星を釣って、夢を釣って
宙を見上げれば、星々が瞬いていた。
きらきらきらきら。
人工の電灯の光でも無く触ったら崩れそうな脆い硝子細工の様な光とも違う。 言うなれば、自らの命を削って光る力強い蛍の光。 私には眩しく見えた。まるで目が眩みそうだ。それはいくら何でも言い過ぎだが。
真っ暗で何があるのか分からない空でさえも星々の輝きに因って少し明るく見える。 宙に於いては、自分はなんて矮小な存在なのかと改めて思い知らされる。
星が出ている日だけ、私は深夜外に出る。手には一本の釣竿、それだけを持って。 他には何も、釣った獲物を入れるバケツさえ持っていない。 池に釣竿を垂らせば、何が釣れるのか分からない興奮と、釣れなかった時の不安感。 どちらも打ち寄せては返る波のように交互に襲って来る。 だが凪いだ水面を見れば、その感覚すらも心地好い。
まともに頭が働いていたなら、自分はなんて愚かな事をしているのだろうかと思うのだろう。 仕掛けも付けずに釣り糸を垂らしているのは魚一匹住んでいないだろう小さな池。 何かが釣れる訳が無いのだ。頭では理解している。でもどうしても何か釣らなければならないような気がした。
酔狂。今の自分はまさしくそれ。宙に、夢に魅せられた。 抜け出すのは不可能。 頭の殆どがぼーっとしていて考えることを止めている。外から入って来る事象をただただ受け入れ、流す感じ。 まるで水に仰向けに寝転がり、ゆらゆらと何の目的も無くたゆたっている様だ。何時も聞こえて来る喧騒は聞こえず、聞こえるのは浜に打つ波の音。 気持ち良くて眠くなるような揺れ。時間という誓約が無ければ何時までもこうしていたいと思わせる。
宙は何処までも広がっていて、終わりが見えない。感じるのは無限の可能性。だがそれは私には無いもの。 こうして自分一人で巨大な存在である宙を見ていると、何かに飲み込まれてしまいそうだ。 飲み込まれると言っても合併や合流すると言うよりかは、溶け込むと言う方が正しいだろうか。 そうしたら今いる自分はどうなるのだろう。
存在そのものが消えるのだろうか。 私が消えるとき自我も消えるのだろうか。 元々自分と宙と言う存在だったことを感じさせない様に、ゆっくりとなにかが長い年月をかけて朽ちていく様に溶け込む。 私を分解する何かが体内に入り込んで細胞と細胞を剥がしていく。故に苦痛は無い。と言っても自分はなったことが無いから分からないが。
水面は宙に輝く星々を鮮明に映し出す。 手を伸ばせば水に映った星が自分の手でつかみ取れる様な気がした。 水のぼんやりと黄色く光る点を触れる。丸かった点は指先がほんの少し触れるだけで波ができていしまい歪む。何度やっても得る事はおろか、触れることさえ出来ない。 掴むこと。そんな事は出来ない事は頭では分かっている。 それでも、私が私である限り手を伸ばさない訳にはいかなかった。 つかみ取れたら何かが変わると思ったから。 そんな出来ない事をしようと、今日は釣竿を持って来たのだ。
どうせ出来る訳が、何かが変わる事なんて無いのに。 からからと自嘲的な笑みを浮かべた。
「今晩は、お嬢さん。 こんな夜更けにこんな場所で何をなさっているのですか」
不意に声を掛けられ、驚いた。そして後ろを振り向く。 立っていたのは紳士、と呼べるだろうか。かっちりと、スーツを着崩さずに着ている二十代位の男だった。
小さな池の周りに釣竿を持った白いパジャマを着た少女と二十代ほどのきっちりスーツを着こなす線が細めな男。日付なんてとっくに変わっている。 夜が明けるのも時間の問題だろうか。 これ程までにミスマッチな組み合わせは今だかつて見たことが無かったんじゃないかな、と思う。だが同時に何故か微笑ましい光景でもあった。
「貴方こそこんな夜遅くに何故此処に居るんですか。まともな人はこんなところに来ませんよ」
「質問を質問で返すのは反則じゃないかい、お嬢さん」
にこりと笑いながら言った。確かにこの男の言うことは最もだった。 私はこの男、なんだか嫌いかもしれない。
「お嬢さんじゃありません。私にはちゃんと親から貰った名前があります。 でも別に教えるつもりは無いのでその敬称でいいですよ。 おじさん」
「おじさん…」
男は苦笑いだった。まぁ当然と言ったら当然の反応だろう。出会った少女にいきなりこんな事を言われるなんて、早々ある体験では無いから。
「おじさんって言ったって僕はまだ三十六だよ。三十六でもお嬢さんさんから見たらおじさんなのか…。 俺はね、此処に来たのは逃げてきたんだよ」
「逃げてきた」
その割には焦っている様子は全くと言っていいほど見受けられない。
「そう。仕事に追われててね。暫く振りに休暇を貰ったのに部下が暴れてその処理に追われて逃げたの」
俺、なんて一人称全然似合わない。何だか背伸びをしている感じがする。 それに仕事から逃げてこんな人里離れた山奥に歩いて一人で来てたどり着いた事にも驚いたが、何よりこの男が三十六というのに驚いた。 私はあまり人を間違えない。というか何となく分かる。それはその人の歳もだし、人間性もだ。 最初に感じた自分のその人に対して抱いた感情、というか勘、第六感。 ひとあたり良さそうな笑みを浮かべているけれど腹ではそう思ってないんだろうなぁとか、顔は悪人面だけどそんなに悪い人ではなさそうだなぁとかそんな感じだ。
