なみだ声にきづかないふり エスルル 



「エストエスト、」
 学院帰りに道を歩いているエストを見て、ルルは反射的に声を上げてエスト目掛けて走っていく。ここに来た三年前からすれば、落ち着いたように見えるけれど、人間はそう簡単に変わるものではない。天真爛漫な性質は生まれついたルルのものだ。
 ルルの声がエストの意識に届くのと、ルルがエストに飛び込むのはほぼ同時だった。跳ねながら抱きつけば、もう昔のように倒れこむことはない。もう随分と目線は離れてしまった。あの頃、ルルより少しだけ大きかったとき、ルルがこの身長で嬉しいのよ、と零したのは同じ目線でものが見られるからだと言った。
 しっかりと受け止められてしまうのが嬉しいのと同時に、少しだけ寂しいと思うのは何故だろうか。
「こんな往来で抱きつかないでください」
 そう口にすれば、後頭部が少し痛むような気がしてくる。身体が憶えている、というのはこのことなのか。
「エストを見かけたら嬉しくなっちゃって」
 言って治るのならば、この歳になるまで苦労はしていない。いや、こうして苦労してきたからこそ今のエストがあるのだろうか。それでもやめてください、と口にしてしまうのは最早口癖だ。
「あなたに抱きつくなと言ってやめられた試しがないんですから、もう諦めましたよ」
 その言葉にルルも負けじと言い返すが、行動に反映されないことを知っている。
「どうしたんですか。今日のあなたはいつにも増してお転婆ですね」
「嬉しいことがあったの」
「……嬉しいこと、ですか」
 力いっぱい答えるルルに首を傾げてみれば、ルルはついと口角を上げて笑った。その笑みは、エストに疑念を抱かせる。
 いつだって、こんな風に全力で笑うルルに悪意がない。けれど、本人に悪意がないからこそ、これから告げられる言葉が問題なのだ。
 いっそ、これがアルバロのように――いや、悪意のレベルに関してアルバロを引き合いに出すのは申し訳ないけれど――口に出す言葉の全てが誰かを陥れ、行動には騙してやろうという意思があるのならば、最初から心を開いてみることもないが、ルルはそうではないのだ。唯一似ているところがあるとすれば、その予想すらしなかったことをいとも簡単にやってのけるところくらいだろうか。
「心して聞いて欲しいの!」
「あなたの言動に、僕が一度たりとも心して聞かなかったことはありませんから」
「それでもきっとびっくりしちゃうと思ったから、前置きしてあげてるのに」
 口を尖らせ、眉が釣り上がる。分かりやすく、「私は機嫌を損ねようとしているんだから!」という主張をするのだから、苦笑せざるを得ない。
「ええ、ちゃんと聞きますから。そんなに拗ねないで下さい」
「ええと……、」
 途端、歯切れが悪くなる。伝えたいことがありすぎて何からどう話せばいいのか分からなくなっているのだろう。
「全部聞きますから。ゆっくりでいいんですからね」
「えっと、ね。この前からあんまり体調が良くなくてね。ちょっと病院に行ったの」
 言われてみれば、確かにここ最近、ルルの食べる量は減っているような気はしていた。ルルに限って、という言葉が頭をかすめるが、ダイエットということもあるかも知れないとエストはその件に関して口を閉ざしたのだ。そうでなくとも、エストの知りうる知識の中の女性の身体はデリケートだと聞く。
 ルルだから触れていいところもあれば、ルルだから触れてはならないところもある、と思う。
 思考の深い深いところにたどり着くように考え込めば、エストと目の前にいるルルだけが世界から隔絶されていくような感覚に陥った。
「でね、ちょっと色々調べたんだけど。……私もまだ信じられないんだけどね、」
 なんとなく、ルルのこれから言おうとしていることに予想がつく。この会話の流れだ。ぼんやりと察する。
 同時にまさか、とか。そんな、とか言葉が浮かんできた。
 言いづらそうに視線を宙にうろうろさせているルルに、エストが告げたのは『大丈夫ですから』という言葉だった。その言葉は、本当はルルに告げるためではなく、エスト自身に言い聞かせるためのものだったかも知れない。
「赤ちゃんがいるんだって」
 やはり、という感覚が一番近かった。思い当たる節もある。
腹部に手を当てるルルを、呆然とエストは見ていることしかできなかった。言葉が、見つからなかったのだ。
「エスト……?」
 それをどう捉えたのかは分からないが、恐らく良くないように捉えたようで、不安そうな顔をするルルに、エストはなにも返してあげることができない。つい、口をついたのは、『怖いんです』という単語だった。
「こわい、の?」
「ええ。僕が父親になることができるのでしょうか」
 ルルの顔が翳る。僕の生い立ちが、嫌でも頭をよぎるのだろう。母の暖かさも、父の大きさも知らずに育ってきてしまった。僕に、それを誰かに与えることができるのだろうか。
 僕を見つめるルルの瞳には、不安げに瞳を揺らす僕が写っていた。情けない顔をしているな、と思った。
「大丈夫、エストは人の痛みが分かる優しい人だから。大丈夫よ」
 ルルの瞳が近づく。ルルの手は、ルルよりも随分と高くなった僕の頭の上へと伸び、そっと撫でた。暖かいルルの手は僕のものよりもずっとずっと小さいのに、とても大きくて。女々しいと分かっていてもその手に縋りついてしまいたくなる。
「エスト、随分と大きくなっちゃったから撫でにくいわ」
 温度は染み渡るものなのだと理解する。そして柄にもなく、泣きそうになっていたのだということを、視界がぼやけていることで知った。
「ええ、僕はあなたよりも大きいんです」
 ルルに返すことができたのは、その言葉だけだった。





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