あなたの見る世界 円撫


 お姫様抱っこって、やっぱり女の子なら誰しも憧れるものよね、と雑誌を捲りながら撫子は円に言った。それに対して円の反応は、そう言うもんなんですかと、気の抜けたコーラのような味気ないものだった。
 それも当然と言えば当然のことであり、何故ならば円は作業中だったからである。特に円の作業の対象は小物であるため、指先に神経を払っている。
 漫然となにかをするものではないので、返事や対応がおざなりになるのはしょうがないこととも言えた。
 いかに撫子が冷静で冷めていても、お姫様に憧れるというのは、きっと一生に一度ウエディングドレスを着たいと思うのと変わらないことだ。とは言っても、小学生の頃に自分を称するための冷静で冷めているというのも二十を過ぎれば何となく意味も変わってくるけれど。
「はい、終わり。こちらからおよびだてしたのに構えずにすみませんね」
「いいのよ、円の仕事の邪魔はできないもの」
 仕事の邪魔が出来ない、というのも撫子の本心ではあるが、それが全てではない。仕事だからとは言うが、作業中、円は優しげで柔らかな雰囲気を纏うものだから。
 自分より身長も掌もずっとずっと大きいのに、その指先から生まれるものは命を吹き込まれたように輝いて見えるのだ。
 そんな円の数少ない穏やかな表情を見ていたい。円の為ではなく、あくまでも自分のためだから。
 なんて、円には言えっこない。

