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 その日は酷暑だった。病院で定期健診を終え、人熱れでむっとする待合室を後にした。病院から数歩出た所で立ち止まり、徐に財布の中身を確認する。横を通り過ぎたおばちゃんが怪しい者を見るかの如く見てきたが、僕は間違っても他人の私物は盗らない主義なので無視を決め込んだ。百円玉が二枚、あと一円玉が数枚。英世は先程出て行ってしまったし、ましてや諭吉なんぞは元からいらっしゃられない。何せ上京したての貧乏学生だ。バイト代はほぼ家賃に支払われ、残った端金で食費や光熱費を賄うと、どうしたってこうして毎月の検診代に苦しめられることになるのである。

 いや、しかし。今日は本当に暑い。テレビでは今年も「観測史上最高気温」だなんて言っていたっけ。
 近くにあった自販機のボタンを押してコーラを買う。確か、ここからちょっと行った所に公園があったはずだ。そこで暫く休もう。

 果てしなく続く蜃気楼を前に、くらりと視界が眩む。照りつける太陽に体力が奪われるのを感じつつ、意を決し重い一歩を踏み出した、その時だった。

「君、美味しそうなもの飲んでるじゃないか」

 頭上から愉し気な声が聞こえてきたのだ。僕は思わず狼狽した。だって、僕の頭上には、それこそ絵に描いたような大きな梓の木が繁茂しているだけだったのだから。

「……あ、」

 一瞬、何かが碧く光った。鋭く冷気を帯びたそれがソイツの目だったのだと気付いた瞬間、言いようのない恐怖が全身を襲った。「終わった」。頭を過ったのはそんな言葉だった。

「俺はヒルッカ」

 ソイツは僕の目の前に降り立つと、貼り付けたような笑みで言った。不健康な程白い肌に、真っ赤に吊り上がった唇。現実離れした姿に、漠然とした不安が脳を支配した。

 気が付いた頃には、既に元いた場所からは十歩程離れていた。

「い、石崎……哲(てつお)……です」

 自分でも驚く程情けない声だった。今まで何百何千回と口にしてきたはずなのに、自分の名前がひどく重く感じた。

「それは何だい」

 屈託のない笑みが光を反射する。人の笑顔が「怖い」と感じたのは、この時が初めてだった。

「こっ、コーラ、です……けど……」

 「コーラ」。ヒルッカ、というらしい人は何度かその言葉を口にし、手を顎に当て何やら考え込みだした。もしかすると、この人の国にはコーラがないのかもしれない。どこの国にも大抵進出している大手企業なのに、その存在を知らないとなると、余程情勢が不安定な土地なのか、それともただ世間の事情に疎いのか……。

「あ、あの……一体、あなたは何者なんですか……?」
「うーん、難しい質問だね。さっきも言ったけど、俺の名前はヒルッカ。出身は詳しくは言えないが北欧あたり。日本語は独学で覚えた。職業は――機密事項だ」

 にたり。まるでそんな効果音が付きそうな笑みだった。僕は思わずまた後ずさった。正直、早くこの場からお暇したい……いっそ、このまま走れば逃げ切れるんじゃ……。

 しかし、実際はそう上手くいくはずもなく、ヒルッカさんは数歩詰め寄ると、面白おかしそうに僕の顔を覗き込んだ。

「そのコーラというのはどんな味がするんだい?」
「そ、そうですね……甘くて、シュワシュワしますよ……炭酸なので……」
「炭酸! ラムネみたいなやつかい?」
「は、はぁ、まぁ……」

 コーラは知らないのに、ラムネは知ってるんだ……。いや、そもそも北欧にもコーラは売っているのでは……?

 状況を飲み込めずにいる僕をよそに、彼は話を続けた。

「昔、中世のフランスに、偉大な予言者がいた。彼の名は、ミシェル・ド・ノートルダム。通称ノストラダムス。彼の予言は実際に当たると評判だった。その生涯の中で、ノストラダムスはこんな予言をしている。
『一九九九年の七月、恐怖の大王がアンゴルモアの大王を蘇らせに天から来るだろう』、ってね」
「……は、はあ……」

 急に話を変えたかと思うと、先程とは打って変わり、ヒルッカさんは真剣な表情でこちらを見据えた。ビー玉を透かしたみたいな碧眼とカチリと目が合う。
 何だか、嫌な予感がする。

「そこで、テツオ、君に頼みがある」
「は……、」
「この世界を救ってくれ」


 ひどく困惑した顔が、彼の瞳に映った。
 不思議と、彼への恐怖はなくなっていた。



[ | mokuji | ]








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