画家遙さん×大学生凛くん


 肩甲骨は翼の名残で、尾てい骨は尻尾の成れの果てなのだという。初めて聞いたときは浪漫を感じたけれど、この排気ガスで燻った不透明な空を飛ぶ代わりに、水中を気持ちよく泳ぐ術を獲得したので、俺はそれなりに満足しているのだと思う。

 通う大学は、期末考査の色で染まっていた。同学科の後輩である似鳥に頼まれ、試験勉強に付き合ってやったのが三日ほど前の事で、これで単位落としたら承知しないぞと言ったのも三日前のことだった。似鳥のテストは四日後らしい。もっと前に来ればしっかりと教えてやれたんだが、と零したが、最後に渡した過去問で八割を取れていたのでぎりぎり及第点だと告げて解放した。この教授は傾向がほとんど変わらないため、過去問を解いてそれなりの点数が取れていれば単位を取れるのは学内でも有名な話だというのは似鳥には黙っていた。もし今回から傾向を変えてきたのならばそのときはそのときだ。過去問しかやらない他の奴らに比べて、過去問以外もきちんとやったのならば、自ずと点数は付いてくる
に違いない。
 そして、四度目となる「先輩、本当にありがとうございます」という言葉を聞き流すと、今これしかないんですけど良かったら使って下さいとカフェのドリンク無料券を貰った。それも三日前のことだった。人魚のような女性が描かれた看板のカフェは、大学の近場にも何店舗かあるチェーン店であり、およそ普段使うことのない系列であった。その理由として、甘いものが多いからだった。辛いもの好きとして、甘いものと辛いものが必ずしも相容れないと思っている訳ではないけれど、それだって相性が合うものは少ないだろう。
 カフェは、ベースとなる飲み物にはちみつやチョコチップ、キャラメル、ヘーゼルナッツをトッピングでき、ミルクを豆乳や低脂肪乳にも変更できるのだという。そこにケーキを付けることもある、と大学の女子が言っているのを聞いた。似鳥は財布に無料券が入っている程度にはよく利用しているらしいが、あんな甘ったるいものを、と横目で見ているだけの俺にとってはこのカフェに足を踏み入れることそれ自体が未知であった。
 店内に入って何を頼むものかとメニュー表とにらめっこすること数十秒、
「アイス ヘーゼルナッツ カフェ アメリカーノ」
 エスプレッソベースならばさほど甘くないだろうと選んだのはそれだった。
 たまたま空いていた窓際の席にドリンク片手に、バッグの中からルーズリーフとノートパソコンを取り出した。気が進まない次第ではあったが、頭の中でスケジュール帳をまくると、やはり今日中にこのレポートを片付けておかないと後の自分が渋い顔している未来が見えた。この教授の成績評価は出席二割授業態度二割のレポートが六割だったはずだ。出席と授業態度に不足はないにしても、単位を取れるのが六割以上であるため、必然、しっかりとやらなければならなかったがどうにもそういう気分になれないのも事実だった。こういうときは、いっそ実力がものを言うテストでも良かったのに、と思うのは恐らく自分がなんでも完璧でないと気がすまないからだ。
 立ち上げたノートパソコンが唸って、画面を明るくする。ここでやるのは面倒だと息を付いても、ワードの文字カウントは一向に増えることはない。もう一度カップに手を伸ばしてから、ようやくタイトルを打ち込み、学部、学科、学籍番号、名前の順でキーボードを叩いた。

