あおに溶ける 黄黒




 見上げたそらは青かった。そんな爽やかさとは裏腹に、祖国は恐らく負けるのだ、とそんなような確信に近い予感がした。
 兵や下士官、場合によっては尉官程度の人間は、知らないのだろう。官僚、国を政治的に司る上層部はこの戦いに見切りをつけ、我先にと国外逃亡をしているという事実を。このことを知っているのは軍部でもほんのひとにぎり――大将を始めとした将官、そして佐官と呼ばれる大佐、中佐、少佐、准佐辺りの人間だけだ。
 保身だ身の安全だとそういうものに執着するひとが嫌だった。戦が始まれば、頂点に立つ者は尻尾を巻いて逃げてゆくのは昔から変わらないらしい。と、ため息を付きながら読みかけの本を閉じた。



「九七式艦上攻撃機パイロットの黄瀬涼太っス。これからしばらくの間この艦にお世話になるんでよろしくっス」
「……二等潜水艦乗組員、上級兵の黒子テツヤです。君を××島まで連れていきます。よろしくお願いします」
 自分とて、軍人によくいるタイプとか言われれば肯定はしにくいが、眼前にいる黄瀬涼太と名乗った彼は、随分と華やかで目を引く。格好も勿論だが、それ以上に纏う雰囲気が。軍人には珍しいタイプに見えた。
 きっと彼も自分と同じように、信じるものは上官でも国でもないのだ。こういうひとは、強いひとだ。そう断言できるのは今までの経験からだった。
「綺麗な瞳の色、してるんすね」
「……それはどうも」
 なんと返せばいいものか迷ったが、無難に答えた。それにしても男を捕まえて口説き文句とは、なかなかたいした趣味のようだ。
 本当に彼は軍人か、もしそうなのであれば、彼はどこ所属のひとなのだろう。部下がこうも変わっていると、彼の上司も相当な変わり者に違いないと思う。
 彼がこの潜水艦に乗ってきたのは、秋のよく晴れた日の午後だった。
 夏に比べて、随分と日が落ちるのが早くなった。とはよく耳にするが、潜水艦乗りにとっては、年がら年中海に潜っている訳で、太陽の柔らかな光に当たることそれ自体が久しい。新鮮な空気をいっぱいに吸い込んでは吐き出す。気持ちがいいものだ。
 これで戦況も上々なら良いのだが、そちらは芳しくない。
 他国の軍事技術も日進月歩の勢いで進むのだから、自国もそれと同等、もしくはそれ以上に進まなければならないのだが、どうにもいけない。
 仕掛ける戦いの全部が全部、戦果を残せずに終わればやがては大戦そのものも負けるというもの。今になって自国の力を過信しすぎていたことに気がついた参謀本部は、慌てて打開策を打ち出す。それが、太平洋に浮かぶ島の支部にある戦闘機と本国にある戦闘機での複数地点同時攻撃であった。
 そして太平洋に浮かぶ島までパイロットを送り届けるのが今回の二等潜水艦の任務だった。
「それじゃ、しばらくはこのそらも見れなくなると思うんで、今のうちにしっかり焼き付けとけば良いと思いますよ」
「じゃ、そーすることにしますわ」
 眩しそうにそらを仰いだ彼の金糸が、太陽の光に重なる。そらに溶けてしまいそうな色だ、と思う。
 こうして、通常の乗組員よりひとり増えた数で潜水艦は潜った。


