貴方の所へゆけたら キリエとフーカ


 オズ領には本屋が幾つかあり、店によって多少品揃えが違う。広場に一番近い、オレンジ色をした屋根の本屋は絵本の品揃えが豊富で、子供連れが訪れることが多い。他の領の人が訪れるのも見かける。
 よく行くレストランの近くは、フーカが本屋と言われて最初に思い出す場所。どこか遠くに聞こえる子ども特有の金切り声すらも、本を選ぶときの装飾にしか過ぎない。
 バーの隣の本屋には難しい本が多く、フーカはあまり立ち寄ったことがないが、カラミアがよく足を運んでいるようだ。オズ領にこんなにも本屋が多いのは、偏にこの地を治めるカラミアが読書好きだからだ。
 昔の私も本を読むことは好きだったのだろうか、と呟いてみる。記憶を失う前の自分のことは相も変わらず思い出すことが出来ないけれど、今、本を読むことは好きだ。読んでぼんやりとでも理解出来れば少し賢くなったような気がするし、そうでない時は簡単に眠りの世界に引き込んでくれる。カラミアが常として読んでいる類の本ならば尚更だった。

 青空の元、洗濯物がはためく風に背を押されて、足はどんどん早まる。一週間に一度の、誰もが『仲良く』しなければならない日曜日。武器を持たないフーカにとっては心置きなく他の領へと足を伸ばせる機会だ。けれど、フーカが選ぶのはいつも塔の聳える広場か、オズ領のどこかだった。
 ここに来てしばらくすれば赤いレンガ敷のところはオズ領、と呟くこともなくなり、目的地までの地図は頭の中に浮かぶ。いつも接しているカラミアの影響からか、フーカの部屋にも、今やいくらかの本がある。料理のためのレシピ本からお菓子作りのためのレシピ本、最近は物語を読むこともある。今日はどんな本を選ぼうか。ポケットの中にある財布から軽快な音が鳴る。
 日曜日、フーカは隣から漂うレストランからの香りに少しだけ心を惹かれつつも、いつものように本屋の扉を開いた。
「……あれ? キリエさん?」
「おや、フーカさん。……あなたには私が、あの馬鹿ライオンにでも見えるのですか」
 そこで出会ったのは、予想していなかった人物だった。例えば、アクセルがバーにいるとか、カラミアが娼館にいるとか。頭の中に鮮明に浮かぶ想像を打ち消しながら、フーカは口を開く。
「いえ、見えません」
「もし見えると言われたら、あなたを早急にロビン先生のところに連れて行こうかと思いました」
「…………」
 そう言うと、キリエは手にした本に視線を戻す。背の高さにしても格好にしても、どちらをとってもカラミアとキリエは似ても似つかない。冗談の筈だが、キリエが言うと冗談に聞こえない。普段の立ち振る舞いが原因だ。
 このままだとからかわれるだろう、とフーカはさりげなく話題を変えることにした。
「そういえばキリエさんが本屋にいるなんて珍しいですね」
「そうですね。相談役の私は日曜日と言えど、身を粉にして働いていますから」
「ということは、これもお仕事なんですか?」
「いえ? 休憩ですけど?」
「そうなんですか」
 悪びれもせずにそう口にするキリエに、フーカは曖昧に頷いた。
 確かに、自室で少し息を付いている姿は度々見るけれど、ゆっくりと休憩している姿を見たことがないかも知れない。休憩で本屋に来る、というのは想像していたキリエの休日の過ごし方とは違うように思える。バーに行ったり、カジノに足を運んだり、というのが、フーカが知るキリエの休日の過ごし方だ。けれどそれはフーカの想像が違っていただけだ。同じ屋敷でそれなりの時間を暮らしているつもりだったけれど、こうしてフーカの知らない一面を見ると、キリエのことをほとんど知らなかったのだと再認識せざるを得ない。
 フーカがこうして自発的に色々なことを知りたい、と思うようになったのは最近だ。この街に来たばかりの頃は、知らなくてはならないことが多すぎたからだ。この街はどんな風になっているのか、何をしてはいけないのか、誰に頼ればいいのか。それらを理解することに必死だった。それもこうしてごくごく「当たり前」のこととして消化できるようになった。お世話になっているカラミアや顔を合わせることが多いキリエ、アクセルのことをもっと知りたい、と思うのは当然のことだった。
 その中でもキリエは特に謎めいている人で。自分のことを知って欲しくないように、意図的に振舞っているのかも知れないが、日常の中でキリエが見せるのはごくごく一部だ。フーカはキリエのことを何も知らない。
 けれど、それは、少しだけ寂しい。
 全てを知りたい訳ではないけれど、例えば好きなものとか。もしも知っているのなら、疲れているときにキリエに振舞ってあげられると思うのだ。
「あの、キリエさんはどんな本を買いに来たんですか?」
「『A』」
 キリエはタイトルを確認することもなく、開いていたページを見ながら答える。フーカの位置からでは、ページもぼんやりとしか見えない。キリエの読む本のことだから文字がぎっしり書いてあるのかと思いきや、ページからは白い部分が覗いたような気がした。どんなタイトルだろうかと構えていただけに、聞こえた言葉を鸚鵡返ししてしまった。
「タイトルがえー、なんですか?」
「はい」
 普通、タイトルを聞けばどんな内容が書かれているものなのか分かりそうなのに。見当すらつかない。
「あの、どんなことが書いてあるんですか?」
「『もともと何もなかったから』」
「え?」
 キリエは開いていた本をパタン、と閉じてフーカに見えるように表紙を見せた。
