忘れ物をした。学校をでて自転車に乗っていたらふと思い出した。忘れ物というのはプリントで、明日必ず出せよと担任が帰りに言っていた気がする。「特に本山、お前」とも言われた。
はあ、と溜め息をつくと俺は自転車をUターンさせる。担任め、何故特に俺なんだ。必ず提出物は出しているのに。しいて言えば、ただ提出が1、2週遅れる。それだけじゃないか。
学校に着くと部活動生が声をはりあげて練習していた。汗を張り付かせて、走る姿は眩しく見えた。
俺も運動部に入って気合いいれてくればよかったかもな。自転車を停め、教室へ歩きながら、心にもないことを思った。3年にもなって今さら入れるわけがないと分かっているから言えるだけだ。実際、ゆるゆるとした週1の部に所属して、ゆるゆるとした生活を送っていたのだから。ああ、高校時代の思い出を聞かれたとき困るだろうな。今からなにかネタを考えとかなければ。
「あ、もとやん」
教室へ入ると俺を呼ぶ声が聞こえてきた。高くなく、女子にしては少し低い落ち着いた声。俺を「もとやん」と呼ぶのは一人しかいない。
「志垣、いい加減もとやんはやめろって」
いいじゃん。彼女はへにゃっとした笑みを浮かべる。
「もとやん、もとやん、モトヤン、元ヤン。ね、かっこいいでしょう」
「だから、それをやめろって言ってんの」
「もったいないなあ」全く残念だと思ってないように笑う。「そういえば、何で教室戻ってきたの?」
「ちょっと忘れ物をしてな。ああ、これこれ。あったわ」
机な中をあさると取りにきたプリントが見つかった。ちょっとシワがよったが大丈夫だろう。
彼女は自分の席から立ち上がり、窓側の俺の席の横に腰をおろした。
「ああ。進路のやつね」納得したらしく頷く。「吉ちゃんが持ってこい言っていたのか」
吉ちゃんというのは担任のことだ。実は彼女と俺のクラスを3年間持ってくれている。俺と同じで彼女に変なあだ名をつけられた可哀想な人だ。因みに名字にも名前にも「吉」はつかない。彼女曰く、「大でも中でも凶でもない普通の人だから」だそうだ。これを聞いたときは本当に同情した。とにかく、苦労人。何に苦労しているかって? 勿論、彼女に決まっているだろう。
「そうか、進路か」
小さな声で彼女は呟く。目を伏せ、考えるように黙り込むと、椅子に座ったまま、ぶらぶらと足を遊ばせる。細く伸びた華奢な足に何時もには無いなにかを感じ、俺は思わず目を游がせた。
何時も元気に笑っている彼女が黙り込んだことに、遅れて若干の焦りを感じた。俺に担任に変なあだ名をつけ(被害者は他にもいると予想している)、他クラス、他学年の人からよく名前を呼ばれ、先生生徒問わず信頼されている。そんな彼女を実は俺は尊敬していたりもする。その彼女が珍しく黙り込む。彼女に言ったら呆れられそうだが、心配だ。
「どうかしたのか」恐る恐る聞いてみる。
窓から差し込む光はオレンジ色に染まっていた。ゆらりゆらりと揺れるオレンジ色に、彼女は足を2、3度また遊ばせた後口を開いた。
「もとやん、進路決めた?」
「あ、ああ。一応」黙り込んだ割には普通の質問に肩の力が抜けた。「県外だよ。県外の専門学校」
「専門? 近くの大学だと思ってたけど」
「やっぱさ、追いかけたいものがあって。諦めるより、ギリギリまで頑張ってみるかなって思ってな」
「良いね。夢があって、凄く良いよ」
「志垣はどこ行くか決めたのか?」誉められたことに照たのを隠すように言う。
「私はね、県内の大学」俺の方に向き直り、微笑む。「もとやんが行くだろうなって思ってたとこ」
自惚れかも知れないが、息を飲んだ。その言い方はまるで俺と同じところに行きたくてと言う風にしか聞こえなかった。
「ねえ、もとやん」彼女はオレンジ色に染まる。
ずいっと顔をよせ俺の瞳を眩しそうに見つめる。ほのかに香るシャンプーの匂い。女の子のそれ。鳴り止まない心臓の音。熱が、集まっていく。
刹那、空気が止まった気がした。
「すきだよ」
忘れものができました。
大切な、大切な、忘れものが。
(100911)
忘れもの