「…青峰君の、バカ…っ」
その頃、教室を、そして学校を飛び出した黒子は、道を歩きながら止まらない涙を抑え込もうと必死になっていた。
さっきから何とか冷静になろうとしているのだが、引きちぎられたシャツをかき合わせていると先ほどの光景がよみがえってしまい、その度にまた新しい涙があふれ出てる。
これではいくら影が薄いとはいえ、すれ違う相手が怪訝に思うだろう。
自然と黒子の足は、人通りの少ない方へと向かっていた。
そして――
「…そんなに泣いて、どうしたの?」
涙を制服の袖口で拭っていた黒子は、背後からかけられた声に顔を上げた。
「…ねぇ、キミもしかして…っ」
声の主は、見知らぬ男――いや、どこかで会ったことがあるような…?
「…やっぱりそうだ!ね、オレのこと覚えてないかい?もう2年近く前になるかな、迷子になっていたキミに、声をかけたことがあるよね?」
「……あ」
なんという偶然だろう。それは、昨日赤司たちに話をしたばかりの、件の男で。
「…嬉しいなぁ、ずっとキミのこと探していたんだよ…あの時は邪魔が入っちゃったから、しばらく時間を置いて……でも、いつかまた巡り合えるって、信じてた」
「…あの…っ」
その異常な言葉に、流石の黒子も警戒心を抱き、男から一歩身を引いた。
「…ひどいな、逃げないでよ……もしかして、キミ以外の子に触れたこと怒ってるの?…だって仕方ないじゃないか。中々会いに来てくれなかった、キミが悪いんだよ」
だから、キミによく似た子たちを、代用品にするしかなかったんだ。
男の言葉に、黒子は目を見開いた。
「…まさか…」
まさか、目の前にいる男が、多くの少年が被害にあったという、例の事件の犯人――?
「…ひと目見た時から、キミに惹かれてしまって……ねぇ、これって運命だと思うだろ?」
突きつけられた事実に思わず言葉を失った黒子に、男は両手を広げながら近づいていった。
以前より伸びた背丈と、それでも失われていない愛らしさに、妖しく目を細めたところで――
「…何だよこれ…っ!?」
男の目に飛び込んできたのは、乱れた衣服と、白い首筋に残された赤い鬱血の痕。
「…いつの間に男を咥えこんだんだ、この淫売っ!」
「…や、はなせ…っ!」
男は激昂しながら、逃げようとする黒子の肩を掴み、強く揺さぶった。
「…やっぱり、あの時オレだけのものにしてあげるべきだったんだ!…キミもそう願ってたんだよね?だから、他の男に汚されて、こんな風に泣いてたんだよね?」
黒子の頬に残る涙の痕を指で辿りながら、男は病んだような昏い笑みを浮かべてみせた。
民家の壁に黒子の体を押さえつけ、その両足の間に自らの膝を割り込ませ完全に抵抗を封じてから、乱暴に前髪を掴み、無理やり視線を合わせる。
「…っ」
「そんな辛そうな顔をしなくていいよ。すぐに、オレのものにしてあげる」
痛みと恐怖に顔を歪めた黒子に興奮を覚えながら、男は腕の中の体に手を這わせ、目の前にある小さな唇を貪ろうと顔を近づけた。
(…こわい…っ)
先ほど、青峰に触れられた時も確かにこわかった。それでも、今感じている恐怖とは比べ物にならない――そうそれは、戸惑いに近い感情だった。こんなにも、嫌悪感に満ちたものではない。
(…やだ、やだ、やだ…っ!)
恐怖に、喉が引き攣るのが分かる。それでも黒子は心の中に浮かんだその名を、必死に絞り出した。
「…ぁ、青峰君…っ!!」
「…黙れよっ!」
助けて――と続けられるはずの言葉は、男の分厚い掌に抑え込まれてしまった。
しかし――
「…テツ…っ!!」
次の瞬間、黒子は身の自由を取り戻していた。
「……ぁ…っ」
「テツ、大丈夫か!?」
男を思い切り殴りつけた青峰は、すぐさま黒子に腕を伸ばした。脱力した体が崩れ落ちる寸前で、何とか抱きとめる。
「…あ、あおみ…っ」
「…ごめん、遅くなっちまって……くそっ!目を離すんじゃなかった…っ!」
震える手で縋り付いてくる黒子を強く抱きしめながら、青峰は苦しそうに言葉を吐き出した。
「…そ、その子に触れるな…っ!」
自責の念に歯を食いしばる青峰は、かけられた声にゆっくり振り返った。
視線の先には、先ほどの男――その手には、銀色に光るナイフが握られている。
「…そんなもんで、テツを奪えると思ってんのかよ…?」
「ひ…っ!?」
かざされた凶器に怯む事もなく、それどころか殺意にも似た激しい憎悪をむき出しにした青峰に、男は怯えたような悲鳴を上げた。
「…青峰君、ダメ…っ」
流石の青峰も、刃物を持った相手では無事ではすまないかもしれない。
大切な相棒が――かけがえのない光が傷つくことを恐れ、悲鳴をあげた黒子の気持ちを理解しながら、それでも青峰は引く様子を見せなかった。
更に強く睨み付けてやると、男は面白いほど動揺し、逃げようとしているのか一歩後ろに後ずさる。
「…何怯えてんだよ……んな甘い覚悟で、こいつが手に入るわけねーだろうが…っ!」
「青峰君…っ!」
青峰は、引き留めようとする黒子の手を振り払い、男に向かって駆け出した。
「う、うわぁ…っ!?」
完全にパニック状態の男は、やけくその様にナイフを振り回したが、青峰の足は止まらない。
そして――
「――そこまでだ」
――その次の瞬間、場を支配したのは、静かな静かな声。
同時に、男は訳も分からぬまま、地面に転がっていた。更には、どこからか現れたのか数人の黒スーツの男たちが、その体を容赦なく上から抑え込む。
「……赤司、君…?」
「…黒子、無事かい?」
どうしてここにいるのか。驚きに目を見開く黒子の肩に自らの上着をかけてやりながら、赤司は優しい笑みを浮かべた。もう大丈夫、安心しろと、頬を両手で包み込んでやりながら。
「…本当に偶然なんだよ。昨日、お前から例の男――いや、こいつの話しを聞いて、放っておけなくてね。調査をはじめさせて、早速居所を掴みはしたんだが…」
赤司は、無様な恰好で地面に這いつくばる男を顎先で差し示しながら、嫌悪感も露わに柳眉を顰めた。
「…調べれば調べるほど、きな臭い奴でね。まさかと思って尾行をつけようとしていた矢先に、この騒ぎだ」
なかなか素晴らしい判断だと思わないかい?
