東の君 | ナノ









 

「随分遠いとこまで来ちまったな……」
 大きな洋式の窓から見上げる月は小さく、遠く手の届かない距離を表しているようで。
 武士になるという夢をひたすら追いかけて、目の前にあった京での日常が、儚い幻だった気にさせられる。
 こうして遥か北の果てで、洋式の軍服に身を包んで指揮を執っていること自体、多摩の薬売りからは想像できない。
 
 アイツは今頃江戸だろうか?
 すぐには忘れられないかもしれねぇが、アイツだって女だ。
 好きな男でも見つければ、監禁まがいに辛い思いをさせられていた日常は少しずつ……忘れていくだろう。
 器量がよく人を惹きつける。男だってきっと大切にする。だからそれでいい。そうであって欲しい。
 初めて会った頃に比べれば、大分女っぽくなってきた。男装もいずれ無理が生じるだろう。
 あと数年もすればかなりの別嬪に……それを見れねぇのは少し残念だが、幸せになって欲しいってのが心からの願いだ。

「土方君、少しいいかい?」
 ノックの音に続く落ち着いた声で現実に引き戻され、土方は背凭れていた窓から離れる。
「あぁ、大鳥さんか」
 また物思いに耽っていたことを実感し、扉の先の上官に返事をする。
「明日の行程だけど……」
 今は戦に集中する時だ。遺された自分に出来るのは、それだけだ。
「すぐ行く」
 椅子に掛けていた上着を羽織り、部屋を後にした。
 

 大鳥と別れ自室へ戻ると、窓の外の月は先程よりも輝きを増しているようだった。
 京の都で見ていた頃よりも小さい。けれどあの頃よりはっきりと、土方の背後に影を映す程にこちらを照らしている。
「……」
 意味もなく、月に向かって手を伸ばそうとしたその時。
「っく……あ……っ」
 激しい渇きが全身を襲う。心臓を握り潰されるようで、呼吸が一気に乱れる。
「……くそっ!」
 山南の言っていた通り、北の大地は羅刹の身体に合うようで、昼間の辛さは殆ど我慢できるようになっていた。それでも時折こうして衝動的に発作が起こる。傍に人がいない時なのはせめてもの救いだ。
 部屋の中をもがきのたうち回りながら、落ち着くのをひたすら待つ。
「…っ……」
 ハァハァと肩で息をしながら、やっと落ち着きを取り戻した自分の身体に小さく安堵する。発作が起こる度に自分の限界を垣間見るようで、もう少し……あと少しだけ……と自らに言い聞かせる。
 机に両手をつきながら、正面を見上げると先程のまで輝いていた月は雲に隠れて見えなくなっていた。
 呼吸を整えつつ、目を伏せる。
 脳裏に浮かんだのは、誰よりも幸せを願う彼女の……泣くのを我慢しているような顔だった。

 『たとい身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂は東の 君や守らむ』

 捨てるに捨てられず、こんな所まで持ってきてしまった帳面に、ただ素直に浮かんだ句を書き記す。
 これで最後だ。もう開くこともないだろう、と思いながら。
 

***

 土方の部屋の整理をしている時だった。千鶴は少し古ぼけた見覚えのある紙綴りを見つけた。

「『豊玉発句集』……」
 京に居た頃、沖田が嬉しそうに持ち去っては土方を怒らせていた物だ。こちらに来てからも大切に残して、土方が少しでも心安らげる趣味を続けているのかと思うと嬉しかった。
「……あ!」
 懐かしさで思わず手に取ったのだが、きちんと掴めていなかったのか床に落としてしまった。
「すみません!」
 部屋には誰も居ないが反射的に呟く。そのまま屈んで拾おうとした。

『たとい身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂は東の 君や守らむ』

 偶然開いた頁に、走り書きで書かれたそれを見た瞬間。
 頭の中が真っ白になった。
 その句が最後だった。そこから先は真っ白な頁だけが続いている。

 追い返されるのを覚悟で土方を追って来てから、想いが通じてから、彼の好意をふとした瞬間に感じられるようになっていた。
「雪村君は本当に大事にされている」と、大鳥や島田に言われると、少し照れるが心の中で、奇跡みたいに幸せすぎることですと肯定できるくらいになっていた。
 嬉しかった。自分が彼を想っているのと同じくらい想ってくれているのだと、少しずつ信じられるようになっていくことが。
 そんな中。
 千鶴がいない間の彼の想いに、初めて直で触れた気がした。
 ここに来た時に、傍に居ることを受け入れられた時に彼の口から聞いたことはあったが……思わぬところで覗き見してしまった気分だ。

 『東の君』は自分だと信じると共に、覚悟を決めた彼の筆跡から目を反らせない。

 どんな想いでこれを書いたのか。
 朽ちるつもりで日々を過ごしていたのか、と時間が止まったように考え込んでしまった。

 どれくらいそうしていたのだろうか。

「おい。そんなとこに蹲ってどうし……」
「……!?」
 聞き慣れた声で、ハッと現実に引き戻された。
「千鶴?……どうした」
 最後の声が低く硬くなったことと、優しく目尻に触れる長い指で自分が泣いていたことに気付く。
「っ…土方さっ……。すみませ……っ!」
 必死にゴシゴシと拭うが、気付いてもなかなか涙は止まらない。
「……これを見たのか?」
 土方の視線が床の上で開かれた句集へと落ちる。
「すみません!勝手に見るつもりはなかったんですが……」
 言いながら、彼の声、姿、存在に涙がまた溢れてくる。

