願わくばこのまま 鷹撫
なでしこ、と彼の声が私の鼓膜を震わせる。何をするでもなく、ただ名前を呼ばれ呼ぶだけでこんなにも世界が鮮やかになるのだ、不思議なことに。 水面に小石を投げ込んで、広がった波紋のように、私をじわりじわりと侵食する。 撫子、という硬質で潔癖なものを感じる名前でさえも、彼が口にするだけで別の意味を感じることができるのだ。 「どうしたの?」 首を傾げれば、視界には髪が残る。一瞬遅れて黒が消えれば、視界は穏やかな金で埋まった。つんつんしているように思えて、触れてみると案外柔らかくて掌に落ち着くそれをそっと撫でる。 「ちょ、ちょっと鷹斗、痛いわ」 「ごめん」 抱きついてきた衝撃で、うっかり尻餅がついてしまう。まるで大型犬に飛びかかられたみたいだ。 「いきなり抱きついてきてどうしたの? 何も言わないで何かするのって、鷹斗にしては珍しいわね」 「……駄目だった?」 捨てられた子犬が見捨てないで、とつぶらな瞳で見つめているような気がして。大の大人である鷹斗がそんなことをしている、という絵が妙に面白くて思わず笑ってしまう。 「別に駄目じゃないわよ。どうしたのかなって思っただけだから」 「何となく、かな?」 「……不安になったの?」 「どうだろう。分からないや。でも撫子が愛おしいなって思ったから。そうしたら知らない間に名前を呼んでたんだよ」 なでしこ、って。 鷹斗はなんて安らかに言うんだろうか。私が鷹斗の名前を呼んだら、私が感じていたのと同じように世界が新しく見えれば良いのに。 だから。 「たかと、」 ひらがな発音。漢字に比べてやわいから、触れれば壊してしまいそうになる。それでもひらがなで発音されたものにしかないものを感じるから、マシュマロを吐き出すように言葉を放る。鷹斗がきちんと受け止めてくれるだろうと思っているから。 「ん?」 「呼んだだけ」 してやったり、と笑えば抱き寄せられていた力が強まった。 「いくら撫子でも、そんなこと言ってると意地悪しちゃうよ?」 「何言ってるのよ。さっき鷹斗がやってたことよ」 「それでもするのとされるのじゃ全然違うから」 「まあ、そうはそうだけど」 くすりと笑った。そんなこと言っても、鷹斗のことだから意地悪なんてきっと出来ないんだろう。彼の場合、無自覚にしていることの方が意地悪なことが多い。だから自覚してしまえば意地悪なんて出来ないのだろうと、そう思うのだ。 「たかと」 首元に顔を近づける。ああ、この温度だ。鷹斗の温度。 なでしこ、と呼ばれて見つめれば、今度視界に広がったのは深みのある緋色だった。 鼻と鼻がこんなにも近い。この感情を、なんと表せば良いのかもう分からない。幸せなんてもんじゃない。 彼の吐く息を私が吸って、私の吐く息を彼が吸う。酸素だとか、二酸化炭素だとか。そんなものを抜きにしても私たち、遠からず死んでしまうのかも知れない。 いや、もういっそそれでも良い。それほどまでに、湧いてくるものは胸を満たす。どうしようもなく、泣きそうになる。 願わくば、もうこのまま死んでしまいたいと。彼の温もりがあまりにも暖かくて。 私を緩やかに殺すのだ。
ついったでお世話になっております月さんに挿絵を書いて頂きました! 強引に頼み込んだとも言う! 自分の話に、こんなにも素敵な挿絵が付くなんて嬉しすぎる……! 本当にありがとうございました!
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