サマーサマー! まこはる


「なんか……夏だよね」
「……夏だな」
 耳で捉えた言葉が、頭の中をすり抜ける。脊髄を介して出た言葉は、所謂鸚鵡返しと言うもので。莫迦丸出しなのは分かってはいたのだが仕方ないと思える程には頭が回らないのだ。
 隣に視線をずらせば、渚も何処と無く暑さにやられているように見える。真琴の、中身が伴わない言葉に対する反論がないのが、何よりの証拠だろう。
 プールまでの道のりは遠い。それは物理的な意味合い以上に、精神的な意味が大きい。アスファルトを蹴る足は自身の家を出たときに比べ力なく、その状態を理解しているかのように太陽の陽射しは鋭さを増す。
「マコちゃん、」
「……ん?」
 顔を動かすところにさえエネルギーを割くのを勿体ないと、声だけが渚に向かい合う。
「暑いねって言おうとしただけ」
 まあそりゃ、夏だし。
 年によって、百年に一度の猛暑だったり、観測史上類を見ない暑さだったりと色々と評されるが、とにかく今年もヤバイらしい。というのは、身をもって知っている。ぽとりと汗が落ちてアスファルトの色を塗り替えた。この暑さでは直ぐに元に戻ってしまうだろう。
 暑いという極々当然のことに、声さえ飛んでいかない。代わりに蝉の叫びが遠くの方から聞こえた。
 夏だ。
 うなじがじりじりと焼き付く感覚がする。きっと、フライパンの上の卵もこんな気持ちなんだろう、と足に力を込めた。この坂を上りきれば、そこが目的地だ。昔、国語の教科書で、海を見るために坂道を登り続けるという話を読んだのを唐突に思い出した。この坂を登れば、プールが見える。この坂を登れば、プールが見える。
 過ごしやすい春を束の間実感すれば、次の瞬間にはさも当然のような顔をして夏が居座っている。じわりと追いたてる暑さに耐えると同時に――俺らの季節の到来だ。

