遣らずの夕時雨



『私のキャンパスでは紫陽花が綺麗に咲いています』
 そんなメールが紫陽花の写真と共に送られてきたのは一昨日のことだった。
 や、まあ確かに花弁の上に乗った雫が日の光に当たって、きらりと輝いているのは綺麗なんだけど。月子の写真を撮る技術は高いなあとも思うけど。これ、どう返信すれば良いんだろう。
 携帯片手にどう返信したものかと悩みあぐねる姿は、いつもの自分を知る者が見れば、さぞや滑稽に違いない。
「さて、……」
 こうしている姿を知り合いに見られてどうしているのかと聞かれ、月子のことを話すのは癪だ。早くなんとかしなくては。どことなく空気に追い立てられて、急かされているような気になる。
 メール作成画面を閉じる。考えた結果、郁が押したのは「通話ボタン」だった。時計を確認すれば十二時三十分。大学も休み時間のはずだ。
「月子?」
「郁……?」
 着信があったときにディスプレイには「着信、水嶋郁」という文字が表示されている(はず)なのにこうして相手を確認するような言葉が出るのは一体何故か。随分と前に、郁の携帯を知り合い(よく遊ぶ仲間である)が勝手に拝借し、発信の一番上にあった女の子の名前を押して通話状態にした……という事例があるからだろう。
「そ、僕だよ」
 その言葉聞けば、月子は安心したように笑った。
「僕だよって……ほんと、郁だよね」
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ」
 柔らかに笑いつつも、そこには理由は喋らないぞという強固な意思を感じるので、郁は話を本筋に戻した。
「ま、いいけど。で? あの紫陽花のメールはどう言うことなの?」
 メールを返せずにごめん、と言外に伝えるが、気を悪くしたようには見えなかった。
「うん、キャンパスの端っこにバラ園みたいなのがあるんだけど、そこの一角に紫陽花が咲いてたの。あんまりにも綺麗だから、つい」
 見つけてデジカメも無かったものだから、携帯のカメラを起動させたという。
「つい、ね。月子って案外写真を撮る技術高いんだね」
「案外ってどういうことなのよ」
「高校生の時に煎れてもらって飲んだお茶の味、今も忘れてないんだけど」
 口に含んだ瞬間に広がる苦味は忘れようったって、忘れられるものではない。思い出しただけでも喉の奥がきゅっとなる気がする。やや怨念こもった言葉を言えば、それに関しては思い当たる節があるらしい。月子は口を噤んだ。
「……悪かったってば。でも別に普通にお茶をいれてるだけなんだよ……?」
「悪かったってほんとにそう思ってる?」
 電話越しに沈黙が落ちる。しかしここで意地を張っていてもいいことは何も無い。郁はようやく本題を思い出した。
「ま、この話はいいや。ごめん、って。拗ねないでよ」
「誰のせいでこうなってると思ってるの」
 まぁ、間違いなく僕ですよね、とは言わずに、月子の言葉はゆるりと聞き流された。
「ところでさ、紫陽花が綺麗だったから思わず撮ったっていうのは分かるんだけど、なんでまた僕に送ったの? 僕以外にもさ、……東月くんとか七海くんだっているでしょ」
 こんな事を言って、月子が本当に錫也やら哉太やら、それから自身の知らない、大学で出来たであろう彼女の「友達」に送られていたらそれはそれで問題なのだが――郁は確かめるように、敢えてその言葉を口にした。
「今は錫也と哉太はいいの」
 聞こえる月子の声は、郁の不安などお見通しだとでも言うように、真っ直ぐだ。
「私が郁に送りたいと思ったから送っただけなの。他に理由なんて、ない」
「……そう」
 言葉は素っ気なくても、安堵の気持ちは月子に伝わってしまっているに違いない。それが分かっているかのように、月子は続けた。
「紫陽花を見てね、今は六月なんだなって思ったの。きっと七月になればもっと熱くなって紫陽花は萎れてしまう。そんな紫陽花を見て、どうしてか郁を思い出したの。もう六月が終わっちゃうなって」
 月子の言いたいことは、的を得ていなくて。それでも、伝わる何かがあったから。郁は、ただ『そうだね』と言った。
 季節は巡りゆくものだ。それは、他の誰でもない、月子自身が一番身をもって知っているだろう。春が終われば夏が訪れ。夏の終わりと秋の始まりは溶け合っているけれど、いつしか秋だと自覚する日が来る。そして、穏やかに冬へと移行し、再び春へと襷を繋ぐ。
 永遠とその繰り返しをしていることを、月子は知っている。だからこそ、こうした季節の継ぎ目の瞬間を見るのだろう。
「……六月が終わるのは寂しい?」
「うん、少しだけ。でも、きっと七月が終わる時には同じことを思う気がするの」
 月子がそういうことは分かっていたから、そう思うのが六月なだけでないことに、悲しみを覚えたりなんてしないのだ。
「僕は、そんなに好きじゃないよ」
「どうして? だって、六月は郁の誕生月でしょ?」
「六月は梅雨で、髪が湿気で膨らむのが嫌なの」
「……そんな理由なの?」
「そんな理由じゃ悪い? 僕の髪、癖っ毛だから大変なの」
 笑った月子の声に重ねるようにして、郁も息をついた。
 空を見上げれば、雲が随分と高い位置にある。雨が上がり特有の草の匂いがする。夏は思っているよりもずっと近そうだ。 
 




キャンパスに見事な紫陽花が咲いていたので思わず。もじゃ月(=6月)収めということで。





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