***

 もう少しか、と首を傾ければこきりと小気味のいい音をたてる。A4三枚程度、というレポートの二枚と七分目を過ぎてふと我に返った。3196文字、という数字が左下に見える。あとは推敲するだけだ。思ったよりも早く書き上げたことに充足感を覚えながらも腕時計を傾ければ、短い針は五と六の間を、長い針は六の上を通過しようとしていた。ふとカップを手にとれば、中身は随分と温くなっていた。もう良いだろう。ここまでくれば後は提出の前に見直すだけだ。保存ボタンを押してからパソコンの電源を落とす。中身を飲み干してからおもむろに窓の外を見れば、道路を挟んで向かいの公園で絵を書いている青年がいた。通行人が青年の絵に、通り過ぎざまにそっと視線をやるのが分かる。しかし、そうするのも納得できるというものだ。いつもなら別段どうということもないのだが、初夏、木々は未だ瑞々しい緑色を付けているというのに、身体の脇から覗くキャンバスには、朱色が踊っていた。その人の視界のどこにも赤いものは無いはずなのに。遠目からでも目を惹くその色は、木を前にして描いているであろうにも関わらず、あまりにも強すぎる。
 レポートが思っていたよりも早く終わって息抜きをしたかったからなのか、日頃の生活圏内にはない場所にたまたま足を伸ばしていたから、いつもと少し違ったことをしたかったからなのか。恐らく明確な答えは出ないけれど、強いて言うのなら、その人が描く色に目を奪われたからだ。海岸で見る、砂で作られたオブジェを見るのに似ている。遠くから見ているだけじゃ足りない、と思わせるそれは、少しで良いから触れてみたいと思う。
 本当に良いものを、たった二十年ちょっとしか生きていない俺は見分けることなんてできないし、それに対して言葉にすることも、きっと出来ない。言葉にしないと伝わらないこともあるけれど、言葉にしてしまうことで伝えられるものが少なくなることもある。良いだとか悪いだとかそういうことは、評論家とか、その界の名誉のある人が勝手にやっていればいい。俺が良いと思うものは、俺が決める。
 道路の信号が変わるのももどかしく、その絵に駆け寄る。もう、その絵を描いた本人がいるのも、こうしている俺が他人からどう見えているのかさえも、どうでも良かった。
 惹かれるものに出会ったときは、言葉にならないえも言われぬ感覚なのだと思っていた。けれど、これは何だろう。心が、その色に向かって振れている。一度振れてしまった針をゼロに戻すことなんて、出来そうになかった。そうさせてしまうだけの力が、その絵にはある。
 一見ただの赤色を置いただけの絵なのに、よく見ると何度も何度も重ねてその色を出したのが分かる。毒々しい程の主張をしているのに、どこかに透明感を含んでいて、冷たいところに置いておくとそのうち消えてしまいそうだと思えるその絵を前に、「あの、」と言う微かな、けれど真っ直ぐな声を聞く。そしてようやく横にいる、絵を描いた本人を見た。
 絵からは想像出来ない程ぼんやりとしているように見える。それでも、その絵を描いたのはこの人であるなら、その激しさを内包しているのだ。緑のエプロンにはありとあらゆる色が飛んでいて、手の甲にはねずみ色が居座っていた。頬も甲で擦ってしまったのか、しっかりとねずみの痕があった。
「……世紀末、」
 この絵を描いたのはあなたなんですか、とか。何を描いていたんですか、とか。最初に言うべきことは他にもあったのに、口をついて出たのはその一言だった。世紀末なんて、凄いとか綺麗とかとは違って、絵に対する言葉としては失礼すぎるものなはずなのに、そのときの俺の中では、間違いなくそれがプラスの意味を持つ言葉であった。
 紅い空には緑の雫が涙のように一滴、夕焼けとは違うそれを間近で見て、ぶるりと震わせた。きっと、青年には存在しないところにある色が見えているのだ。この薄く雲がたなびいている空さえ、俺が見る色とは違うように見えている。羨望というよりも興味に近い感覚がはい上がってくる。
「紅い空は、少し落ち着く。曇っているときよりも、雨が降っているときよりも、ずっとずっといい」
「あなたには、今の空は何色に見えているんですか」
「……優しい世紀末色」
 全てを排除しようと頑なな癖に、一度取り込んでしまえばもう自身の一部なのだ、と包み込む穏やかさを持つのは、さっき俺が口にした言葉の欠片が混じった色だった。手にしていた絵筆をイーゼルボックスに置いて目を伏せた青年は、遙だ、と名乗った。青年の瞳は、きっと夜明けのサフラン色だ。



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