真夜中のタナトス いろみこ




 月はーー望月は人を狂わせるというけれど、それは本当のことだったらしい。
 クレーターの模様を見て、私たち日本人は兎だとか、兎が餅をついている姿だと言うけれど、自分にはそうは見えない。形あるものではない、もっともっと恐ろしいものに見えるのだ。
 童謡などで描かれる月は、夜道を明かりで照らし、先を導く存在だけれど。生憎と自分は導かれたことがない。寧ろそう、象徴なのだ。変化の象徴。
「欠ければ満ちて、満ちればまた欠ける」
 ぽつりと呟けば、宙に消える。
 地平線のすぐ上にある黄金色をしたそれは、酷く不気味に見えるときがある。確かその現象にも名前があった気がするけれど、今はそんなのどうだっていい。大きくて、確かな存在感を持ち、空の片隅に居続ける。それはまるで何かを監視するかのように。それだけが事実だ。
 そんな望月は恐ろしいはずなのに、どこか惹かれるものがある。目が離せなくなってしまうのだ。
 この学園は、近くに五斗街という繁華街があるのにも関わらず、静まった夜に空を見上げれば星もよく見える。転校して次第に順応していく中、一番感動した点がそこだった。
 自分の部屋からも見えるのだが、やはり外が一番良い。雲がない夜には部屋をそっと抜け出すのが日課になっていた。