 屋外プールに着くなりTシャツを剥ぎ取るようにして脱ぎ、ざぶんと音を立てて飛び込む。渚に続いて飛び込めば、水飛沫が随分と高くまで上がった。生き返ったような心地とはまさにこのことだ。そう言えば、象が落ちたみたいと称されたことがあった。
「ハル、いたんだ」
 予想通りと言えば予想通りの邂逅に、渚と共に苦笑した。こんな暑い日に、遙が大人しく家に(この場合は風呂だが)いるはずがないのだ。残る選択肢としてはこのプールしかなかった。実際プールサイドに来てみれば、遙は水に浮かんでいた。
 いつにも増して、遙の不機嫌そうな表情が水面に映る。ゆらゆらと海草のように揺られていた遙に、真琴が飛び込んだ際にたった波が直撃したためだった。
「ハルちゃんはいつからいたの?」
「……朝から」
 一瞬の沈黙は不機嫌さの現れか、若しくは渚の『ハルちゃん』呼びに対する微かな抵抗か――恐らくどちらも含まれているに違いない。
 続かない会話に割り込むようにして、蝉が声をあげる。続けて水の音を捉えた。
 とぷん。遙が水の中で揺れていた。遙の前世は水の中に棲む生き物だ。イルカと言うには穏やかすぎる顔だった。
「それにしてもマコちゃん。ちゃんと泳ぎに来た訳でもないのに、市内の室内プールとかに行かないのって僕たちくらいだよね」
「まあ……普通そうだろ」
 クーラーという文明の利器があるのだ。家に篭っていればいいところを、わざわざ一度熱い思いをして、屋外プールに来る物好きはそういない。軽く身体を動かすために来た近所のご老人に、子どもを遊ばせるために来た子供連れのお母さんと。年齢性別目的が何一つ一致しない人たちが集う空間ではあったが、涼みに来た男子高校生三人組――遙と渚と真琴は、その不思議な空間では何の違和感もなく溶け込んでいた。
 しばらく渚と戯れながら大人しくしていれば、水が身体に馴染んでくる。息をいっぱい吸って、ぐっと潜り込んだ。ぱちり、目を開く。水を通して見る世界は揺らいでいるはずなのに、どこか真っ直ぐだ。だからこそ、遙はそんな水を愛しているのだろうか。地上ではなく、この水の世界を。
 水中でふるりと頭を振れば、その軌跡をなぞる髪が海草に見えた。水の中から勢い良く顔を出し、肺の中にあった酸素を思い切り吐き出せば、視界の隅で渚が笑った。そのうち鯨とでも言われるのだろうか。
「クラスに安西さんって女の子がいるんだけど、マコちゃん知ってる?」
「安西……ああ、うちのクラスにお姉ちゃんがいる子?」
 確か姉妹揃って吹奏楽部にいるとか言っていた、ような。記憶が確かであれば姉の葉子はクラスの会では積極的に発言し、女子を纏めながらも三枚目でいることを自覚して立ち回る子だった。何というか、先生受けも良いわ生徒受けも良いわで男子との橋渡しもする子だ。個人的には面白い子だ、という印象だった。
「安西さんの妹がどうしたの?」
 少なくともクラス内ではさほど可笑しなことをした覚えがないので、どういった経路で自分のことが漏れたのだろうか、全くもって予想すらつかない。しかし、渚の顔を見るに何かを企んでいる表情だ。
「そうそう。妹は安子って言ってフルート吹いてる子なんだけど、この前その子にマコちゃんのことを聞かれたんだよね。どんな人なのって」
「……はあ」
「はあ、ってそれ以外に感想は無い訳?」
 聞いた相手が渚だという事は、碌な返しをしていないだろう。この辺りは気心が知れているが故の対応だ。
「特には」
「……つまんなーい!」
 寧ろ、そういうことを分かっていてこの話を振ったのではないのか。とはいえ、何処かに後ろめたい気持ちが無いわけではなかったので、渚に問いかけた。
「そういや夏休みは半分終わったけど、渚は宿題終わった?」
「宿題の提出って新学期の初回の授業が多いよね?」
「……まあそうだけど」
 詰まるところ、まだ手つかずということらしい。一般的に、女子に『可愛らしい』と評される渚だが、その実三人の誰よりも男らしいということを知っている。
「早めに終わらしておかないと最後がしんどくなるよ?」
「大丈夫! 慌てない、慌てない。一休み、一休み」
 恐らく彼も夏休みの宿題如きにこの言葉を使われたくないだろう。とりあえず、終われば誰にも文句は言われないけれど。
「……俺はさ、あと数学の問題集が残ってるんだよね」
「まだ半分も休みが残ってるのに問題集だけなんてマコちゃんは真面目だねー」
 高校生になったらなくなると思っていたはずの宿題も、変わらず出し続けられる。来年は受験ということもあって、宿題はぐっと少なくなるだろうけれど。
