行ってらっしゃい、きっとこの腕にお帰りなさい/エスルル


 こつり、こつりと石畳が敷かれた道に規則的な音が響く。その音からさして焦りは感じられないが、音の主であるエストの表情は晴れやかなものではない。
 ラティウムは見慣れた場所のはずなのに。考え事をしながら歩いているとどこかの通りを間違えて曲がってしまったのか、気がつけば目的地とは別のところにいた。なんという不覚だろう。これではルルのことをどうこう言えないな、とエストはひとり嘆息する。
 エストが入り込んでしまった細い路地は見渡せるほどまっすぐ、そして長く続いている。後ろを見るように振り返れば、やはり進行方向と同じようにまっすぐな道が伸びていた。戻るにしてもここを暫く歩かなければならないようだった。
 路地に面する家がいくつもあり、それと同じ数だけ扉も存在していた。扉の横にはレンガ色の鉢とピンクの花が咲いている。どうしたものか、と考えながら鉢の中央に咲く一本のそれに手を伸ばしかけて、これは人様のものだと思い出して慌てて手を引いた。ルルならばこの花の種類が分かるのだろうか、と花弁に、長く伸びて風に靡くルルの髪を見た。思い出したのは、その花弁の色が、ルルの髪の色に似ていたという理由があっただけだ。
 このままここにいても仕方がない。
 のんびりと風に揺れる花から視線を戻し、エストはまっすぐに続く道を歩き出す。こうして歩いて大通りに出れば、そのうちに知っている通りにでも出るだろう。そうすれば戻るのは簡単だ。
 早い話が、エストはラティウムの街の中で迷子になってしまっているのであった。


 ここ、ラティウムは温暖な気候の街だ。常としては、薄手の長袖に一枚上着を羽織れば充分暖かい。けれど、その中でも日によって寒暖は存在するし、時折嵐のような風が雨を纏うこともある。エストは高度なものでなければ魔法を簡単に、そう、目に見える媒介を必要としないからそれこそ呼吸をするのと同じような感覚で使うことができる。勿論、危険だからそんな感覚で使ったことはないけれど。
 だから、暑ければ水魔法で涼を得て、寒ければ炎魔法で暖をとるのは造作もないことなのだ。雨が降ってきて、それに濡れないようにするのも。
 エストは細い路地で歩を早める。まだ知った大通りには出ない。ぽつん、と。エスト目掛けていくつもの雫が空から落ちてくる。そのタイミングはエストが迷子になって行くあてを見失ったのを見計らったようだった。見上げる空は、相変わらず真っ青なままだ。雲ひとつ見当たらないというのに、雫はエストを濡らし続ける。
「お天気雨、ですか」
 ラティウム自体、雨が降る頻度は高くない。知識として知ってはいても、実際に体験するのは初めてだった。空は真っ青なのに雨が降るなんて、まるで泣きたいのに笑顔を浮かべているようだと思う。
 雨は昔から空の涙なんて言うけれど、エストはそんなことを思ったことが一度もなかった。それは現実主義であることも勿論だけれど、雨は水蒸気の温度が低くなりそれが地上に落ちてできるものだと知っているからだ。
 けれど、こうして降るお天気雨はなんだろう。これも、水蒸気の温度が冷えて雨となって地上に降り注いているだと知っているのに、ただの現象だといつものように流すことができなかった。
魔法で濡れた服を乾かすことは容易だけれど、服が濡れて肌にまとわり付く感覚は不快だ。分かっていて濡れ続けるつもりは毛頭ない。
 とりあえずどこか雨が凌げるような屋根があるところ、とエストが駆け込んだのは、白い壁にベージュの屋根を持つ一軒の家だった。すみませんが、少しだけこの場所をお借りしますと、見えないその家の住人に向かってそっと呟いた。
 雨は、どれくらいでやむだろうか。空気自体はからりと乾いているから、この雨もそう長くは続かないだろうとは思うけれど。
 言われてみれば――朝、ルルに「今日は水の匂いがするわ」と言われていたのを思い出す。それがルルの持つ勘が告げた結果か、それとも『目』を開いたときに水の魔法元素の様子が常と違ったからなのか。そのときエストはだたそうですか、と告げただけだったけれど、こうして近い未来のことを予言し、そして的中させてしまうあたりはどんなに可愛い顔をしてもルルも魔女なのだとこういうときに実感する。あのときにルルの言葉を真剣に聞いていたとしても、できるのは心構えくらいなものではあったけれど、やはり心構えができるか否かは大きな差がある。