人間性までは出合ってすぐに分かる訳ではないから誤ることは多いが、年齢に関しては殆ど予想していたのと同じであることが多い。それなのにこんなに大幅に間違えるなんて、
「おじさん、童顔なんだね」
言えば男はかっと一度目を見開き何度か、しばたかせた後、やがて目を伏せた。 思ったよりショックだったらしい。気にしていたのだろうか。 恐らく自分はしてやったり、な顔をしている事だろう。
「そうだね。よく言われる。 ところでお嬢さん、何でこんな所に居るの?変な人とかがいて危ないよ」
「変な人って…あなたじゃないの?おじさん変で危ない人じゃない?」
「俺?うーん。俺は変かも知れないけれど、危ない人じゃないよ」
ふわふわしていて、何か考えていそうで何も考えていない様な。だがしっかりとした芯を持っていてその芯は全くぶれない。 本当にやりにくいって言ったらない。
「自分から危なくないって言う人初めて見た」
「でも事実俺は危なくないよ。もし君に何かしようとしていたら、会った瞬間に何かしている」
男はまた微笑した。 会った瞬間何もして来なかったのだから危ない危なくないについてはまぁ心配ないだろう。 男はスーツのまま草の上に座った。
「でさ、話は戻るんだけど何してたの?」
「釣りしてたの」
私は言った後、口をかたく引き結んだ。私なりのもう話すことはないよ、の意思表示。
「釣り…か…」
見たまんまの事を言われて拍子抜けのか、眉を寄せて一瞬何かを考えた後、男は何も問わなくなった。 沈黙よか静寂が満たされる。人と会話をしていると普通なら沈黙は嫌なものである。 だがこの男となら不思議と心地好い。暖かい。ふわふわして、気持ちが落ち着く。 何故? それにしても苦笑いをしたり、笑ったり、表情がころころと良く変わる奴だ。 ふと男を見ると上を見上げていた。 おもむろに私は口を開いた。
「私はね、魚とかそういう物を釣ろうとしてる訳じゃ無いの。釣れる訳が無いのは分かってるから。 正直何で自分がこんなことをしてるのかは分からない。理由を付けるとしたら「なんとなく」。 現実主義でリアリストな自分が何でこんなことをしてるのか分からないの。 ここに来ると考え方も変わる気がする。 それに釣りとか言ってるけど釣りたい物がある訳でもない。 多分形が無いものを釣りたいんだと思う。例えば…夢とか希望とかそういう物。でもそれさえも違うのかも。 自分が全然分からない」
「どういうこと?」
少し、驚いた。というのも男が自分の言葉をしっかりと聞いているとは思わなかったからだ。
「夢とか希望とかを釣るのも建前なのかなって。 なんかね、夢とか希望とか釣るって言っても形が無いから本当に釣れたのかどうかなんて分からない。 そう考えると私は何をしたいんだろうって。建前っていうか、建前すらも無いけど。 こんな無駄で非生産的なこと、何でしてるんだろうってよく考える。でも、自分の中で一つの答えが導き出せないの」
ぽそりと呟く。水面は微風のせいかさざめいている。零す息は今や白い。 鏡も黒い背景から明るくなってきている。だが不思議と、寒くはないのだ。
「矛盾してるんだね。でもお嬢さんはなんで自分が矛盾してるか分からないんだろう?でもそれは人間なら必ずあることだよ。 それに俺はさ、そんなもの釣れなくて良いと思うよ」
「どうして?」
「形になって見えたら辛いだろう?」
「えっ…」
男の顔を見ると相変わらず宙を見ている。無表情なせいか何を考えているのかは分からない。 男は私の視線に気付いたのか、私の顔を見て、ばつの悪そうな顔をする。
「俺の顔まじまじと見るなんてどうしたの?」
「おじさん、名前何?覚えておく」
「俺の名前?いいよ、覚えなくて。それこそ「通りすがりのおじさん」とでも」
水面からはいつの間にか黄色い点が消えている。空も明けはじめたようだ。
「夜も明けちゃったね。俺はそろそろ立ち去ろうかな。お嬢さんも家に帰るといい」
男は立ち上がり、スーツについた埃をはらう。そして座っていた私の手をとり、立ち上がらせる。 動作はとても優雅で、気品すら感じさせる。
「じゃあね。いつかまた会えると良いよね」
口角を上げ、ふわりと笑った後、颯爽と歩いて行った。 突然ふらりとやって来た男はまたふらりと去っていった。 とにかく不思議な人としか言いようが無かった。掴み所が無くて隙も無いのに、暖かくて何処か安心するような。 なんとも言えない奴。
私は何時まで此処にいるのだろうか。ふと考えた。 あれ程焦がれた宙も星も池も今となってはただの無機物の塊にしか見えなかった。
また星が出て外に出れば、宙も星も池もあんな風に見えるのだろうか。
ただの無機物の塊である星が再び瞬くその瞬間まで思いを馳せながら、私は家への帰路についた。
星を釣って、夢を釣って
++++++++++++++++++ こんな話になる予定は無かったのに。 気付いたらこうなってた。 話が無理矢理過ぎてどうも納得いかず。
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