「真面目なのかね、これが」
 溜め息と同時に、広げた掌を高く振り上げて――水面に叩きつけた。飛沫はほとんど上がらない。掌が微かな痛みで痒いような、寧ろちょっとした刺激で気持ちが良いような。ぱん、と乾いた音が響き、老人が振り向いた。あ、驚かせちゃってスミマセン。
 いくら水の中にいると言っても、直射日光を直に受ける背中は熱を持つ。背中に乗っていた雫が、太陽からの熱と、それから体温で。気が付けば無くなっていた。
熱を冷やすように、遙と同じように仰向けになった。太陽が、網膜を攻撃してきているのが分かる。眩しい。咄嗟に目を瞑った。
「多分、今なら俺『微分積分いい気分』って言った奴を水中に引きずり込んで、その言葉撤回しろー! って言えるね」
「数学かー。僕それ、来年やるんだよね。多分。あーあー、やりたくなーい!」
「文系コースに進むならそんなにかっちりはやらないと思うけど。俺もやりたくないよ、ホント……」
 数式を見ると憂鬱になるけれど、出さなければ痛い目を見るのは自分だ。こうして駄々を捏ねながらも、最終的には諦めて解いて、提出するのだ。諦めのいい奴だとは良く言われる。
 そんな宿題の話を断ち切るように、水に俯せになった。手足の力を抜けば、楽な体勢になる。ただ一つ、呼吸が出来ないという点を除いては。
「……マコちゃん何してるの? 死体ごっこ?」
 けらけらと笑う渚の声が水を通してぼんやりと聞こえて、再び仰向けの体勢に戻った。俯せになったまま戻れないようにのしかかられたら事だ。
「んな訳あるか! 単純に楽だからだよ」
 こうして呼吸を止めていると、苦しいはずなのに、沢山の柵から解き放たれるような感覚がする。絡まった糸を解くような感覚にも似ているそれは、『橘真琴』という存在が水の中に溶けてしまうみたいだ。そのうち俺は呼吸を忘れてしまうかも知れない。
「それにしてもハルってこうやって浮かんでるけど、よく焼けないよな」
「ハルちゃんってちょっと特別な感じがするからね」
 多分、遙は俺とは決定的に何かが違った人間で、その差は埋めることが出来ない何かがある。きっとそれは生まれた時から遙がもつ何かがそうさせているのだ。
「っていうかさ……ハルは?」
 暑さが、随分と遠くへと思考を飛ばす。自分がまともな事を考えているとは思わなかった。暑さがそうさせているだけなのだ。
ふと見た水面に遙の姿は見えなかった。
 家の中でも朝から風呂に浸かっている遙が、ちょっと目を離した隙に水から上がるとは考えにくい。それほどまでに、遙は水と共に在ってきたし、これから先も在り続けるだろう。
「ハルちゃんならちょっと上がってるだけじゃ……って、あそこの底にいるのってハルちゃんじゃない?」
 渚が指す『あそこ』は、底に黒い塊があった。眠っているようにも見える遙だった。
「ハル……? おい! 遙!」
 水の中で揺れるままぴくりともしない遙の姿に不安を覚えて、水を掻き分けて手を突っ込む。遙の腕に触れても反応が伺えなかったから、手首を握って咄嗟に引き上げた。遙が愛する水の中から強引に。
「ハルちゃん!?」
 心配そうな渚の顔が水面に映った。遙、と数度強く肩を叩いて名前を呼べば、強く咳き込んだ。いくらか水を飲んでしまったのだろう。それから胸いっぱい空気を吸って、瞑ったままの瞳が開いた。
「……真琴と渚?」
 深く眠っていたところを突然起こされたかのように、瞬きをした。
 遙と目が合ったときに広がったのは、間違いなく安堵感だ。それは、水という特定の形を持たない存在に対する畏れか、遙をもっていかれなくて良かったというものか。どちらにせよ、本能的に良かったと思ったのだ。
 俺は、一生水に勝つことは出来ない。
「『真琴と渚?』じゃない!」
 発した声は思っていたよりも大きく、プールにいる人たちの視線を集めてしまっていることは分かっていた。それでも、この気持ちを落ち着くまで待ってから話すなんてことが出来る程、大人じゃない。
「どうしてあんな真似したんだ!」
 この感情を言葉にすることが出来ないのがもどかしくて、力いっぱい水面を叩く。
「あんな真似?」
 未だに自分が何をしていたのか自覚がないらしい。ぐらぐら。遙のことになると直ぐに沸騰してしまいそうになる気持ちに、歯を食いしばる。マコちゃん、落ち着いて、という渚の声で我に返った。
 そして、言葉にするために思い出す。さっきまで遙を。