 彼は攻撃機乗りにすれば、この環境に慣れるのも早かった。器用というべきか、要領が良いというべきかは分からないが、特に大きな問題もなく日々が過ぎたように思える。
 これだって問題と言えるべきことではないが、それでもまぁ、これを機に自分と彼との関わり方が変わったのだからひとつの出来事だろう。
 潜水してから数日がたった夜のことだった。
「起きてください」
 気持ちよさそうに寝ている彼の枕元に口を寄せて伝えれば、びくりと震えてから目を開いた。
「ど、どうした……んすか」
 飛び起きる、というのは大袈裟だが、寝ているところをいきなり起こされれば何事かと思うのは当然だろう。しかし、そこまで慌てていなかったからか不思議な顔をしつつも頷いた。
「今なら綺麗な空気が吸えますが外に出ますか?」
「……! はいっ!」
 位は彼の方が上なのに、こうも素直な反応だとまるで部下ができたみたいで新鮮な気分になった。
「あー久しぶりに清々しい空気吸った気がするっス」
「そうですね、それに関してはボクも同感です」
 数週間ぶりに見た空には星が瞬いていた。いつ煙と火で覆われるのかも知らずに、それはいつもと変わらなかった。見る頻度が少ないからこそ、見る度に思うのだ。美しいな、と。
 他の艦員は波風に髪を揺らしながら気持ちよさそうにしている。口笛を吹いているものさえいるが、彼は別の艦員に怒られていた、が。艦の中はどうしたって閉鎖的だから、こうして外に出られるといつも以上に開放的になるのも納得できるというものだ。
「……珍しいでしょう? ここまで上下の関係がうるさくないのって」
「兵と士官がこんなに和やかに喋ってるのって始めて見たっス」
「ええ、そいうところは潜水艦ならでは、という奴ですね。ってことはやっぱり君のいたところはもっと大変だったんですか?」
 そう問いかければ、彼は『そりゃあ、もう!』と声を上げた。
「なんていうかもう……もっとぎすぎすしてるっていうか。理解しあえてないっていうか。同じものをまもりたくて、仲間なのに、考え方一つでこうまでも違うのかって。なんだかなーって感じっスよね」
 諦めたように、彼は笑う。
「ええ、」
 仲間なのに考え方が違えば理解し合えないのに、敵でも考え方が同じであれば分かりあえるのだろうか。そうであればいいなとは思うけれど、同時に甘い考えだ、と思う。 そう思わせるのは自身が防諜部にいるからなのだろうか。
 そう考えてしまう自分に嫌気がさした。せっかく外の空気を吸える時間なのに、こんなことを考えるのも良くない。そんな後ろ向きな考えを振り払うようにため息をはいた。
「もう、ここでの生活には慣れましたか?」
「そっすね。今までの生活と比べると特殊ですけど、それなりに」
「それならよかったです。でも驚きましたよ、色んなことの物覚えが良くて」
「あー昔っから良く言われるんす。そういう細かいとこの物覚えはやけにいいって」
「君の過去のことは良く知りませんけど、ボクは実際そう思いますよ」
 一度指示したことをすぐに覚えてしまうのも凄かったが、それ以上に艦員に対する気遣いが凄かった。
 どうにも攻撃機や爆撃機乗りの人は、敵国の戦闘機を倒したのは自分だという驕りがあるような気がしていたのだが、彼は違った。いや、実際のところ敵国の戦闘機を直接攻撃しているのは彼らなのだから間違いではないのだが、軍人としては、潜水艦だって方法は違えど敵国を攻撃していると思う訳で。『君は優しいひとなんですね』と言えば、申し訳なさそうにしていた。
「そんなことないっスよ。戦闘機乗りって言えば、派手で、カッコイイって思われがちっスけど、戦闘機は母艦が無いと発進できない。ちゃんと発進できるように整備とかしてくれるのって、艦に載ってるひとたちじゃないっスか」
「そういう風に理解して、ひとに伝えられるのは凄いことだと思いますよ。君はまっすぐなひとですね」
「……そんなこと、ないっスよ。そんな風に思われてるほど、オレは綺麗でもまっすぐでもない。もっと酷い、人間っスよ、オレは」
「……」
 そんなことはないと言えるほど彼を知っている訳でも、そうだと肯定出来るほど知らない訳でもなかった。彼と共にすごした数日はそんな形ないものをもたらした。『君は、』と言葉を続けようとすれば、唐突に遮られた。
「その『君』って呼び方するの、やめません?」
「どういうことですか」
「オレは、今から君のことを『黒子っち』って呼ぶことにしますから、黒子っちもオレのこと君って呼ぶのやめましょうよ」
「君がそういうなら別に良いですけど」
 自分より位が上の言う人間の言うことは絶対、が基本であるからそれに従う。
「ほら、また君って言った」
「……すみません、黄瀬君」
「それでいいっス。いいひとっスね、黒子っちは」
 彼がそういうほど、自分も澄んだ人間ではないけれど。



「――以上が新しい任務だ。それと×××、今日から君は黒子テツヤだ」
『くろこ、てつや』と新しく与えられた名前を何度か口の中で転がす。元より順応性は それなりに高いと思ってはいたが、新しい「自分」は思うよりも数段早く馴染みそうだった。それどころか、足りないピースが埋まったような気さえした。
「くろ、ですか」
 最近の彼は色を興味の対象としているようで、何かとついて回るものにはその手のものが増えている。
 それを指摘すれば、『同じものを冠すれば僕と繋がっているようだろ?』と返ってきたので、もう何も言うことはない。
 それにしても、と赤を冠する彼に問うた。
「なんで敢えての黒なんですか」
「テツヤは黒に対して良いイメージがないのかい?」
 その言葉に頷く。ふふっと笑ってから彼は言った。
「黒は悪いイメージもあるけれど、文字としての意味合いは、そう悪くはない。黒星とかがそうだろう?」
「そう、ですね」
「けれど、ね、テツヤ。僕はそれ以上に別の意味を付加させているつもりだよ」
 彼の話は要領を得ない。得てして頭の良い人間は結論を急ぐ傾向があるらしい。一つ話せば全て分かってしまうからだろうか。それとも、効率化をはかってのことだろうか。
 普通の人であるならどちらかに当てはまっているはずだが、こと目の前の彼に関してはどちらでもないだろう。
「黒、っていうのはもう染まりきっているからこそ何にも染まらない色だよ」
「……つまりどういうことなんですか」
「テツヤの帰還を心から願っているってことだよ」
 お茶目とも呼べる笑みで赤い彼は言った。



