その色が忘れられない 琥月
夏だったのが、もう随分と前の事のように思える。秋の日釣瓶落としとはよく言ったものだ。つい三十分前までは空色だったのに、今や空は燃えるような紅。きっともう三十分もすれば、深みのある紺色になるんだろう。 目に映る鮮烈な紅は、じりじりと私の網膜を焦がしていっている。
*
教室は、というか学校そのものが人っ子一人いないように感じられる。部活が行われている体育館やグラウンドはここから遠い。 幼なじみ達はみんな用事があったようでもうみんな帰ったらしい。 それもそうだろう。部活も何も無いのに学校に残っている人などほとんどいない。残っている人はとんでもない物好きか、余程学校そのものが好きな人。 と考えれば、三年生の新聞部の部長のことがちらりと頭をよぎった。
「……ん」
欠伸を噛み殺しながら、伸びをする。するとがちがちになっていた身体がすっと解れていくのが分かる。そう、私は机に突っ伏して、昼寝をしてしまったのだ。 寝た後特有の気怠さと精神的満足感、それと言いようのない清々しさが私の身体を支配する。ただ、どうにも気分が良いと言うのは確かだった。
「ふわ……っ」
噛み殺し切れなかった欠伸が一つ。年頃の女子高生が大口を開けて欠伸もなんだかなぁ、と慌てて口元に手を添えた。しかし一方で、誰も見てないんだから良いんじゃないのかな、とも思った。 いけない、いけない。こういう所から女子力の低下が始まっている。 ふと窓の外を見上げれば、私はあることに気が付く。
「紅いのって、空だけじゃないんだ……」
空の紅さに対抗するかのように葉を赤く染めている木々。それを表現するのならグラデーションと言うのだろうけれど、何ともしっくり来なかった。 木の中心部分は元の色のままなのに空に近いところだけ我先に、と変化しようとする葉がある。一方で変化に置いてきぼりをされた葉もある。 私にはそんな風に見えて仕方ない。
「綺麗なもんだな。木も空も」
突然声と共に視界に割り込んで来たのは白。
「先生……」
慌てて振り返れば、そこには学校でも教師らしくないことで有名な保健医。今や保健室は彼の私物で埋まっている。まったく今まで何度保健室を掃除したことだろうか。 何で先生がこの教室にいるんだろうとか、もしかしてさっきの欠伸も見られたのかもしれないとか、思うことは沢山あったけれど、口をついて出た言葉は全く違うものだった。
「そう……ですか?」 「お前はこれが綺麗だとは思わないのか?」 「綺麗だとは思うんです。だけど。だけど、それだけじゃないと思うんです」 「どういうことだ?」 「何て言うか言葉じゃ上手く言えないんですけど……」
可哀相という同情の気持ちとも少し違うし、悲しいという悲哀の情でもない。けれど、このもやもやした気持ちを強いて言葉に表すのならば。
「淋しい……?」 「それはお前が今一人でいるからじゃないのか?」 「どうなんだろう?分からないです。でも本当に何となく思っただけなので気にしないで下さい」
そうするとそうか、と先生は言って黙ってしまった。先生はもともと口数がそう多い人ではないから、先生にとってはこれが平常運転。 何も喋らなくなり、先生を視界に捉えなければ、誰もいないような気持ちになった。 すぐ後ろには先生がいると言うのに、私の見る世界には私一人。それはみんなに置いていかれ、取り残された一枚の葉のようでもあり。私は改めて一人だなぁと感じた。
「先生、紅葉が一枚欲しいんです」 「なら勝手に取っていけばいい。いくら俺が教師でも、それに関して持って行くなと咎める権限は俺には無いのだから」 「そういう訳じゃなくて。あの一番色付いてる上の葉っぱの方が良いんです」 「…数枚かも知れないが、いくらか落ちてるのもあるだろうに。どうしても、なのか?」 「……はい」 「まぁいずれにしても構わないが」 「だから、先生に手伝って欲しいんです。私の身長じゃ届かないので」 「と言っても俺の身長でも上には手が届かないぞ?」 「なら真ん中の辺りでも良いです。だから、先生も一緒に行きましょう?いくらかとったら先生にもあげますから」
だから行きましょうと念押しすると、先生はふっと微かな笑いを零した。大方何でこんなことをするんだろうとか、手伝った報酬が葉っぱと言うのもな、とか考えているに違いない。
「あぁ、別に構わないさ」
普通の言葉のキャッチボールのはずなのに、どうしてだか妙に嬉しい。 なんて言って見るけれど、本当は何で嬉しいのかなんて分かりやすい。先生の言葉一つでここまで嬉しくなれるなんて我ながらげんきんなものだ。 だけど、先生と紅葉を取りに行ってどうでも良いことをお喋りするのはきちんとした事実な訳で。 やっぱり嬉しいなぁと改めて思う。
「どうした?行かないのか?早くしないと暗くなるぞ」 「あ、はい!今行きます!」
窓越しに見る紅葉は見事な緋色をしている。もう、空は鮮烈な紅ではなく潤いを含んだ紺色に変化しようとしていた。 けれど。私の網膜には、まだあの燃えるような紅と緋色の欠片が張り付いている。
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