すぐそばに 土千
どこだ、ここは。 暗くて前が見えない。自分が立っているのかそうでないのか前へ進んでいるのかそうでないのか分からない。 ふわふわと浮かんでいるとも、水中にたゆたっているようなそんな感覚がする。 だが土方にとってそこは居心地が良くなかった。得体の知れないものが周りにあってぞわっと総毛がたつし、それ以上に何もなくて不気味だった。
すぐそばに
目を閉じればはっきりと血のようにまがまがしい液体――言うべきもなく若変水――とそれが入った小瓶が土方の脳裏に浮かび上がる。 恐らく全ての元凶の源であったが、皮肉なことに新選組を回していく上で欠かせなかったそれ。 あの少女と新選組を直接的に結びつけたもの。 かく言う土方もそれ無しでは今ここにいなかったであろう、そんなもの。
羅刹となり歯車が少しずつずれはじめていつの間にか元通りにはならなくなっていた。 いや、本当は何かがおかしいことに薄々気が付いていたのかもしれない。言い知れぬ違和感と不安感が働いていたから。 しかし土方をはじめとした新選組の人間は認めていなかった。 いつでも最良の選択をしてきたと思っていたからだ。
土方は一歩何かが変わっていれば、間違いなくこちら側ではないあちら側の人間だった。 羅刹の狂気に抗いきれずに本能のおもむくままに誰彼構わず血を貪りつくす。そして暗く深い闇に一片も残さずに飲み込まれて自我を失うはずだった。 果たしてあれは人間と言えるのだろうか分からないそんな“ヒトならざるもの”として。
一体何が俺をこちら側に留めたのか。引き寄せたのだろうか。 理由は何なのだろうかとそう考えれば不思議と現れるのは哀れな幼き不思議な少女だった。
強い意思を瞳にたたえた少女は新選組の秘密を見たからと女としての盛りに男所帯の中に閉じ込められた。 閉じ込めたのは、紛れも無くこの俺だが。
あの夜、少しでも変なそぶりを見せたら斬ろうと思った。しかし同時にこの少女が哀れだと同情せずにはいられなかった。 こいつはもう数刻したら意思なんて持たぬただの骸となり、斬られる運命なのだろうと思ったからだ。 屯所に連れ帰り幹部一同で会を開けば総司か永倉かもしくは原田辺りが見られたのならと言って斬るのだろうと。 女性に優しいと言っても新選組にとってこの少女が邪魔な存在だと事実を話せば近藤さんも渋々ながらも頷く。 またそうならなくとも不都合が生じた場合に限り自分が斎藤に命ずれば、あいつは顔色一つ変えずにやってのけるだろう。 新選組はそういう組織だ。
ただその場に居合わせただけの年端もいかぬ、この少女。 しかし彼女のことを聞き、斬る理由がなくなった。総司は単なる俺への嫌がらせで小姓にすればいいと言ったとき、正直誰かが止めてくれると思った。近藤さんでなくとも山南さんあたりが。 しかし皆にたにたと口角をうっすらと上げて笑い始め、――特に総士が――この状況を楽しんでいた。 何かあったらこの少女を斬ってしまえばいいのだとそう考えているようだった。 実際俺もそう思ったが。 しかし、それだけではない。背負う覚悟が必要だった。
しかしそのときは素直にお荷物を抱え込んでしまったと思った。 いくら組織をあげて彼女の父の雪村綱道を探していると言っても、それは最優先事項ではなく優先順位としては低い方だ。
そのときはこいつを背負う覚悟も出来ていなかった。 だから綱道を探すためだけに情けをかけずるずると生かすよりもいっそのこと斬ってしまった方がこいつのためにも、俺達のためにも良いとも思った。
そもそもここは男所帯だ。その中で一人性別の違うものを隠し通すのは不可能に近い、至難の技だ。 また組織上、聡い者や荒っぽい者が多い。山南の言う通りこれが女性と知れれば、自然と風紀が乱れる。それは火を見るより明らかだ。 新選組という組織において、綱道を探せるかもしれない変わりに、危険因子を留めるリスクを背負う覚悟があるのかどうかと悩まざるを得なかった。
始めからこの千鶴と名乗った少女を歓迎した訳でも、歓迎しなかった訳でもない。あくまでも人事であり、組織を束ねる副長的には厄介者をしょい込んだ。土方歳三と言う一人の男としては戸惑いを覚えた。 ただ、それだけのことだった。
それなのに、どこか気になって目がはなせなかった。しかしそれは異性としてではなく危なっかしくて見ていられない、そんなような保護者的な意味ではあったが。
今まで己のやったことに後悔が無い訳ではない。 何故近藤さんを新政府軍に投降させたのか。 何故総司を死ぬ前にもう一度会ってやらなかったのか。剣士として死なせてやれなかったのか。 どうにかして新八や原田を引き止めることは出来なかったのか。 あの少女を本来の女らしい生活に戻してやらなかったのか。 そして平助をはじめとした羅刹を何とかしてやれなかったのか。
捨てきれぬ後悔の念の塊は、土方を責め立て、しまいには映像となって映る。まるであのときを擬似的に体験するような。 しかしあのときとは違う。体が動かない、声も出ない。 何をすべきなのか、あのときとは違った選択肢を選ばないといけないと頭では分かっているのに何も行動が出来ないから、土方が繰り返した過去がそっくりそのまま目の前で繰り返される。 それがどうしようもなくもどかしくて酷く胸が痛む。肉をじわじわと引き裂かれていくような、そんな確実に追い詰められる痛みでもあった。 まるで辛く、苦しい終わらない拷問のようだ。 いつまで堪えれば良いのか。
そんな終わりの無い暗闇をさ迷っていると土方はそこで突然淡く輝く光を見つける。
「歳三さん」
不安そうな顔をした千鶴が土方を覗き込んでいた。体が倦怠感に包まれている。
「大丈夫ですか?大分うなされていたみたいですけれど…」
千鶴の言葉で自分は夢を見ていたのだと土方は気がつく。
「あぁ…最近どうも夢見が悪くてな」 「何か私に出来ることはありますか?」
心配そうな顔をしながらも微笑む千鶴。自分一人がこうして苦しむだけであのとき少女だった彼女は自分のことのように辛そうな顔をする。 てっきりお荷物だと思っていたのに、気が付いたらお荷物どころか土方を支える杖になっていた。
「いや、無い」
出来ることが無いと知って千鶴は悲しそうに顔を歪める。
「そういう意味じゃなくてな…」
土方はため息をつきながらぼそりと言う。
「お前が傍にいてくれるだけで俺は救われてるから」
だから、何もしなくていい。黙って俺の傍にいてくれ。それだけで充分だから。
考えれば千鶴だったのだと思う。自分をこちら側に引き寄せていたのは。彼女がいるから俺はいまここにいることができて。 傍にあることが自然過ぎて今まで気が付かなかったけれどもそうなのだろう。 でも当たり前だからこそ失うのが怖くて、苦しくて辛い。 けれど、立ち止まることは出来ないし絶対しないと誓った。だから前に進むために生きなくちゃならない。 千鶴と共に。 この先、どんなことが待ち受けていようとも千鶴と一緒であるのならば、出来る気がした。
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土方は難しい好きですが難しいです。 あと、土方は千鶴を預かると決めたとき、千鶴は勿論だけど土方も新選組の副長として覚悟を決めたのかな、と。 そんな感じの妄想です。
お粗末さまでした。
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