってるようで分かってねぇのな、と言いたい気持ちを押し込む。知られたくない。けれどこのままにも出来ない。
「何?」
言いかけて口を噤んでしまった犬夜叉にかごめは問いかける。
「いいか。朔の日とか、人間の姿とか関係ねぇ。かごめはおれが守る」
「……うん。知ってる。今まで十分有言実行してくれてるから。だからね。だからこそ……。犬夜叉は?犬夜叉のことは誰が守るの?」
「おれ?」
「お互い様よ。守られてばかりはイヤよ」
凛とした声が響く。芯の通った、真っ直ぐなかごめの視線。
「一緒に支え合って。そうやって生きていきたいって思う」
「かごめ……」
「頼って、甘えてくれていいのよ。犬夜叉の器がそんなに大きくないって知ってるんだから」
「おい。聞き捨てなんねぇな」
「きゃー」
腕を引いて、膝の上に横抱きにすれば、かごめはキャッキャと楽しそうな声を上げる。そりゃかごめが心が広いのは十分知っている。知っているのだが。
「かごめはどうなんだ」
「私?」
「その……甘えたりとか」
あまりそういうイメージがない。甘え上手だとは思わない。
弥勒が以前珊瑚のことを「長女だからか……甘え下手なところはあるかもしれないな」と言っていたのを思い出した。そういえばかごめも弟を持つ長女だ。
「甘え……」
かごめは自分に振られたのが意外だったのかキョトンとしている。
「なんかあったら言え」
かごめみたいに目聡くないから、気付けていないのかもしれない。
腕の中の至近距離で見つめるかごめの顔が真っ赤になる。
「どうした?」
「……近いから」
「近い?」
ドキドキする、と呟くように小さく零した。
「かごめ」
「あ、甘えていいなら……イチャイチャしたい」
「イチャイチャ?」
「あ、そっかこっちの時代じゃ使わないんだ。えっと……ドキドキが、嫌じゃないってこと」
囁きながらゆっくり目をつぶる。彼女の長い睫毛が揺れる。
これはヤバイ。
歯止めがきかなくなる。
誘われるように口付ると。甘くて。離れがたくて。
「ん……」
色付いた吐息のような可愛い声が耳に届けば、もう何も考えられなくなる。貪るように繰り返してしまう。爪の短い手がかごめの肌に……。
「悪い」
我に返って距離をとる。
その動きに、かごめは眉を寄せた。そんな顔をさせてしまったことに、犬夜叉も眉を寄せる。
「もしかして犬夜叉……気にしてる?」
こないだの……その……横にたおした時……と躊躇いがちに言う。
「だから私のこと避けてる?」
「さ、避けてなんか…!!」
言い返そうとした時。
「違うの……嫌だったとかそういうのじゃないの」
迷いなく告げる。
「初めてだから……怖かったの」
火鼠の衣の裾を掴んで。
「でも犬夜叉は怖くない」
絡まる視線。今夜は同じ、二人とも夜の闇の色。
少しの緊張を胸に、ぎゅっと抱きしめる。
「私は犬夜叉の居場所になりたい」
「おれだって……」
抱擁に応じるように、自然な流れで背中に回してきたかごめの腕を、やんわり掴んで犬夜叉の首へと誘導する。
安らげる場所になりたい。
居場所を守りたい。
つくりたい。
欲するままに口付ける。
それがだんだん、深くなる。
触れた手のぬくもりがあたたかいことを知っている。
かごめが、教えてくれた。
だからこそ、もっと知りたいと求めてしまう。
その想いは一緒で。
だから、不器用な歩みでも。
先へ。
その先へ。
「かごめが欲しい」
一緒に重ねていく明日が、未来へと繋がっていく。
***
以前寄稿させて頂いたものです。
半妖版は書いたことがあるので、犬かご初夜の朔犬版でした。
この先を書こうとして照れてひたすら自分の中の何かと戦ってた記憶が。