この救われない世界に乾杯を
君はまるで春のような人だった。温かな太陽の光のようなふわふわとする空気を絶えず纏っていた君。
出会いは、病院の中庭。花壇の所にうずくまる一人の女性。 大丈夫か?流石に具合の悪い人間を放っておくのは良心が痛む。咄嗟に僕はやや急いで女性に近寄る。 その人の腕からは細く伸びるチューブ。それと傍らには点滴スタンド。どうも病院の患者らしかった。
「大丈夫ですか?具合でも?」 「あら」
声をかけてから気が付いた。女性の足元には猫、それも黒猫がいたことを。しかし僕が近付いたことにより猫は脱兎の如く逃走。 そこには女性と若干気まずい僕が残された。
「……あ、すみません。猫だったんですね。具合悪いのかと勘違いしちゃって」 「あの……」
そそくさと立ち去ろうとする僕を、彼女は何かに縋るような眼差しで引き止めた。いや、引き止めたかどうかは分からないがそう感じた訳だ。
「良かったら少しお話でも……」
とくに予定がある訳でもなく、ただ気晴らしの為に外に出たに過ぎないので、それには一も二もなくのった。 応じれば、彼女はほっとしたような表情を浮かべて立ち上がり、どこかへと歩きはじめた。
カラカラと冷たい音がするはずの点滴スタンドは、しゃらしゃらとどこか温かみのある音が鳴ったのが酷く印象的。 平凡だが不思議な雰囲気の子で、目が離せなくて。だけどやっぱり肩幅が小さくて華奢で、僕と同じ病人でもあった。
不思議な雰囲気の彼女とは、その日以来よく話すようになった。 話が合ったと言うより、雰囲気が合ったのだ。院内で、中庭で、廊下で擦れ違ったとき。中庭だと、大抵あの黒猫もいたが。 自分の話をする訳でもなく、共通の趣味もない。ただとりとめのない話をするばかりだったが、会話は静かに盛り上がる。 沈黙が苦にならないんてそんな次元じゃないくらい、居心地が良く。僕のあるべき場所はここかも知れない。そう感じた。 のろのろと時間は進み、毎日が退屈で時間を空費するしかなかった病院は、彼女と関わることでいつしか楽しい場所だと思える程になっていた。
相変わらず猫はやたらと彼女にばかり懐いて僕には近寄ろうとさえしない。それどころかむやみやたらと触ろうとすれば、引っ掛かれる始末。それでも、彼女が楽しそうに笑っているならいいか、そう思えた。 楽しかった。単純に二人でいる時間は幸せだった。恋人ではないが、ただの知り合いと言うにはいささか物足りず、縁を結び過ぎた。 しかしこの関係を言うならば、やっぱり知り合いなんだろうと思う。といっても特別に彼女の何かを知っている訳じゃない。 けれど、ずっと側にいられたら。そう願い、永遠を望んだ。お互いの病状も、名前も殆ど知らない。そんな不思議な関係だったからこそこうして続き。先があるかもしれないと望んでしまったのだ。
出会いからちょうど三ヶ月がたとうとしていた日だった。
「非結核性抗酸菌症」
いつものようになんてことの無い話をしたあと、一瞬の沈黙が訪れた。ゆったりとした流れは、止まってしまう。 ここで聞き返してはいけない。きっと聞き返してしまっては駄目だと本能が訴えた。 点滴スタンドに身を預けながらなんてことないように彼女は呟いたのだ。
「結核……?」 「ええ。あ、でも安心して下さい。他の人には移りませんから」
いつものように微笑んだ彼女の笑みは痛かった。痛々しかった。 思いがけず知ってしまった彼女の病は、不治の病だった。 病状の進行は遅らせることは出来ても、治す方法さえ見付からない病気。微笑んでいても今この瞬間も彼女の身体をじわじわと病は蝕み、侵食し、内から崩壊させていっているのだ。彼女はゆっくりゆっくり、だけど確実に死へと向かっていた。
ふいに、暫く君に会えていないなと思ってからすぐ、看護士の話を聞いた。深い深い眠りについてしまったと。もう瞳を開いて、笑うことは無いと。 頭の片隅でぼんやりと理解はしたが、実感できなかった。だから僕は意外なほど、静かに聞くことが出来た。彼女は、君とはもう会うことが出来ない事実を。 こうして今を生きていた君は、急速に過去へ。そして思い出へと変化した。僕の中ではこんなにも鮮やかに息付いているというのに。今だってほら、君は僕の中で息をし、笑っている。 動画から静止画へ。カラーから、セピアへと。些細なことが少しずつ変わる。噛み合っていたものがそうでなくなる。 思い出になっても昇華しきれない君は、静かに朽ちていった。 声も出なければ、涙も出ない。そうか、僕の涙はとうに枯れていたのかもしれない。ならば涙など、出るはずもなく。悔しいのとは違う。ただやり切れないだけだ。僕は涙一滴零さない代わりに、乾燥して干からびてしまいそうだ。
それは衝動的にだった。もういっそ……僕もあとを追ってみようかと。そうしたら会うことが出来るだろうかと考えたのは。きっと僕が君の後を追ったと知っても、あらあらと困った顔ようなをするばかりで何も言わないだろう。 僕だって死に向かって歩みを進めている。それが幾分速くなるだけのこと。 だって価値なんて無いさ。こんなつまらない、辛い世界なんて。
ふと顔を上げれば、あの黒猫がいた。いつからいたのか分からないけれど、僕には懐いてはくれなかったそいつが確かに目の前にいた。
「どうしたんだよお前」
声をかけても僕をおちょくっているのか、微動だにしない。君がいたときには近寄りもしなかった癖にさ。 何で彼女はいないのにお前がここに存在するんだよ。消えてくれよ、お前。いっそ僕が消してやろうか。 自分で酷い顔をしていると分かった。命を蔑ろにしようとしている顔。
「なぁ、こっち来てみろよ」
手を差し出せば僕の思いを知ってか知らずか足取り軽くこちらへ向かって来る。その時、 しゃらり、しゃらり。 懐かしい音がした。 それは僕が求めていた彼女が纏っていた音。なんでお前なんだ。なんでお前がこの音を。なんで君の鈴をお前が付けているんだ。 疑問よりも驚きで、驚きよりも悲しみだった。だけど。ほんの少しだけ、嬉しくなった。まだ覚えてくれていたこと。 あぁ、この猫は君いた証を残してここに存在している。希望を、思いを託されたのかもしれない。 猫の首に鈴をつけたのは気まぐれだったのかもしれない。けれど。 君が愛したこの世界にはまだ希望があるとでも?僕が無くした希望を、君はまだ持っているのかい?
「畜生……畜生……畜生……!!」
殴った壁は厚過ぎた。ひびどころか揺れもしない。あぁ、握りこぶしに力さえ入らないなんて。 君が希望を見失わず、愛した世界を僕も愛してみようか。この薄汚れた世界を。
「完敗だな……」
完膚無きまで打ち砕かれた僕は紛れも無く完敗だった。 僕が完敗し、この救いの無い大いなる世界に満ちた杯をかたむけて叫ぼう。乾杯を。
神様はなんて残酷なんだろう。君がいなくなってもなんら変わりが無いとでも言うように回り続ける。薄汚れた世界は。救われないこの世界は。 君を失っても僕はまだ生きているように。君を失ったまま、僕には生きることを強いたように。泣きたいくらい綺麗な世界だった。でも同時に鮮やかさが眩しくて痛かった。鮮明で美しかった。
ああ、涙で霞んだ世界はどこまでも澄んでいて青く。 そしてどこまでも透明なのだ。
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