 その日の夜も、雲がなかったから空を見ようとして外にいた。ほんの少し寒かったけれど、それでもただ空を眺めているには良い気候だ。
 あっちに見えるのはオリオンで、そっちがカシオペア。北斗七星は見えないけれど。一際輝いているのは惑星なんだろう、とか。
「きみは、」
 漫然と思考を散らしていれば唐突に声が聞こえた。意識が収束する。暗闇に添うようにして、いつの間にか隣には人がいた。
「こんばんは、いろはさん」
「……」
 彼はじっと佇んだまま、特に反応もない。いつものことだった。そしてもう一度君は、と繰り返す。
「月を見ていても誰かが迎えに来てくれる訳でもないのに、」
 言葉と共に何かを絞り出すような、苦しそうな声。それはきりきりと音が聞こえそうになるほど、悲痛な声だった。
 常からして、多弁な人ではない。言葉少なに、事実と主張を的確に伝えてくる。けれど聞こえてくる音は、いつにも増して自分の中にあるものを直接相手に送るもの。
「そうやって、ずっとずっと、待ち続けるのか」
 いろはは眉を寄せ、自分でもどうしたらいいのか分からないと言った表情で、みことを見つめていた。すぐに、月に視線を移す。
 実際に、どうして口にしたのか今の彼には分かっていないのだろうと思う。例えれば、それは無意識に心をこぼしてしまう、そんなような。
 言っていることの要領は得ないし、纏う雰囲気はいつもの彼からしてみれば酷く異質で。まるで別人のようだった。
 それでも、紛れもなく、の前にいる彼は彼なのだと。みことはそう思うのだ。それどころか、こんなにも不安定な彼こそが、本当の彼の姿で。いつも見る彼は、その一面でしかないのかも知れないとすら感じる。なにがそう思わせるのかは分からないけれど。
「いろはさん、どうしたんですか?」
 何かあったんですか、と続けようとしたが、その言葉も喉元で止まった。
 ふと振り返り見上げたいろはは、何か見えないものを見ようとしているかのように目を細めて。何もない夜空の一点をただただ見据えていた。その視線の先には望月が存在していたけれど、きっと彼が見ているのはそれではない。
「別に何も」
 そんないろはが消えてしまいそうになったからなんて。
「いや、あるが……ない。ただ、君の、」
 彼は時折目を瞑り、ぽつりぽつりと口を開く。きっと自らの中でも言いたいことが纏まらないのだ。ぶつりぶつりと切れる、そんな息に乗せた、言葉と呼べない感情の欠片を吐き出す。
 彼は、苦悩していた。形ない何かに対して。
「いろはさん」
 その存在が酷く不明瞭で、溶けてしまいそうだと不意に思ったから、とっさにいろはに指を伸ばした。ここに居て欲しいと引き留めるように。
 けれど、いろはも偶然みことに手を伸ばしていたものだから、二人の指先は丁度真ん中で触れ合う。
 手が触れることは元より、それ以上の接触だってしているはずなのに、どうして今だけ。
 彼は、いろはは激しく動揺していた。
「触れるな!」
 ぱしん、と軽い音が暗闇に響いた。手を払われたのだ。その事実に悲しみを覚えない訳ではなかったけれど、それ以上に彼の瞳に怯えの色が見えた方が気にかかった。
「本当にどうしてしまったんですか……?」
 いつものあなたらしくないです、と言おうとしたが、いつもの彼とはどんな彼を言うのだろうと我に返る。先ほどの彼を一面を見てしまってから、自分の中にいた「いろは」は形を失いつつある。
 自分は彼のことをどれだけ知っているのだろう。
 思えば、あまりの彼の情報の空白加減に驚きを覚えるほど、自分は彼のことを知らない。
 甘いものが好きで、百歳さんという水妹がいて。地仙組を率いていて、ある種の天才で、華遷の腕は誰よりもあって。
 逆に言えばそれ以外になにを知っているというのだろう。
「はじめは一緒だったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう」
「……」
 もう、何を言っているのか分からない。けれど、彼の言葉をしっかりと聞いていなければいけないような気がしたのだ。
 いろははさらに言葉を続けた。
「……君の手は、ずいぶんと暖かい」
「そういういろはさんの手はあまり暖かくないんですね」
「……寒いから」
 もう一度寒いから、と自身で確認するように言った。
「だから、君とはこんなにも温度が違う」
「そう、ですね」
 そんな当たり前のことを言われたって、何をそんなに言い聞かせているのか自分には分からない。
「寒いなら、温度が違うのなら、手を繋いでいればきっとそのうち暖かくなりますよ。私の手、冬でも暖かいんです」
 だから、どうぞと。いろはに向かって手を差し出す。
「……」
 彼は、何かに迷っているようだった。差し出された手を握るか否かという表面上の問題ではなく、もっと深いところにあるものの選択を迫られていたのだった。結果的に手を握るか、そうでないかのように見えるけれど。
「……」
 いろはは差し出されて手を強引とも呼べる力で握った。
 先ほど一瞬触れたときにはほとんど分からなかったけれど、こうしてしっかりと温度を共有すれば、彼の手は冷たいのだと改めて感じる。
「手が冷たい人は、心が温かい人ってよく言われますよ。だから、あまり気に病む必要はないんじゃないんですか?」
「そういうことじゃない。こんなにも君と温度が違えば、」
 一つになることなど出来ないではないかーー。
「え?」
 いろはは確かにそう言った。
「どうして、こうなってしまったのだろう」
 その言葉は懺悔のようで。苦悩する姿は現実味を感じさせなかったけれど、きつく握られて痛みすら感じるその手が、意識を引き戻す。
「君を、みことを迎えにいける人でありたかった」
 いろは越しに月が見えたから、どこか緩慢な思考で、「まるでかぐや姫のようだ」と思った。
 いろはの顔を見つめれば、彼の瞳の中にも美しくも怪しい望月が二つ。彼の瞳の中の私の瞳にも、望月がもう二つ。
 空には望月があって。こんなにも明るいものが存在しているから、二等星である北斗七星が見つからないのだ。
 そしてこんなにも望月があるのだから、狂わされるのも仕方のないことなのかも知れない。
 沸き上がる不思議な感覚を全て望月のせいにしてしまおうと、そう思った。




ついったでお世話になっているみずたまちゃんとコラボしました!
素敵ないろみこちゃん…そして私は多分いろはの思案(というか悩んでいる)顔が好きなんだと思います
本当にありがとうございました!



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