◇幸せを散りばめたあの日々は−1/3−
過ぎてしまった時間は、心の一番大切な場所に灯り続ける。優しく、切なく、穏やかに…。
何気ない日常の中にさりげなく散りばめられていた幸せは、いつも優しい眼差しで"今"を見守ってくれているの。
この部屋の一面の壁は床から天井まで本が詰まっていた。
子供の身長では、せいぜいこの本棚の三段目までしか届かない。
白亜が精一杯背伸びをしても、四段目には指先が触れるだけ。
しかし白亜が読みたい本はそこにある。
そのときふわっと体が浮いた。
『…お父様!?』
「読みたいのはどれだい?白亜」
悠に抱きあげられ、白亜は目当ての本を手にする。
それを確認した悠はそっと白亜を床に下ろした。
「エリナー・ファージョンの短編集だね」
『ありがとうお父様。私このお話大好きなの』
「確かに。いい本だ」
『お父様は…チェーホフ?本当にロシア作家が好きね』
「奥が深いんだよ」
座り心地の良い大きなソファに、悠と白亜は並んで座った。
樹里と優姫が弾いているのだろう、ピアノの音が微かに屋敷内を漂う。
ゆったりとした曲調が耳を静かにくすぐる中、本の世界に耽る二人。
会話は無いけれど互いの存在感をやわらかに感じるこの時間を、二人ともたいそう気に入っていた。
読書というものは時間の空白に存在する。
読み終わりふぅっと一息をつくと、知らないうちに時計の針は二つも三つも動いているのだ。
とたとたとた
心地よい静寂は、愛らしい足音に破られた。
「…おねえさま?」
そっと開けた扉から、ひょっこりと顔だけを覗かせる優姫。
「ごほん、よみおわった?」
『ちょうど今読み終わったところよ』
「よかった!あのね、おかあさまがね、おかしつくりましょうって!」
読書中の白亜の邪魔をしてはいけないと思ったのか、おずおずと様子を確かめていた優姫は、白亜の言葉を聞くとぱぁっと顔を輝かせた。
そんな優姫を悠と白亜は愛おしそうに見つめる。
『じゃあ行きましょうか、優姫』
「白亜、優姫。出来上がったら無くならないうちに僕を呼んでくれると嬉しいな」
「だいじょうぶよ、おとうさま。いーっぱいつくるから!」
部屋を出て行く可愛い娘たちの後ろ姿に微笑んで、悠は再び本に視線を落した。