 赤く、ワインを染みこませたような装丁に、少し古ぼけたように見える黄色がかったページ。まるでずっと隠されてあったものを見つけてきたような。中央には黒のインクで大きく「A」とだけ書かれていた。他には説明はおろか、作者も書かれてはいなかった。その本を持っているからか、キリエの真っ白な手袋がやけに映えた。
 そしてこの本からはどことなく秘密めいたものを感じた。どうしてこの街が存在しているのか、フーカの失われてしまった記憶はどこへ行ってしまったのか。人は何故生まれ、そして争うのか。それは当たり前のことなのに、人が立ち入ってはいけない領域に存在する疑問だ。その深淵までは暴いてしまってはいけない気がした。
「これは、答えのみが書かれている本なんですよ」
 見たいけれど、知ってしまいたくはない、そんな感覚に蓋をして答える。
「答えのみ?」
「ええ。ここから質問を探し出すんです。世の中には不思議な本が存在していますよね。良かったら目を通してみて下さい」
 そう言うとキリエは本を手渡した。本を数ページ捲って見ても、「朝だから。夜になると消滅する」「等しい」「林檎」という簡潔な言葉が一ページに一つ書いてあるばかりで、何のことだかさっぱり分からない。書いてあること自体はごく当たり前のことばかりだ。
「キリエさんはこの本を読んでいて楽しいんですか?」
「楽しいですよ? 知っていることや当たり前のことをだらだらと書かれている本を眺めているよりもずっと」
 キリエによってはそこらにある本が当たり前のことしか書いてないというけれど、フーカにとってはこの本に書かれていることの方が余程当たり前だった。
「それは、本に書かれている知識が、キリエさんは既に知っていることだからなんですか?」
「……」
 キリエはそっと微笑む。綺麗な弧を描く口元に、どことなく感じる拒絶の色。言葉にしないのは、キリエが頭がいい人だからなのだと思った。
「キリエさんにとって、この本屋の本に書かれていることは全部知っていることなんですか?」
 そんな問いかけにも、キリエは肯定してしまえるような気がした。だって、フーカから見たキリエはこの世界全てを知っていて、どんなことにも驚かない人だ。
「『生きているから』」
「え?」
「あなたなら、この答えに行き着くような質問はなんだと思います?」
「えっ、と……」
 問いかけが問いかけで返される。答えてください、とキリエに言う程の疑問ではなかったので、フーカはキリエの問いかけを考えてみる。けれど、すぐに答えは出てこない。
「えっと――」
 この街にはマフィア、銃や手榴弾なんてものがごろごろしていて、使い方次第では簡単に命の火を消してしまえる。けれど、フーカの見る限りオズの人たちはそういう使い方をすることは少ないように思える。危険が迫っても、領民のことを第一に考えている。銃を持つのだって、ルールで自らを縛った上で、更に自衛の為にしか使えない。この街――特にオズ領では、フーカが命の危機を感じる機会はあまりにも少ない。だから、この答えがすぐに出てこないのは普段フーカがオズで生活している時に、『それは生きているからだ』と思ったことがないからなのかも知れない。
「どうして楽しいと感じるのか、でしょうか?」
 たった一つの答えを導くのに思ったよりも時間が掛かってしまったけれど、答えをキリエに告げる。
「そうですか」
「あの、キリエさんなら、」
「私が思った答えは『死んでいないのは何故か』ですよ」
 疑問を最後まで口にするよりも早く、キリエは答える。
 どんなに「死」に至らしめる道具が身近であっても、死自体は酷く現実味のないものだ。始まったばかりで、終わりが分からないフーカには思いつくはずもない言葉に、そうですか、と頷いた。手にした本をキリエに渡せば、キリエは背表紙を一撫でしてからそっと本棚にしまった。今まであった場所に、本は戻る。まるで、その本は自分の居場所をそこだったかのように思えた。
「同じ答えのはずなのに、ね」
 同じ問いをカラミアにしてみても、キリエとは違う答えが返ってくるに違いない。ごく当然のはずの答え。この街にいる人がどう答えるのか分からないけれど、フーカのものさしでは可笑しいのは、キリエの問いの方だ。キリエの呟きは、静かな店内にそっと響いた。
「その本、買わないんですか?」
「ええ。屋敷で私がこんな本を読むと思うんですか?」
「思いません」
「ま、カラミアにやれば数日はうんうん唸って大人しくなりそうですけど」
「そう、ですかね……」
 フーカは苦笑交じりに答える。屋敷は仕事をする場所だし、キリエ自体があまり本を読まない性質だ。キリエが自室にしろ、執務室にしろ、本を読んでいる姿は想像できなかった。

 この街は不思議な場所だ。中央にそびえ立つ塔がいつ、どうやって出来たのか分からないし、支配者層は老いることがない。死ぬことだってない。
 フーカがそのことに対してどうしてだろう、なんて考えたこともない。無くしてしまった記憶を取り戻したいし、お世話になっている彼らの役にたちたい。その答えを見つけることより先にすることがあるからだ。
「……生きていることに疑問を持っていたんですかね」
 キリエがぽつりと口にした言葉が誰に向けられたものなのか。フーカは、少なくとも自分に向けられたものではないように思えた。
「さ、いい加減戻りますよ」
 キリエはこの街のことを全て知っている。けれど、人の心は旅を経て得た脳をもってしても分からないのだ。


タイトルは揺らぐさんからお借りしました



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