 前髪はいくらか雫の襲来を受けており、ぽたりとエストの視界を縦に裂くように滴り落ちる。ぼんやりと歩いていたから随分と水気を含んでしまっている。髪につけているシェルビーズを乱暴に取り、ぐしゃぐしゃと前髪を乾かすように掻けば、即興ではあったがいくらか髪から水分が飛んだ。これからまた雨に打たれるならば別だが、もう滴り落ちてくるほどの水分は有していないはずだ。
 こんなところで道草を食っているのだから、ルルは心配しているかも知れないな、とどこかで思う。
 ああ見えて、ルルは存外心配性だ。それは、帰らない相手がエストだからというのもあるけれど、それ以上にエストが今行おうとしている野望と呼ぶには美しくない、狂信派の改革という責務を背負っているからかも知れない。狂信派の本部自体はここから遠く離れたところに存在するけれど、どこで何があるのか分からないのだ。用心するに越したことはない、とはエストの言である。もしもルルの心配性が生来のものでなければ、それは確実にエストのせいだ。ルルをこういう状況に置いているのはエストのせいなのだから。
「……」
 メサージュを飛ばして帰るのは少し遅れそうだと連絡をするのもひとつの手だ。けれどそうなれば流れでどうしたの?と理由を聞かれるのは明らかだし、迷子になったのだと告げるには自尊心が素直になるのを邪魔する。
 ルルが好きだから、他の誰よりも守りたいから、そう思うのだろうとエストは自分の心理を分析する。それ以上に男だから、好きな人にはいつだって格好よく見られたいと思うのは当然のことだ。
 危険が及ばないように手元に置いておきたいくせに、外の世界を見て昔と同じように目を輝かせるルルを見たいというのは、エストの自分勝手な感情だということは分かっている。恐らくこの感情を消すことも、なかったことにすることもできない。随分と難儀なことだ。ああ、自分はこんなにも面倒な性格だったのか、とエストは呆れたように目を伏せる。
 最年少で最高魔法士の資格を得れば、世間が自身をどう評し、どう感じるのは知っている。けれどそんな言葉にどれだけのエストの『本当』が隠されているのだろうか。同じようにルルが人類初の全属性を得た少女だと評されているけれど、共に生活をしてルルの全てがそれだけはないことを知っている。未だに料理が下手であったり(本人はエストに隠れていくらか練習をしているようではあるが)、寝坊もする(こちらに関しては、本人が強く改善を心がけているようである)。きっと、多分、これが、エストが知るルルの『本当』だ。
 この『本当』はルルの欠片で、出来ることならばその本当が他の誰にも知られたくないと思うし、エストの心の中にある大切なものを入れるところに傷がつかないように大切にしまっておきたいとも思う。
「にゃ……」
 雨が屋根や道を叩く、規則的な音以外の音が聞こえる。イレギュラーとも呼べる、足元から聞こえるか細い声に思考が引き戻される。足元を見れば、エストの足に擦り寄るようにしていたのは一匹の白とキャラメル色、チョコレート色をした猫であった。身体が小さいところを見るに、まだ子猫なのだろうか。子猫の傍には大抵親の猫がいるはずなのだが、と路地を見渡すが姿は見えない。
「君もはぐれたんですか」
 も、と口にしてから今更ながら自分もはぐれて迷子になってしまった事実がエストの胸に落ちてくる。
 猫で思い出されるのは、ルルと出会ってすぐのころだ。思い出したくない出来事のはずなのに、鮮明に覚えてしまっている自分の記憶力がこういう時だけは憎らしい。猫ジェラシーと呼ばれる魔法具を使い、恥ずかしい言葉をルルと、それからノエルの前で口にした。もっともあのときは黒猫で、今回は三毛猫だが。
 エストがかけた言葉に当然のことながら返答があると思ってはいない。だからこそ、エストは続ける。
「君も雨宿りなんですね」
 エストは屋根を、子猫はエストを雨よけにしているけれど、さして変わらない。
 そうだ、とも違う、とも言わずに猫はただエストの足にまとわりつくだけだ。濡れた身体でエストに擦り寄ることで水気を落とそうとしているのかも知れない。エストは子猫を抱えようと屈むが、エストが手を伸ばした瞬間、逃げるようにさっと身を引く。逃げられたエストの手は獲物を捕らえることなく空回りだ。
「……」
 猫に触れられずに残念だと思いつつも、猫に触れる前のように再びきちんと立ち上がれば子猫はまたエストの足元に身を寄せる。
