上澄みは当然澄んでいる 鴎外と芽衣
夜会に芽衣を積極的に連れ出すようにしたのは、いつからだっただろう。元々コンテストの時から、これを利用して彼女がここに居やすいようになればいいとは思っていた。そして彼女がその恩恵を受けるのと同じように、僕自身も彼女の存在を利用しようとしていた。客観的に見て、これくらいは許されるだろう。身寄りも知識もない芽衣がここで生きていくには随分と苦労をすることになるに違いない。なにせ、服さえ満足に着られないというのだから、知識がないとか、世間知らずのお嬢様どころの話ではない。 作家としてそれなりに知られていたこともあるし、軍医という職業柄、そちらでも僕の名前が通っているのが幸いした。 どんなに奇天烈な格好で鹿鳴館のパーティーに現れたとしても、僕の婚約者という後ろ盾があれば、余程のことがない限りは暮らしていくことができるだろうから。 「鴎外さん……これ、どうでしょうか?」 「着替えは終わったのかな?」 部屋の中から声が響く。寄りかかっていた壁から背を離して、一度ノックをしてから部屋の扉を開いた。そこには赤いワインを一滴垂らしたかのようなドレスを纏った芽衣が、意見を求めるような表情をしていた。 「ふむ。思っていた通り、よく似合っているようだね」 大人しいだけではない芽衣の魅力を引き出せていると思える。にこりと笑って見せれば、彼女は困ったように「でもやっぱりコルセットは何度つけても慣れませんね」と呟いた。助骨を締め上げているのだから単純に苦しいのだろうが、それ以上に満足に物を食べられないというのもあるはずだ。こればっかりは諦めてもらうしかない。せめても、とばかりに翌日の昼餉はいろはに連れて行ってあげようと思う。 「あの、でも鴎外さん」 芽衣は少しだけ言いにくそうに口を澱ませている。どうしたのだ、と言葉の続きを促してもやはり言いにくいのか、たっぷり一呼吸おいてから口を開いた。 「このドレス、背中が空きすぎているような気がするんですけど」 確かに、コンテストの時に来ていた山吹色のドレスは落ち着いた雰囲気を醸し出していた。それに比べれば、今来ているドレスは背中の部分は空いているだろう。骨に沿って思わずなぞりたくなってしまう程度には。 「ああ。けれどコンテストで、おまえもこういったドレスの女性を沢山見ただろう」 そう口にすれば「そう、ですけど、」と無理やり自分を納得させるように頷いた。芽衣はもう一度鏡を覗いて。これでもう行けるとばかりに立ち上がった芽衣の肩に手を置いて、再び椅子へと座らせた。 「鴎外さん?」 「まあ、少し待ちたまえ」 後ろ手に隠し持っていた包みを芽衣の眼前へと持ち出せば、酷く驚いた顔をした。 「これは僕からのプレゼントだよ。このドレスに合うと思って、つい買ってきてしまったのだ」 「プレゼントって……こんな素敵なドレスを着させてもらっている上にプレゼントなんて、私には勿体無いです」 「そうは言うけれどね、おまえが使ってあげないのでは、僕が買ってきた意味がなくなってしまうのだ。ここには僕と春草しかいないからね。捨てる他なくなってしまうのだよ。芽衣が僕を喜ばせたいと思うのなら、受け取ってくれないだろうか」 畳み掛けるように説得すれば折れてくれたようで。それならば、と芽衣は包みにそっと手を伸ばす。包みの包装が芽衣の手によって剥がされる。中から現れたのは、ドレスに負けない色をした靴だった。小ぶりだが、履けば随分と高さがあるものだ。 「凄く……綺麗ですね。ドレスにもピッタリです!」 「はは、本当に芽衣は謙虚だなあ。ここはドレスにも合う、と言うのではなくて、私にも似合いそう、と言うべきところではないかな」 「いくらなんでもそれは恐れ多いです! だってこれ、鴎外さんが買ってきたものだから……」 語尾にいくに従って、声が小さくなる。言わんとせんことは、大方高かったんじゃないですか? だろうか。これも芽衣の魅力の一つだ。食べ物――特に牛鍋のことになると、他のことには意識がいかないくらい必死になるのに、それ以外ではこれだ。春草に言わせれば図々しいことには変わりがないだろ、ということらしいが、僕から見ればどちらにしたって可愛らしい。 「それは気にしなくてもいいさ。僕は今、おまえを着飾りたいだけなのだからね。こういう時の女性は、胸を張るだけでいいのだよ」 「でもそれって鴎外さんに釣り合うようになるってことで……いや、一生かかっても釣り合うことなんてないですけど、せめて足を引っ張らないように頑張ります!」 僕の言葉をどう言う意味で受け取ったのかは分からないが、芽衣はそう言ったのだった。 「では僕は下で待っているとしよう」 そういった目的があるのならまだしも、用もないのに女性がいる部屋にいつまでも入り浸る、というのはどうにも紳士的ではない。退室しようと扉に手をかければ、後ろから声が飛んでくる。 「あの、鴎外さん。髪……どうしたらいいでしょう?」 「髪、か。下ろすのも十分可愛いが、このドレスなら結った方がいいのではないかな?」 背中の空いたドレスは、うなじが見えた方が映えるだろう。 「分かりました。全部の準備が済んだら、下に行きますね」 「うむ」 僕と芽衣を隔てるように、ぱたんと扉が閉まる音が響いた。 夜会には、その業界の有名人が集まる。そこに、僕がエスコートしていけば、嫌でも彼女の顔も知れ渡る。あの森鴎外にも心を砕く女性がいるのだ、と。 森家は外聞や体裁を気にする。いや、これは森家に限ったことではないかも知れないけれど、その家の身分に釣り合った人と結婚しろ、と言うのだ。 その気持ちは分からなくもない。それが古くからこの国に根付いている感覚だ。それを、僕如きが壊せるなどとは思っていない。 けれど、芽衣を諦める訳にもいかないのだ。一番早く認めてもらうにはどうすればいいのかと考える。既成事実をつくってしまえばいい、と気がつくのは僕が男だからかも知れない。勿論、芽衣は婚前の女性だから、即物的なことはできないけれど。だから僕は彼女を積極的に夜会に連れて行って、有名人がいる中で僕の婚約者だと紹介するのだ。外側から、逃げられないように覆っていく。 芽衣に渡した少しだけ歩きにくそうな靴。踵の部分は酷く華奢だ。きっと、誰かが支えてやらないと、すぐによろけてしまう。突然現れたときと同じように、気がつけばどこかへ消えてしまいそうな、そんな彼女だから。遠くまではいけないように、こうして重りをつけてしまおう。僕が手を伸ばせば届くように。 唐突に口元が寂しい感覚に襲われたので、煙草を探してポケットを弄ってみるけれど、その手は何も掴まない。夜会に行くのだから、と自室に置いたことを思い出した。紫煙の代わりに内側に溜め込んだ息をくゆらせる。 きっと君はただのプレゼントだと喜んでいるだけなのだろう。僕がこうして少しだけ自由を奪っていることに気がついたとき、君はどういう反応をするんだろうね。いつか来るであろうその時が、少しだけ怖かった。
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