ボクをころせる唯一のひとへ 黄黒



 黄瀬涼太は肝を冷やした。
 危機一髪、文字通りそれだった。眼前に迫る枝は、風に吹かれて遊んでいた。もう少し止まるのが遅ければ、このまま突っ込んでしまっていたに違いない。その可能性の想像はなかなかしたくはないものだが、恐らく失明は避けられなかっただろう。
「大丈夫でしたか?」
「た、助かったっス……!」
 温かみが伝わるその手は、重力に逆らって自分の身体を強引に引き上げた。流石に全体重とその衝撃を右肩一点のみで支えてしまったものだから、多少なりとも痛むものの、命に比べれば大したものではない。
 まさか足下がいきなり崩れるとは誰が予想しただろう。不思議な力が働いたとしか思えなかった。
 しかし、それよりも気になったのは、助けてくれた少年も、同じようにたった一本の腕で止めてくれたことだった。そんなに力があるようには見えないのに。
「こんなところにくるなんて君は変わってますね。ここへ来てはいけないと大人に教わらなかったのですか?」
「度胸試しって奴っスよ。今流行ってて」
 しっかりと地に足がつくことがこんなも安心感を与えるものだとは知らなかった。
「こんなところにくることがですか? いや、それともボクに遭遇することが目的なんですかね。最近の子は変わってますね」
「最近の子って……君もオレと同じくらいっスよね?」
 色素の抜けた薄い髪に少年のような容貌。どう見ても同世代だと涼太は判断した。
「ボク、こう見えても本当はとっくに成人済みなんです」
「え? そんなんすか?」
 自分が素っ頓狂な声を上げてしまったのを見て、彼は楽しそうに笑ってから、『冗談です』と告げた。
 言われてみれば、歳上に見えなくもないような。いや、でも冗談だと否定しているし。奇妙なひとだ、と思う。
 陰りを持っているのに、どこか清らかで、俗世の穢れを知らないような。近寄りがたいのに、このひとのことをもっと知りたいと思う。
「それよりも、度胸試しについて詳しく教えてください」
「って言ってもそのまんまっス。ここには不思議な妖怪がいて、なんでも人をとって喰うとか」
「不思議な妖怪?」
「そっス。なんでも人間みたいな格好してて、ぱっと見ただけじゃ人間か妖怪か見分けがつかない。見分ける方法は、影、で。え……?」
 少年を見つめる視線が足下で止まる。
「な、んで……影がないんす、か……?」
 自分の見間違い出なければ、少年には、影がなかった。
 影がないものはこちら側の子ではないのだと、昔からそう教えられて生きてきた。影があるのはこちら側の証であり、あちら側に足を踏み入れた者は、帰ってくることができない。運良く帰ってくることができたとしても、自分の身体の代償として影をもっていかれてしまうのだと。
「失礼な話ですよね。ボクは人を食べたことはありません」
 もしかしなくとも、自分はとんでもないところに来てしまったのでは。気がつくのにそう時間はかからなかった。
「まぁ、でもそうやって恐れられないと、ボクらは忘れられて消えてしまいますから」
 目の前にいる彼に影がないとか、彼が噂の妖怪だとかそんなことはどうでもいい。彼がどうして悲しそうな顔をするのか分からなかったけれど。そんな淡い思考はすぐに霧散した。
「こうして君にはボクのことを知られてしまった訳ですが……」
「え、……えっ?」
 穏やかな雰囲気を纏っていたものだから、何事もなくこのまま帰してくれるかと思ったが、それは甘かったらしい。明らかなる敵意が全身に刺さる。
 このひとは、ひとならざるものなのだと、遅ればせながら実感する。
「……君の名前はなんと言うのですか」
「涼太。黄瀬涼太っス」
「黄瀬くん、ですね」
 それじゃあ黄瀬君、ともう一度呼びかけられて、『なんすか』と返事をしようと思えば、一瞬の無重力状態。そして再び右肩に痛みが走った。
「一度命を救っておいたと思えば、また崖に突き落とす。一体なんなんすか……」
 一瞬の無重力状態は、突き落とされたときのものだった。見上げたときに見えた彼は、やっぱりどこも妖怪などには見えなかった。
「ゲームをしませんか」
「この状態でゲーム、っすか。随分と余裕っすね」
「ゲームをうけないのであれば、ボクはこの手を放します」
 下は、鬱蒼と木々が生い茂るものの、この高さから落ちれば命の保証などどこにもありはしない。
「それって、オレには選択権なんてないじゃないっスか」
「黄瀬くんはゲームを受けるんですか。受けないんですか」
「受ける。まだ死にたくないし」
 いい答えです、と妖怪の彼は言ったけれど、生きたいからなんでもする。それが、人間の当然の感情だった。妖怪の彼には分からない感情なのかも知れない。
「ボクの名前を当てられたら君の勝ち。それがルールです」
「そんな簡単なことでいいんすか」
「はい。でもきっと難しいですよ」
「受けて立つっス!」
 彼は楽しそうに笑った。