 パチンパチンと針金を切る軽快な音がする。どうやら本当に終わったらしい。
ふう、と息をつき、くるりと椅子を回して円は撫子をみた。
「で、何でしたっけ、お姫様抱っこ?」
 可笑しくなってくすりと笑うと機嫌は急降下したようで、眉がひそめられた。
「なんなんです。人の顔見て笑うことがいけないことだって教わらなかったんですか」
 このままなんの反論をもしないと、相変わらず不機嫌であろう今後数時間の円が見えるようで、慌てて反論する。
「円の口からお姫様抱っこ、なんて言葉が出てくるとは思わなかったから」
「それ、どういう意味ですか」
「だって、円とは無縁そうな言葉で」
 大の男がお姫様抱っこと口にするのが面白いのではなく、あくまでも円が紡ぐ言葉だから面白いので悪しからず。
「酷いですね。こんな純真なぼくのどこが似合わないんですか」
「どの口が純真って言うのよ。えっと、……お姫様抱っこ……?」
 円に話しかけたのが随分と前であったのと、撫子も何の気なしに呟いたことだったので、なんのことか理解するのに一瞬時間を要した。
「えっ、あ……そうね」
「なんですかその間は。……まさかとは思いますが忘れてたんですか」
 自分の思考をそっくりそのまま読まれたようようで焦るが、円はことも無さげに会話を続ける。
「ま、そんなことだろうと思いましたけど。お姫様抱っこ、撫子さんが望むなら今ここでやってあげましょうか。こちらの用事も一段落したことですし、あまりお構いできませんでしたし?」
 どうぞ、と円は撫子に手を差し出すが、にやりとした口元になにやら円の思惑を感じた。何となく、嫌な予感がする。
「遠慮しておくわ。部屋の中で、それも二人きりでやることじゃないでしょう」
「良いんですよ遠慮しなくても。それともなんですか、ぼくに撫子さんが持ち上げられないと思ってるからですか」
 重いから、ですか? なんて挑発するように円は言う。
 失礼ね、そんなに重くないわよ。……多分。
 口に出す変わりに敵意を込めて円を睨むが、円は口角を上げてなおにやりと笑う。
 本当に一言多い男だと思う。しかし、これは挑発しているのだと分かればわざわざ気持ちを振るわせることもない。視線を手元に移すと、自分の気持ちに素直にならないと彼氏に飽きられちゃうかも、なんて存在を主張する太いゴシックが踊っている。
 私達にもきっとあてはまるだろう。息を吐きながら撫子はぱらりと雑誌のページを捲った。
「別に遠慮してるからって訳じゃないし、円が私のことを持ち上げられないなんて思ってる訳が無いわ」
「だったら何をそんなに渋ってるんです」
「そんなの決まってるじゃない。恥ずかしいからよ」
「そんなの今更じゃないですか。それにこの程度のこと、何度もあなたに強いているでしょう。どうして今日はこんなに抵抗するんです」
 寧ろなんとなく、以外に理由があるのだろうか。
「最近は円に流されたりして感覚が麻痺しちゃってるだけ。いつも恥ずかしいのよ」
「今日も流されればいい」
「そういう気分じゃないのよ」
 どうやら撫子の頑なな態度が気にくわなかったらしい。
 チッという軽い舌打ちが聞こえたと思った瞬間、視点が変わる。身体が一瞬重力から解放される。
「っ!」
 そして、円にお姫様抱っこされているのだと分かったとき、既に円の顔が間近にあった。円の息をのむほど端整な顔立ちが近くにあるのはなかなかにドキリとさせられるが、それ以上に撫子が動揺したのは暴れたら円の腕から落ちるということだった。
 高さにすれば恐らく一メートルちょっとで、ベッドもあるから落ちたところで怪我をするかと言われればきっとしないだろう。だが、好き好んで円の腕の中から落ちたい訳ではない。
 このままじゃバランスを崩して落ちる――!
 撫子は咄嗟に円の首に腕を回した。
「おや、撫子さんから抱きついてくれるんですか。さっきまでは拒んでたのに」
「今だってそのつもりよ」
 撫子がそう言うと、円は腕に込めた力を緩める。落ちそうになるから撫子は円にすがり付くしかない。これは頭で考えるということ以前の問題だ。
 落とされそうになるから円に抱きつくというのは、まるで自分の意思で円に抱きついているように感じられて(自分の意思はあるからあながち間違いではないのだが、幾分フェアではないような気がするのだ)、少し悔しい。これじゃあ、円の思う壺だ。
「……円」
「なんですか」
「いつ落とされるか分からなくて怖いわ。やめて」
「嫌です」
 そう言う円はやっぱりいい笑顔だった。
 円の思う壺である、というのがどうにも気に食わない。きっと、撫子を持つ手が緩まれば気の危険を感じて撫子の方から抱きついてくるところまで分かってやっているのだ。
 きっと円の気がすむまでこのままになるだろうと判断した撫子は身をよじって円の腕の中から逃れようとする。しかし撫子が腕の拘束から抜けようともがけばもがく程、円の拘束は堅固になってゆく。
「落ちたいんですか」
「そんなことは無いけど放してよ。放してくれるなら、もう落ちたっていいわ」
「本当に落とすとでも思ってるんですか、あなた」
「そりゃそうよ。本当に落とすかどうかなんて円しか分からないじゃない」
 再び拘束から逃れようと身体に力を込めるが、円は楽しげに笑うだけで撫子の抵抗など意に介さないようだった。いくら円相手でも、撫子が本気で抵抗すれば効果はあるだろうと思われるのに、何故。
「どうして本気で逃げようとしてるのに逃げられないんだろうって顔、してますね」
「……」
 言い当てられてしまっては、返す言葉がない。悔しいから睨むけれど、円相手にはあまり効果がない――寧ろ逆効果なのだと分かっていても、この行き場のない感情をどこにやればいいというのだ。
 案の定円は面白いものを見たとでも言うような、そんな顔。
「足が地面についてないから、体を支える軸がないんですよ。だから力が入らないんです」
 これで納得いきました?と自信満々に言うのだからもう諦めるしかない。
「というか、ぼくがあなたを落とすことなんて、絶対にあり得ませんから」
 安心して下さいなんて言うけれど、寧ろ円だから安心出来ないのだ。
 それでも、きっと円は自分のことを落とさないのだろうという妙な自信があるから、撫子は少しだけ身体の力を抜いて、体重を円に預ける。
 円の温もりに寄り添えば、驚くほど温かい。撫子が円の温もりを感じることが出来るのだから、当然円にも同じように伝わっているだろう。
 円の腕の中から見るその景色は、普段撫子が見る高さとさほど変わらないのにこんなにも鮮やかなのはなぜだろう。
 それは、円の温もりがあるからなのだろう。
 円も、ほんの少しでもいつもと違うように景色が見えているといいなと、そう思うのだ。







title by 確かに恋だった様
つま先立ちの恋の五題より

pixivの円撫企画に参加させていただいたお話です



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