 また子猫を抱えようと手を伸ばせば逃げられてしまうのだろう。そうすれば今度こそ、子猫は寄り付かなくなってしまうかも知れない。エストは子猫に触れるのを諦めて、子猫のしたいようにさせる。時折足元に感じる子猫の感覚に、少しの擽ったさを感じる。子猫はじゃれているつもりなのだろうか。遊んで欲しいのかも知れないが、生憎エストの手持ちに子猫と遊べるようなものはない。それでも飽きもせずにエストの足元でぐるぐるするものだから、とうとう踏みそうになってしまう。
「危ないですから、」
 子猫をどかすつもりで屈みこめば、先ほどは怯えるように逃げたというのに今度は差し出したエストの手をペロリと舐めた。
 ざらりとした子猫の舌がエストの指先を撫でる。足元に感じたのとは桁外れの擽ったさに、エストは頬の筋を緩めた。それでも子猫はエストの指先を舐めるのを止めない。
「……擽ったいですよ」
 そう口にしつつもエストは子猫から手を引けない。子猫に愛嬌を感じたのも勿論ではあるが、一番の理由は人懐っこいのには昔から弱いからだ、と自身の中で結論づける。
 いや、あれは人懐っこいというよりは、強引だったと言うべきなのだろうか。所構わずエストの名前を呼び、振り返ればやっとこっちを見てくれたと嬉しそうに笑うのだ。これではブリザードだのツンドラだの(不本意ではあるが誰かさんに)言われていたとしても絆されずにはいられまい。
 帰らなければならない。あの笑顔がある場所に。
 迷子というのは、帰る場所を知っているからなるものなのだ、とルルと暮らすようになってから知った。知識としては知っていた。けれど、それを『理解』はできていなかったのだと思うのだ。
 幼いころ、エストは母親や父親とどこかに遊びに行ったこともなければ、迷子になったこともない。迷子になる前に、満足に外に出ることも叶わなかったのだから当然といえば当然のことではあるのだが。それでも、ただ漫然と母親と父親のいる場所が在るべき場所だと思っていた。それは、帰る場所がルルのいるところだと分かっている今でも変わらない。意識の根底に刷り込まれているのは、彼らがいる場所が死ぬほど憎い場所であっても、彼らの思想が今も自身を苦しめるものだと知っても、両親がいる場所はエストの一部分が在る場所であるということだ。
 そう思わせるのはエスト自身の感情でどうなるものではなく、エストとしてこの世に生を与えたのが彼らだからなのだと思う。生まれ落ちてから死に至るまで消えることはない。それが母親と父親という存在なのだろう。悔しいけれど、そういうものなのだ。
 ひらり、唐突にエストの視界に空のような青が広がる。エスト目掛けて一直線に飛んでくるメサージュの差出人で思い浮かぶのは一人しかいない。こうやって、何かに一生懸命といえば聞こえはいいが所謂猪突猛進なのだ、と本人に告げれば怒るに違いない。そういうところも好きだ、とは悔しくて言えないけれど。
 内容は見なくても察しが付く。今どこにいるの? といったところだろうか。メサージュを開けば予想通り。もうすぐ帰りますから、いい子で待っていてくださいねとメサージュを飛ばせば、来た時と同じように力強い羽ばたきで空に溶けていった。一直線に消えていくその様は、先ほどは猪突猛進なルルの行動のようだと思ったけれど、まっすぐにルルを求める自身の感情にも違いなかった。
 育ちは正反対とすら呼べるもので、性格だって似ているとはお世辞にも言えない。けれど、共に生活をして同じ時間を重ねていく中で似てくる部分もあるし、相手をまっすぐに求める気持ちは変わらないのだ。それが行動に出るかどうかの差なだけであって。
 こうやって送って、本当にいい子にしてくれていた試しはないけれど、早く帰らなければと思う。
時間がかかれば、またところ構わず振り向くまで名前を読んで、抱きつきにくるのだろう。もう、抱きつかれたからといって、転んで頭を打ったり、よろめくこともない。
 ルルを抱きしめて、なおあまりある自身の腕は、今もきちんと彼女を守ることができているだろうか。彼女に何かを与えることができているだろうか。
「すみませんね、僕はもう行かなくては」
 未だじゃれつく子猫と離れるのは惜しいとは思うけれど、なによりもエストにはしなければならないことも、行かなければならないところもあるのだ。エストの帰る場所は、ルルの待つ家なのだから。
 屋根からは雫がぽとん、ぽとん、と間隔を開けて垂れる。エストは歩を早め、柔らかく日差しを落とす太陽を眺めた。雨はいつの間にか、止んでいた。




夏ラブコレで無配だったものです



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