ルージュの乗った口で何を紡ぐ くれみこ



 いそげ、いそげと小走りに廊下を進んでいれば、おい、こっちに来い――と腕を引かれたのは突然のことだった。後ろから聞こえる声の方を見ようとすれば、ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐる。甘いのに、どこかつんと鼻に主張する。こんな香りを纏っている人は、学園広しと言えど、恐らく一人しかいない。そしてみことは、その一人を知っているのだった。
 強引な方法、強引な言葉。けれど引く力は思ったよりも優しいのだから、きっとそこに真意はある。彼の行動全てを許すことができるほど達観している訳ではないけれど、理由を質す前に否定してしまうほど彼のことを知っている訳じゃない。学園と一言で言っても、その中身は綺麗に一つになっていない。何が正しくて、何が間違っているのか、それを確かめるのは他人ではなく自分の価値観なのだと教えてくれたのは今も腕を引き続けるこの人だった。まあいいだろうか、と身体の力を抜けば、遠ざかる目的地への景色が笑った気がした。

「後ろからは卑怯だと思います」
「卑怯もクソもあるかよ。いつ誰に襲われるともしれねえのに、無警戒無抵抗なのはどうかと思うぜ、泉姫サマよう」
「……」
 煽られるように上がる語尾をぐっと飲み込む。実際煽っているところもあるのだろう。それに対する言葉は、すぐに出てくる。実際これは不意打ちだったじゃないですか、とか。さほど警戒していなかったことについてはコメントを控えるとしても、無抵抗だった訳じゃないし、とか。何より、それはこうした人があなただったからです――と素直に言うのはどうにも憚られた。だって癪に障るではないか。まるで、思っているよりもこの人のことを信頼しているみたいで。信用という言葉と、信頼という言葉の意味は似ているようで多分全然違う。そう分かっているからこそ、彼に抱いてるのは信頼なのだと思う。
 この人に好意を抱いてなるものか、という頑なな部分を見つけてしまい、それが妙に可笑しくて顔の筋を緩めた。
「……何、笑ってんだよ」
「別に笑ってないです」
 じろり、と見透かすような視線が肌を撫でた。無遠慮だ。
 しかし、いろはさんのように反射した対象をみるのでも、姫空木さんのように私の思考すらも見ようとするのでも、蛟さんのように正しさをそこに求めるのとも違う。暴き立てているくせに、同時にそこに私の意思を確認しようとしている。そういうところ、この人の方がよっぽど卑怯だ。
「本当です」
 負けじとその緋色を睨めば、満足そうに鼻を鳴らした。
 拉致、という言葉が一番近いに違いない。あの後段差を通過するでもなく、暫らく後ろ向きで歩き続ける。それは、配慮というには都合が良すぎるから、きっと偶然だ。抵抗など欠片もしなかったし、しようとも思わなかったのだ。
 二つ一年生の教室を通り過ぎ、保健室も通過する。それから二年生の教室を見送って、目的地に着いたようだ。開いていた扉の中に引き摺りこまれる。そこでやっと、彼の姿を見た。いつも通りと言っていい不遜な顔に、別の色が混じっているのが分かる。ほう、と私を見るそこには何があったのだろう。私が騒ぎ立てず、予想が外れたからなのか、抵抗をしなかったところからくる感嘆か。どちらにせよ、彼の意外性をつけたという点においては変わらない。
 前の授業で使われたまま文字が、黒板に中途半端に残っていた。『恋ぞつもりて 淵となりぬる』。辛うじて読めた文字から察するに、和歌についての授業だった。誰もいないということは、この時間は体育なのだろうか。なんて運の悪いことなんだろうと思ったけれど、この人のことだから、この教室には誰もいないことが分かっていて、ここに連れてきたのだろう。連れ込まれたのは、空き教室だった。ぼんやりと黒板を見ていれば、かしゃんと音がした。
「あの、授業がもう始まってます」
 ご丁寧に、鍵までかけて。これで、誰も入って来れなくなってしまったではないか。いや、誰も入ってこられないようにしたのだ。私の言葉に、そんなことはどうでもいいというように、口を開く。
「おい、そこに座りな」
 窓際の一番後ろの席。体育でなければ、穏やかに降る太陽の光に眠気を誘われるのだろうが、生憎と席の主は不在だ。それをいいことに、彼は我が物のように扱った。正確に言えば、それも間違いではないのだろうけれど。
 午後の、空き教室に唐紅さんと二人きり。なんて不自然な状況なのだろう。そして不自然であると同時に、非日常を身に纏うことに好奇心に似た高揚感がせりあがってきた。
「唐紅さん、何をするつもりなんですか」
「いいから座りな」
 かみ合わない会話はいつものことだった。そしてようやく、唐紅さんが手に何かを持っていることに気が付いた。
「あの、それって」
「お前は黙ってくれなゐ様のされるままにしてればいいんだ。みこと、目を瞑りな」
 反論は、許されないらしい。実際何をいっても、私の思った通りになることなんて少なくて、最終的には彼の望む通りになってしまう。
 言霊には、力が宿ると聞いたことがある。思っていたことも、言葉にしたその瞬間から力を持つのだ。私には彼の言葉が、どれほどの力を持っているのか分からない。傍若無人とか、傲慢と感じることもあるけれど、この人の本質はもっと繊細だ。
 きっと、本当に大事にしたいことは言葉にしないで、胸の内に大切に抱えている人だ。それでも一見して、この人の言葉には不思議な力があるのかも知れないと錯覚させるのは、言葉そのものではなく、彼自身に何か惹かれるものがあるからなのだろうか。
 人は、その不思議と惹かれる力のことを、カリスマ性と呼ぶのだ。
「みこと」
 何かに促されるようにして、瞼を閉じる。目を閉じる前に見えた黒板の文字。『恋ぞつもりて 淵となりぬる』。最初はほんの少しの思いだったのに、気が付いたら淵のように深くなってしまったよ。和歌のイメージから浮かんだ川は、初めは濁りのない水だったけれど、量を増すと同時に赤みを帯びていった。紅く、紅く色づいていって、どこまで行ってしまうのだろう。唐突にこの詩は、恋の詩だったことを思い出した。