 夢を見ていた。この生活をするようになってからしばらくがたつが、時折こうして夢を見る。
 もう幾度となく繰り返したその流れは、本当か嘘か、真か偽か、そして夢か現実か分からなくなる。はっと我に返ったときに見上げるそれが鉛色で、これは現実だと理解出来た。
 その後に感じる機械油の匂いで、やはりここは外界と鋼鉄一枚隔てられた場所なのだと思う。
「くろこ、てつや」
 今の自分の名前を繰り返す。流されてしまいそうになる自分を、ここと結ぶ鎖であるかのように。『自分』を強く意識する。
 そうだ、ボクは黒子テツヤだ。それを見失ってはいけない。
「黒子っちー、艦長が呼んでるっスよー」
 ノックの音と共に思考に割り込んでくる音。
「あ、はい。すぐに行きますね、黄瀬君」
 彼が名前を呼んでくれる度、自分を強く感じられる。
 部屋を出て、呼ばれた艦長室に向かった。
「艦長、上級兵の黒子です」
「新人はどうだった?」
 この艦に乗ってから日の浅い新人、つまり黄瀬君のことなのだろう。艦での勝手が分からないため、教育係――という名の世話係を任されていたのも彼との生活が始まってすぐのことで、今は形だけにすぎなかった。
「みんなとも上手くやってます。特に問題はないかと」
「そうか、それなら良い。上手く行けば二三日で沖まで着くと彼に伝えてくれ」
「分かりました」
 彼とのこの生活も終わりを告げようとしていた。
 自己を守るラインは軽々と飛び越えてくるくせに、変なところで義理堅い。踏み込むべきかそうでないかの曖昧なところの見極めが上手なんだろう。それを無自覚でやってのけているのだから、舌を巻く。ボクよりもよっぽど防諜部員向きなのでは、と思う。
艦長室を出れば、すぐに黄瀬君と出くわす。
「黒子っち! 艦長に呼ばれてたみたいっすけどなんかあったんすか?」
 ただ、防諜員になるのであれば、こう直球ではなく、もう少し婉曲でなければいけないとは思うけれど。
「ええ、順調に進んでるので、あと二三日もすれば着くと」
「そっか、もうそんなに日数たってたんすか」
「ええ、ここにいると昼夜の感覚が懐かしいですからね」
「ここ、意外に愛着湧いちゃったんで離れるの寂しいっスね。でも、もう随分とお日様見てない気がして、早く光を浴びたいっス」
 黄瀬君の言った言葉は自分が抱いた気持ちと同質なもので。この心地の良い距離が崩れてしまうのを考えれば、少し寂しくもあった。緩やかに馴染みつつあったものが、感情的な部分と共に剥離する感覚。それはいつだって、時折熱くなる胸の一部を連れてゆく。
 もう何人ものひとにさよならを告げた。もう絶対に会えないだろうと分かっているひととの別れもあったし、良くしてもらったひとに仇で返すような別れ方もした。全て、過去のことで、振り返らないボクにとっては、捨てたもののはずだった。きっとすぐにこの別れも過去のことになる。捨てるはずの過去に。
 戦場では背負う荷は少ない方がいいと赤い彼は言った。実際、その通りだと思う。前線でも、後方でもそれは変わらない。重荷があるほど、それに囚われていざと言うときに動けなくなる。何度もそうやって動けなくなってしまったひとたちを見てきて、そして置いていったではないか。
 けれど、彼は。話したこと、過ごした時間、それから彼に関わって失ったものと得たものは手放しがたい。何がそうさせるのかは分からないけれど、不思議とそう思わせる。
 だから、なのだろう。
「これでお別れ、ですね」
 ぽろりと心の一部を不意に落としてしまったのは。
「黒子っち……?」
「いえ、なんでもありません」
 防諜部員としてはありえない間違いだった。目的の為に自分の立場を偽り、行動も、言葉も偽り。そしていつしか感情までも偽る。防諜部員のボクはそういう風に出来ているはずだったのに。
「オレも、ここから離れたくないなって、そう思うっス」
 あまりにも穏やかに彼が笑うから、それでも良いかも知れないと、そう思ってしまう自分がいる。本当に彼が近くにいるようになってから、ボクは変わってしまった。
 彼から暖かいものを与えられる代わりにボクは欠けていく。
「乗る前は、随分と長く潜るんだなって思ってたけど、こうしてみるとあっという間でなんだか物足りないくらいっス」
「奇遇ですね、ボクもそう思っていました」
 ゆらりと笑った、そのときだった。
 一瞬。
 艦全体が大きく揺れる。
 揺れに耐え切れず、壁に手を付くと艦が不可解な振動をさせていることに気がついた。そして、警告を知らせる赤いランプがけたたましい音を発しながら点滅する。
 緊急事態が発生。目的地目前にしての敵襲だった。
 他の潜水艦、母艦はレーダーに映るはずだが、艦内の連絡がなかったところを見ると、レーダーに映らなかったのかも知れない。
『敵襲を受けました! 敵艦の姿は見えません! 自艦の動力室は破損。損傷は甚大! 動力室と他の通路のハッチを塞ぎます。……艦長、お元気で。祖国に幸あれ……!』
 一方的とも言える通信が途絶える。ごぼごぼと水が侵入する音が、受音機越しに聞こえ、艦内の連絡はそれきりだった。
 その後、艦長からの呼び出しがかかる。
『諸君、今までよく働いてくれた。目標到達直前での軍命失敗ですまない。この艦に
動力室が動かないのであれば浮上は不可能で、じきに酸素の供給もなくなるだろう。諸君達は現時刻をもって軍命を解かれた。残りの時間は各々で過ごすといい』
 この船は海の藻屑となって消えることが決まった。
「……黄瀬君。君を目的地まで届けてあげることはできそうにありません」
「そっすね……それもしょうがないっス」
「悲しくはないんですか?」
「そりゃ悲しいっスよ。もっと生きてたかったし、やりたいこともいっぱいあった。でも、もうどうしようもないっスから」
「……酸素が枯れるまでもう少し時間があります。ちょっと話をしませんか? 勿論、黄瀬君がよかったら、ですけど」
「そりゃもう喜んで!」
 やっぱり黄瀬君は変わったひとだ。