 それから数日、妖怪の彼のところに訪れた。名前を知るためだった。
 あまりにも呼びにくいのでなんと呼べばいいのか、と聞くと、『じゃあ黒子で』と言った。その後に、『勿論、これは本当の名ではありません。君に当ててもらうのは本当の名ですからあしからず』とも。
 本当の名を知れば彼――黒子との縁は切れてしまうのだろう。自分は人間、彼は妖怪だ。彼はもともとここで生きていていいものではないのだ。
 けれど、自分は恐らく、彼になんらかの情を寄せてしまっている。ここで生きて、たまにでいいからこうして話し合って。自分にとってひどく居心地のいい場所だった。出来ることなら、彼もそう思っていればいいと思った。
「妖怪はね、案外あっさり消えてしまうものなんです」
「そうなんすか……?」
「はい。君たちにはそう伝わっていないようですが」
「それって、どんな方法なんですか?」
「一つは、忘れられてしまうこと。人間に忘れられてしまったら、ボクら妖怪は存在できなくなってしまうんです。恐れられなければ生きていけない、だなんて皮肉なものですよね。ただ影がなくて、人とりほんの少し力があるだけなのに。それ以外は本当に人間と変わらないんですよ?」
 それは、黒子としばらく一緒にいた自分が一番知っている。人をとって喰うなんて、そんなこと、彼が出来る訳がない。彼は、心優しいひとだ。
「……けれど。逆に言うと忘れられないと、きえることができないんですよ」
「……」
 時折見せるほの暗い一面もまた、彼の一面だ。

『どうも黄瀬さん家のところの涼太君が妖怪に魅せられたらしい』
 街でそんな噂を小耳に挟んだ。なんてばかばかしい話だろうか、と思う。
 いや、ある意味で正しいのかも知れない。あの不思議な彼に惹かれているところは間違っていない。
 これはいい話のネタが出来た、と思うと同時に彼の元へと向かう脚を早めた。

「ほんと、酷い噂だよね」
 そう言えば、と話が途切れたところで先ほどの噂の話を彼にした。聴き終えれば、彼は何か諦めたように、『ボクの名前を呼んで下さい』と言った。
「君には名前の検討がついているはずです」
「まぁ、なんとなく、っスけど」
 どうしてこんなときにそんなことを言い出すのか、分からない。ルールしか言われていない。期間も、目的も知らないのだと今更ながらに思う。
「もう、こういうごたごたはこりごりなんです」
「……どういう、ことっスか」
「きっとそのうち、大人たちがここに来るでしょう。その意味を、君なら分かるはずです」
 つまるところそれは、自分を探しにここに来て、なおかつ彼を退治するためだ。
「……今だから言いますけど、妖怪を消す方法のもう一つが本当の名前を読んでもらうことなんですよ」
 納得がいかなかった。自分は、彼とあって、次は何を話そうだとか、今度はこれを教えてもらおうとだとか、そんなことを考えていたのに、彼はずっとずっと零に戻るためのレールを歩んでいたのだ。オレの知らないところで静かに、消えゆく準備をしていた。
「オレに、自分を殺させようとしてたんすか」
「ボクは消えるのならば、君によってがいい。それに、消えると言ってもあちら側に行くだけですから」
「それならオレも連れて行ってください!」
 彼は首を横に振る。
「どうしてもダメなら、オレがそっち側に行く! オレは何度追い返されたって、何度だって行く」
「それじゃあ、君がこちら側にきてしまったら追い返してあげます。何度来たって無駄です」
 どうして是と言ってくれないのだろう。それでも、彼の瞳は揺らがないから、オレはもう諦めるしかないのだ。
 なにがいけなかったのだろう。どこでボタンをかけちがえてしまったのだろう。
噂を彼に言ってしまったこと。本当の名前を知っていること。そして、妖怪と人間であるということ。何度自問しても、答えは出てはこない。
「君に、呼んでほしい。ボクの、本当の名前を」
「……オレは君のこと、忘れないから」
「それは、僥倖ですね。それじゃあ、」
 せめて別れのときくらいは笑顔で見送りたかったのに。
「さようなら、――」
 彼は宙に溶けて、やがて消えた。




 ついったで妖怪パロの黄黒にたぎったので書いてみました。
 黒子っちが人間だったけど、なにかあってあちら側に行き、影をもってかれる(=妖怪になってしまう)とかだったらいいなっていう妄想。



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