 どうしよう。どうしよう。
 縋り付いて、しがみ付いて、思い切り泣いてしまいたい。
 朽ちるなんて……朽ちるなんて……。

 唇を引き結んで、腕を伸ばそうとした時。
 
「そう簡単に朽ちてやんねぇよ」
 千鶴が動くよりも早く、大きな腕が伸びてきて、目の前は黒生地と菊の模様に変わる。 
 すっぽり包まれると温かい。生きているから、温かい。
「東の君が北まで来ちまったからな。死ねねぇ」
 死ねねぇ、はっきりと告げる凛とした声が千鶴の頭の中で反芻する。
「死なせません。土方さんは絶対に私が死なせません……!」
 そう誓いながら、力一杯抱き締め返した。

*****

 
 妻の膝枕で眺める今夜の月が、いつかの月と似ている……と記憶を辿っていた土方は、辞世の句を詠んだ時だったと思い至った。
 あの時の月も美しかったが、大きくても枠に囲われた洋式の窓からより、日本家屋の縁側、しかも愛妻と眺める月は別格だ。
辞世の句のつもりだったが、こうして東の君が北まで来て、側で幸せそうに笑っている今、似たような月でも別の句が詠めそうな気がしてきた。千鶴を泣かせるようなものでなく、喜ばせるような……。

「宵桜 鬼に狼 闇染めし 道を照らすは 春の月かな」
「俳句……ではなく短歌ですか?」
「あぁ。でもいまいちだな」
 コホン、と少し照れくさくなりながら咳払いをする。
「意味は……?」
「いや、俺の趣味は、下手の横好きでいけねぇ」
 意味を訊ねられるとは思っていなかったので、内心焦りながら返す。
「意味は教えて下さらないんですか……」
 少し不満げにむくれる千鶴は、どんな表情でも可愛い。
「意味が伝わんねぇ時点で格好悪ぃだろ」
 総司を筆頭に色んな奴にからかわれてきたので、自分が上手いとは思っていない。が、改めて意味を説明するのも情けない。
「何となく……分かりそうなのですが……」
 千鶴は噛みしめるように短歌を呟きながら、真面目に考え込む。その様子に自然と笑みが零れた。            
 彼女の頬に両手を伸ばせば、楽しそうな土方につられて千鶴も微笑む。
「むくれ顔も泣き顔もいいが、笑ってんのが一番だ」
「そう言えば……私は歳三さんの泣き顔を見たことがありません」
 ふと思い出したように、千鶴は土方の顔を覗き込む。
「泣き顔なんか見たくねぇだろ」
 言いながら眉根を寄せる。見せたいものではない。
「ずっと貴方を追いかけてきましたが……長い期間、背中を見てきたからかもしれません。でも、こうして隣に立てるようになってからも……」
 千鶴は昔は見せなかった、包み込むような大人の顔で微笑む。
「情けない歳三さんは知っていても……泣き顔は見たことがありません」
 はっきり情けないと言われれば、閉口するしかない。
 こうして二人で暮らすようになってから、時折妻に勝てる気がしない。
 それでも少しの意地をみせて、言ってくれるじゃねぇかと返そうとしたのだが。
「それが歳三さんの強さで弱さで……どうしようもなく愛しいところです」
 そう囁く声が、あまりにも優しいので。軽く見開いた目がだんだんと熱くなってきてしまった。
 眉間に皺を寄せながら目を細めると同時に、小さく鼻を啜る。
「歳三さん?」
 前を見据えていた千鶴が、訝しげに名を呼ぶ。
「……あんまり月が綺麗でな」
 色々思い出しちまった、と返す声が擦れる。
 あんなに恐れられた新選組の鬼副長が、千鶴の言う通り情けねぇもんだ。
 顔を覗き込む千鶴の後頭部を片手で引き寄せ、ゆっくりと口付けた。
「んっ」
 唇と唇の隙間から、濡れた吐息を零す。
「千鶴」
 そのまま腰に腕を回して押し倒す。
 覆い被さって見下ろせば、
「こ、ここ縁側です……っ」
 と頬を染めて小さく抗議する。
「お前が悪い」
 言いながら着物の帯を解いていく。
「月明かりに照らされたお前があんまり綺麗だから」
「どうしてそんなこと言えるんですかぁ」
 いつまで経っても顔を真っ赤にするから可愛くて仕方ない。
「言っただろ?オレは思った通りを口にするって。お前を可愛いと思ったら可愛いというし、どうしようもなく好きだと思ったら好きだと言う」
「っ……」
 白い肌に触れるか触れないかの手つきで、大切に扱う。
「千鶴」
 ゆっくり口付けながら名を呼べば、遠慮がちに、でも確実に応えてくる。
 綺麗だ、と囁いた声はちゃんと彼女に届いているだろうか。
 声や仕草、表情、肌、全てで伝えられればいい。

 いつか本当に灰になり、この身が朽ちるとしても。

 もう忘れろなんて言わない。

 逆に、彼女が覚えておくように。

 
 真っ先に思い出すのが愛された記憶であるように。

 お前はみんなを照らしていて、

 誰より俺が愛した女だ、と。





************
辞世の句のお話にしたかったんですが…あれ?
なんか他のなんちゃって辞世の句にもチャレンジしてみたんですが、まったく思いつかなくて土方さん以上に私下手でどうしようもなく…笑

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