いぬぼく/言葉なんて無い ミケちよ


滅多なことでは表情を変えない人だから、始めは分からなかった。眉を顰め、何かに耐えたような表情をすることに。


人当たり良さそうににこにことしているのが彼のデフォルト。
最近は甘い顔をするが、それだって時と場所、それから人を選んでしていると思う。
そういう顔は多分僕の前でしかしない。一応言っておくが自惚れではなく、これは事実だ。

そんな訳で、彼――御狐神君の整った美しい顔はなかなか崩れないのだ。



朝起きて、ドアを開くとそこにはいつものように御狐神君が一寸の乱れもなく立っていた。いつもの完璧な微笑みを携えて。

「おはようございます凛々蝶様」
「朝早くからごくろうなことだな。……その、おはよう」

きっちり四十五度の角度で礼をする。かくり、なんて音が聞こえそうなくらいかっちりと。
こういうところはきっちりしているのは、SS(シークレットサービス)だからではなく、彼の性質によるものだとその……恋人、になってから気がついた。

「ご朝食はどうなさいますか?ラウンジでとられますか?それともお部屋で?」
「……今日は部屋で食べようと思う」
「かしこまりました。では凛々蝶様のお好きな物に致します」


最近はラウンジではなく部屋で朝食をとることが多くなった。
理由は簡単。部屋でとれば御狐神君が作ってくれる、からだ。

彼の作る料理は少し甘い。それは実際に砂糖が入っているとかそういうのではなくて感覚的なもの。
口に入れるとふわりとする。
甘いのだが何かそういったようなものを入れているのか?と彼に聞いてもいいえといつもの笑顔で言われるだけ。

「紅茶になります。熱いのでお気を付けくださいね」
「そんなことは君に言われなくても充分分かっている。全く君は本当に過保護だな」

ちゃんと言われていた筈なのに。ついうっかりだった。

「あつっ!」
「凛々蝶様!」

僕の手から離れて重力に従って落ちていくカップがどこか現実味を帯びない。
まるで額縁の中の出来事みたいだ。

せっかく僕の為に御狐神君が煎れてくれた紅茶なのに飲めなくなってしまうなぁなんてスローモーションに見えるカップを目で追う。
かしゃんとガラスとガラスが触れる音。そしてパリンと軽い音が連続して鼓膜に響く。
行き場のない紅茶がカーペットに行き着く。白が、茶色に変化する。

咄嗟にカーペットに転がる破片を拾おうとした。

「凛々蝶様、お手を触れないで下さい!」

飛んで来る声は鋭い。

「いや、でもこれは僕が落として割ってしまったもので、だから片付けるのも僕で……」
「良いのです、僕にやらせて下さい。もし破片に触れて凛々蝶様の手が傷つきでもしたら僕はどうすれば……!」

彼の目を見ると、どうしても引かない時の目をしていた。そう、SSとして仕事をしているときのような。これは諦めるしかしない。

「そう、か……すまない」
「凛々蝶様のお世話をするための存在ですから、僕は。それから手は大丈夫ですか。火傷などはされていませんか」
「大丈夫だ!怪我などどこにもしていない」

それを聞いた御狐神君は良かったと安堵の表情を浮かべていた。
それからすぐに僕が落として割ったカップを手早く処理する。

カップに触れているときに一瞬だけ眉を顰めたのを僕は見逃さなかった。

「御狐神君、ちょっと手を見せてくれ」
「なんでしょうか?」

強引に彼の手に触れ、指先を見る。男の人の癖に綺麗で、どことなく優美さを感じる。少し体温の低い美しい指だ。
だけど、そんな指に亀裂が一本。
それを作った原因は、僕。

「……切れているじゃないか!」
「そんなもの、すぐに治ります。大したことではありません」
「それはそうだが……。傷は治っても痛みはあるじゃないか」
「ですが、凛々蝶様を守るために出来たものなら僕はそれを嬉しいと思うのです」


君は傷ついて喜ぶなんて変態か!と心の中で思うが口には出さないことにする。

「……君が傷つくのは僕が嫌なんだ。それが僕のためだというのなら尚更だ」

確かに今彼の指は驚異的なスピードで傷が治りつつある。そこに傷なんてなかったかのように、元通りになる。

「ですが凛々蝶様、治りました。本当に大丈夫です」

やけに機嫌良く微笑むものだからどうしてだろうと思っていると、心の内を読んだかのように御狐神君は言った。

「凛々蝶様自ら僕にこうして触れて下さるとは嬉しいですね。凛々蝶様からねだられることはあまりありませんから」
「そっ、そういうつもりで僕は君に……!」
「ええ、そうですね」

でも嬉しいのですと満足そうに言うものだから、僕は何も言えなかった。
目は先程とは違い、恋人として接するときの甘さと柔らかさを湛えていた。







12.0213
彼は手袋をしているというのをすっかり忘れていました!



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