 話してしまいたかった。自分は防諜部にいる人間だと。
 きっとこのまま消えてしまうのだろう。今、この時代において、いのちは驚くほど軽い。たった一人の防諜部員が消えてしまう前に何かを告げても、何も残らないだろう。あったことにはならないだろう。だから、本当のボクのことを話してしまっても、いいと思った。
 それでも。
 彼に聞けたのは、全く別のことだった。
「……黄瀬君には、自分の帰りをどこかで待っててくれるひとはいますか?」
 彼は少し考えてから『いないっス』と答えた。
「……ボクにはいます。ボクの生きる意味を見つけてくれたひとです。ずっとずっと、そのひとがいるからボクは生きていようと思っていました。彼がいることが、ボクの存在する意味でした。そのひとに、先に逝ってしまってすみません、と。それを伝えられないことだけが心残りです」
「黒子っちの生きる理由と信じるものはそのひとの存在なんすね」
「はい」
 あーあ! オレもそういうひとがいればよかったってこういうとき思うっス!
 憂いを払うように、不安を飛ばすように。黄瀬君は声を上げた。本当に払える訳がないことが分かっていてもそうすることしか出来なかった。そして、こう続けた。
「オレ、絶対最後に見る景色は真っ青なそらだと思ってたんですけどねー。ま、パイロットのオレにはおあつらえ向きの最後じゃないっスか」
 悲しそうに笑っていた。
「ボクも、最後がこうなるとは思いもしませんでした」
 パイロットの彼が最後に見るものがそらなのだとしたら、ボクは一体何になるのだろう。
「でも、うみもそんなに悪くないっスね」
「そう、ですね」
 母なる海に沈んで溶けて。そういう最後も、まあ悪くはないのかも知れない。
 ただ、願わくばもう一度。もう一度、彼の綺麗だと言ってくれた  を見て溶けて逝きたいと思った。
 見上げても見えないけれど、きっとそらは青いに違いない。



 軍パロって難しいね……
 裏設定として、実は黄瀬も諜報部の人間だけど、黒子と同じように潜入捜査として適正の高かったパイロット職に行ったということに(私の中で)なっています。
 こうも海軍の方にコネを持っているけれど、赤い彼は陸軍所属であって欲しいです。あのぎすぎすした感じが陸軍向きなんじゃないかなって。



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