「……ハルが、水の底にいた。ぴくりとも動かないで……まるでしんじゃうみたいに」
 しんじゃうみたいに。もう一度繰り返す。周りの音がなんにも聞こえなくなって、俺の耳がちゃんとおとを捉えられなくなっておかしくなっちゃったのかとおもうほどなにも聞こえなかった。いまこのしゅんかん、せかいにはるかもなぎさもいない。いるのはおれだけで。


 直後、下げたボリュームが元に戻るように音が世界に返ってくる。蝉の音が五月蝿い。
「あんまりにも暑くて、もうずっとここにいてもいいやって思った。息を吐いたら肺の中にあった空気が全部出てって、これで水と離れることがなくなるんだなって思った。細胞の間に水が入ってきて、潤うとかそういう次元じゃなくて、やっと楽にできるようになった。あんまりにもそれが気持ち良いから、もう一回息を吸って、吐いて。潜り続けてたら、息するのも面倒になった」
 水越しに見る世界は、ぼんやりと揺れているはずなのに、何処か穏やか。多分それは水というフィルターがかかっているからだ。
 水は俺にも優しくするくせに、俺の大切なものにも優しいから、悔しいのだ。
「呼吸ができなくて苦しいはずなのに、俺がもともといた場所に戻るような気がした。そうやって考えていると、段々眠くなってきて。このまま目を閉じれば、もっと水が自分のことを優しく包んでくれるような気がしたから目を閉じた」
 そして、気が付けば俺に引き上げられていたのだという。
 人体の七十パーセントは水で出来ていると、いつかの生物の授業で聞いた。だから、遙の『元いた場所に戻れる』というのはあながち間違いではないけれど。多分、遙が言っているのはそういうことではないのだ。
「でも、凄い気持ち良かった。だから、」
 その後に続く言葉は容易に想像できた。
 だから、もう一回。
 遙はどこまでも水に魅入られているのだ。
「ハ、ハルちゃん……! それは……」
 言葉でやめろと言って聞く性格でないのは、きっと渚も分かっている。
「……近くでアイス買ってくるから。それまで上がってなよ」
 出した言葉はそれだった。
「真琴がアイス買って来てから上がる」
「そういうこと言ってる人には買ってこないから」
 三人の間に落ちる沈黙。賛同、とまではいかずともひとまずは納得してくれたのを見て、プールから上がった。財布を取りに行こう。水の中にいて、冷えていた足が熱されたアスファルトに触れて、直ぐに温度を上昇させた。
 あんなにも長くプールの中にいたというのに、上がれば直ぐに暑くなってしまう。
「ちくしょー。わびしい男子高校生の財布を更に薄くさせやがって……!」
 リクエストは? と問う前に聞こえたのは、遙の『俺、ハーゲンダッツ』だった。
「アホか!」
 そんな高い嗜好品、俺がほいほい買えると思ってるのか!
 遙は一般的な男子高校生の価値観からは外れたところにいることが多い。
「というのは冗談で、スイカバー」
 それくらいなら、まあ。
「……渚は」
「白熊」
「渚が白熊っていうのも、もの凄い違和感を感じなくもないんだけど」
「だって美味しいよ?」
 白熊が美味しいのは周知の事実だが、渚がチョイスするというのが意外に思えるのだ。
「っていうか、そういうマコちゃんはどうなの?」
「俺? 決まってる。ガリガリ君ソーダ味」
 お財布的に優しいのはやはり自分が選んだアイスだった。





 プールから上がってたった十分程度なのに、じっとりと汗をかき始めていた。いや、これはプールの水を拭き取りきれていないだけなのかも知れない。
空気そのものが夏だと全力で主張していた。
 手にはアイスが入った袋を下げ、プールまで全力疾走する。うかうかしているとアイスが溶ける。これも、まあ夏の醍醐味というものなのだろう。
 戻れば、相変わらず水に浸かったままの遙と渚が浮かんでいた。
「マコちゃんおそーい!」
 これでも全力で走ってきたのだ。こめかみから流れる汗を見て、その辺りの努力は察して欲しい訳だが。
 いや、そもそも上がっていてくれと言ったはずなのに、未だ水に浸かっているとはどういうことだ。渚を見やれば、『暑くて耐えらんなかったんだもーん!』。それはこっちの台詞だ。
 とはいえ、いつまでもアイスを持っていても、溶けてしまうだけだ。
「はいよ、二人とも」
「渚は白熊でー、」
「ん、ありがとう」
「ハルはスイカバーな」
「おう」
 それぞれに、それぞれが所望していたアイスを渡す。今はアイスが纏う冷気ですら涼しく感じられる。
「……美味しいな」
 夏、プールの中で齧るアイスは、冬にクーラーをかけながら食べる鍋に似ている。どちらもオツな心意気って奴で、その食べ物を最大限美味しく食べようとしている結果だ。

「なんか……夏って良いよな」
 笑いながら呟いた遥の手には、もう「スイカ」の部分は残っていなかった。遙、食べるの早くないか?
 息を吐き、肺の中の酸素を全て外にだす呼吸音が聞こえる。見えたのは、今まさに水中に潜ろうする瞬間の遙であった。
「ちょっ、」
 ……夏のせいだって言えば全部許されると思ってるだろ!





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