 何故目を瞑れと言われたのか、直ぐには分からなかった。目を瞑れば視覚から得られる情報がシャットアウトされ、視覚以外から情報を得ようと他の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じる。微かに聞こえる窓の外からの鳥のさえずりに混じってすぐ横で聞こえる衣擦れ、手のひら越しに伝わる固い椅子の感触。それから、色濃く漂う花の香り。これが彼の匂いなのだ、とぼんやり思考すれば、彼の手が頬に触れた。
 ひんやりとした体温に、反射的にびくりと身を震わせてしまう。知らない体温に、知らない指先だ。骨っぽい指は、目を瞑っていたって、男のものだとわかる。どう頑張ったって、私はこの指を持つことはできない。華遷でされる触れ合いとは全く違った意味を持つこの行為。誰かにこうした色を滲ませながら触れられていることの違和感に、不意にどきりと胸が鳴った。その動揺を隠すように、咄嗟に瞼を持ち上げかけて――押しとどまった。無骨だと思っていた指先が、肌をなぞってゆく。妙にくすぐったいのは、他人に触られているからだ。
 指先の感触が消えると次に肌で感じたのは、指よりももっと柔らかいもので、それは刷毛のようだった。触れたことのない感覚が顔の上を滑っていく。
 ああ、私はこの人に化粧を施されているのだ。目元のあたりを触り続けられることに慣れてきたとき、ようやく理解した。瞼、目のすぐ上に、何か細いものでラインを引かれてゆく。
 いつか、そう、大人になればお化粧をするのが当然であると思って生きてきた。高校を卒業し、制服という皮を脱いだ私は、当然のように大人の顔をして、外を歩いているのだ。
 その準備段階である今、練習の意味を込めてしっかりとお化粧をことをすることがあるだろうと、未来に対してぼんやりと思っていた。けれど、まさか初めてがこんな風に、誰かにしてもらうとは思いもしなかった。初めて家庭菜園で作ったものを、自分で食べる前に他の人に食べられてしまう、というのはこんな気持ちになるのだろうか。自分の顔は、自分のものだがら、自分が一番知っているはずなのに。自分ですら知らなかった自分を見つけられているような気がする。
 くすぐったいと声を掛けることも、かゆいと手を動かす訳にもいかない。私は地蔵だ。言い聞かせるように心の内で呟くと、むしろ動いてはならないという状況に耐えられなくなってくる。
「あの、唐紅さん。まだ、かかりますか?」
「もうそろそろだ」
 頬と、それから口元にも色を施すようだ。彼の視線が下に逸れたのを感じ取ったから、少し。ほんの少しだけ、薄目を開けてみることにした。
 ずっと目を瞑っていたから眩しいと感じる前に、唐紅さんの顔の近さに驚く。下から覗きこむようにして、一点に視線を注いでいた。いつもは攻撃するみたいに視線に込められた力を受け流すことで精いっぱいだけれど、こうして客観的にそれを見るのは面白い。真剣な顔を見たことがない訳ではないけれど、こうして冷静に見ることは今まで一度もなかった。真剣な顔をしているのに、少しだけ幼いな、なんて思ってしまったけれど、口が裂けても本人には言うことができない。
 睫毛が映り込む視界の中で手元は淀みなく動き、机にはいくつもの道具が乗っていた。それぞれ、どれが何の用途があるのか分からないけれど、男の人が、こんなにもお化粧の道具を持っているのは自然ではないのかも知れない。それでも、それが唐紅さんであるというだけでそれなら納得できるというものだと錯覚してしまいそうになる。薄目を開けていたから睫毛がふるふると震えた。
 意識の対象が顔全体になったことに気が付いて、慌てて薄目を閉じた。きっと薄目を開けていたことは見つかってない。仕上げとばかりに目尻をもう一度指がなぞった。
「みこと」
 彼の声に瞼を持ち上げ、差し出された鏡を覗きこむ。お化粧をすれば、女の人は驚くほど変わるというけれど、私は自分がそんなに変わったとは思えなかった。きっと変わったと思えるのは、誰か思う対象がいてその人のために自分を変えたい、と思うから変わったと思えるのだろう。それならば、私が変わったと思えるのはここにいないあの人に対してだけだ。
「みこと、いい女だな」
 それに対して、私は曖昧に笑うことしかできなかった。彼は自分の作り上げたものに満足したように頷く。細められたその目で何を見ているというのだろう。機微に鋭い人だから、私が本当に変わったと思っていないことくらい察することができるだろうに。
 鏡の中の私には、紅が目尻にそっと乗っていた。それはまるで、彼の纏う色のようで。彼の胸に刺さっている花と同じ色だった。恋の色とは違う。けれど、酷く美しい色だった。





きっと唐紅くんは女の子にお化粧するのが上手だよね、っていうところから



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