1話 回廊の奥
ライラックの花が笑っている。決して広くないマンションのベランダの隅で。
「あなたも私を笑うのね」
篝いつきはひっそりと咲くその花に小さく話しかけた。朝日も昇り切ってもうすぐ学校へ行く時間。返答は返ってこない。それでも話しかけずにはいられなかった。そうして少し気持ちが沈むのを感じる。
その耳に、玄関のドアが開閉する音が聞こえた。いつきが作った朝食を食べ、いつきが作った弁当を手に持った母親が家を出る音だ。父親は既に出勤している。いつきに声がかかる事はない。いつもの事だ。何の変哲もない日常。
「あなたには私の事が見える?」
鉢植えに咲くライラックに話しかけてみる。勿論、先程と同様返答が返ってくる事はない。しかしいつきには、自分が見えないから、返答が返ってこないのだと、そう感じられた。見えないのだから、声も聞こえないのだろうと。いつきはそう解釈をし自分を納得させる。
傍から見れば滑稽な風景。いつき自身、自分は何をしているのか、という思いが浮かばないわけではない。だがしかし、聞きたくなってしまったのだ。吹いてきたそよ風に花弁を揺らす、その鉢植えに。風に乗ってライラックのほのかな香りがいつきの元に届いて、いつきは一層憂鬱な気分になった。
今日は始業式。新学期が始まる。いつきも準備をして家を出た。通学路を一人てくてく歩く。変わらない道のり、変わらない景色。変わらない、心。桜を綺麗だと思うゆとりだけは残っていて、いつきには自分の事と言えどそれが何とも不思議に思えた。
始業式が終わり、新しい教室へ。クラスは二年A組だった。一年の時同じクラスだったクラスメイトもちらほら見受けられたが、その誰もがいつきに話しかけてくる事はなかった。こちらから話しかける事もない。いつきにとってクラスメイトは、その他大勢でしかないのだ。
学校とは未来に必要な知識を学ぶ場所だと思っている。将来周囲と上手くコミュニティを築けるようになる為の予行練習だという者もいるが、彼女にとってそれがそんなに重要な事だとは思えなかった。一人でも、仕事が出来ればそれで良いと認識している。
初日から早速行われた席替え。皆がウキウキする中、いつきが引いたくじは窓際一番後ろの席の番号が記入されていた。これは幸いだと、それだけは喜ばしい。競争率が高そうな席だが、やはり誰もいつきに交換を持ち掛けてくる生徒は居なかった。
あてがわれた席に座り、担任の話を聞き流しながら窓の外、空に目を向ける。空は悲しい程晴れ晴れとしていて。それがより一層息苦しかった。
始業式の日は特に授業らしい授業はない。早速渡された課題をスクールバッグに詰め込んで、いつきは一人高校を後にする。向かうのは家ではなく、マンション近く、街の中心からは少し離れたところにある公園。家に帰っても誰も居ないのだし、誰か居たとしてもその目に私は映らないのだろうから関係はない。
ベンチに座ってほうっと一息つく。
「……疲れた」
思わず漏れた本音だった。たった一日、それ程大勢でもない同級生の中に揉まれただけで、どうにもこうにも疲れてしまった。青い空が、そんな思いを加速させている。しかしこれにもきっと慣れてくるのだろう。今までもそうだったのだから、大丈夫だ、といつきは心の中で自分に言い聞かせる。
ふと公園のベンチに目線を移せば、そこには最近よく見るようになった一人の男の人が居た。何歳くらいだろうか、人を見る目がない事は自分でもよく自覚している。年齢当てクイズ、なんてハードルが高すぎる。でも、なんとなく成人してはいるんだろうな、なんてぼんやりと思ったりはしていた。落ち着きがありそう、だとかそんな簡単な理由でしかないのだが。
その男の人は、暫く公園の中を眺めた後、ふいっとその場を去って行った。
「どうしたんだろう」
少しだけ気になった。他人に興味を持つ事なんて普段はないのだが。理由は簡単、自分が興味を持っても相手には自分は見えていないから。
篝いつきは透明人間である。透明人間、だと思っている。そう解釈しないと生きていけなかった。いつきの人生とは、そんなものだった。
自分は他人から見えなくなる魔法にかかっている。いつの頃からだったか、小学生か幼稚園か、はたまた生まれた時からそうだったのか。もう覚えていない。どうでも良かったのだ。どうしたってどんな過去があったって、今は変わる事がないのだから。
どう転んでも、どこまで行っても、自分は透明人間なのだ。色がつくことはない。透明に透明に、いつきは毎日を生きている。
次に公園の砂場に目を向ける。幼い男女の子供がままごとだろうか、楽しそうに遊んでいる。そんな幼少期はなかったなあと、いつきはぼんやり眺める。外に出て遊ぶという事が、まずなかった。外に出て遊ぶ仲間が、まず居なかった。
そのままぼうっとしていたら、いい塩梅に陽が傾いてきた。
そろそろ帰ろうか。いつきはベンチから立ち上がった。大分ぼんやりしてしまったが、出された課題は早めに終わしてしまいたいし、夕飯の準備がある。透明人間であっても家事をするという役割はあるのだ。何とも奇妙な事に。
今日の夕飯は何にしようか、冷蔵庫には何が入っていただろうか。考えながら家路についた。帰宅したらさっさと適当に夕飯を作ってしまう。父も母も帰りは遅いだろう。一緒に食卓を囲む事など殆どない。軽く食事を済ませてしまい、後は部屋に籠って課題に筆を走らせるだけだ。時折手を止めながら、それを進めて行く。シャワーは折をみて浴びれば良いだろう。入浴している音は聞こえるから、上手くすれ違う事が出来る。
そうやって一日を終えるのが、いつきのライフスタイル。何でもない、いつきにとって普通の事。透明人間は、そうして透明に一日を終えた。
ベッドの中で微睡む時間だけが、安らげるひと時だった。
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