それは、黒子の傍らに寄りそうように立つ青峰に向けての言葉。
赤司の、いかにも意味ありげな視線に、青峰は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「…まぁ、お前たちにも色々聞きたいことはあるが、とりあえず今はこちらの処理が優先だな…」
そこで赤司は、再び男に視線を向けた。
「…オレのチームメイトを危険な目に合せたんだ、法で裁かれる以上の罰を、覚悟しておくんだな」
感情を窺わせない口調で言葉を紡ぐ赤司の横顔は、普段の彼とは別人かと思うほど、冷たいものだった。








その翌日。
「テツくん…っ!」
病院に寄った為、遅れて登校した黒子は、クラス前でずっと待ってくれていたのだろう桃井に、優しく微笑んでみせた。
「…桃井さん、おはようございます」
「…そんな、ムリに笑わなくていいよ…っ!…だって、テツ君…っ」
桃井の言葉は、涙に邪魔されて最後まで紡がれることはなかった。
「…泣かないでください桃井さん。ボクは本当に大丈夫ですから…」
「でも…っ」
「…黒子っち…っ!」
桃井の肩に手を置き宥めていると、廊下の向こうから駆け寄ってきたのは黄瀬だった。
その瞳の端には、桃井と同じく涙が滲んでいる。
「…黄瀬君まで…」
「だって…オレたち結局、何の力にもなれなかったじゃないっスか…っ」
「そんなことないですよ……ね、だからそんな悲しい顔しないでください。――紫原君も、緑間君もです」
言いながら、黒子は背後を振り向いた。
その先で長身を小さく縮めている2人にも、精一杯の笑みを浮かべてみせる。
そんな黒子に堪らなくなり、皆われ先にと駆け寄ろうとしたのだが、
「…え…?」
最初に黒子にたどり着き、その体を抱きしめたのは、まさかの緑間だった。
「…み、緑間君…?」
「……お前が無事で、本当に良かった…っ」
普段小言ばかりの彼が見せた素直な態度に、誰もがぽかんと口をあけている。
「…と、とにかく、オレもお前も、今後は更に人事を尽くすべきだと分かっただろう」
まわりから注がれる視線に気づいたのだろう、緑間は慌てて体を離すと、無意味にメガネのブリッジをいじりながら、もう片方の手を黒子の眼前につき出した――そこには、愛嬌たっぷりの顔をしたネコのパペットが。
「…とりあえず、お前もラッキーアイテムを持ち歩くことから始めるべきなのだよ」
「…やっぱり、ミドチンはミドチンだよねー」
「…ほんと、これがなければけっこうな強敵な気がするのに…」
「…うん、緑間っちには、そのまま変わらずにいて欲しいっス」
「…な、何なのだよお前ら…っ!」
呆れと同情の眼差しを向けてくる3人に、緑間はムッと眉を寄せた。
「…みんな…」
文句を言い合いながら騒ぐ彼らに、黒子は胸にあたたかなものが溢れてくるのを感じた。
それこそ涙が滲みそうになって、気持ちを紛らわせようと、渡されたネコのパペットを右手にはめる。
「…ね、みんな…っ!」
珍しく大きな声を張り上げ、皆の注目を引きつけてから、
「…ありがとう、みんな大好きです……だから、もうケンカはやめてほしいニャン」
――大好き。
素直な気持ちを言葉にする気恥ずかしさを誤魔化すように、パペットの口をぱくぱくと動かしてみせた。
「……き、きゃああああああぁぁぁぁぁぁ…っ!」
すると、その直後あがった悲鳴――主はもちろん、桃井だ。
テツ君…テツ君のニャンって…っ!そう呟きながら、湧き上がる感情を必死に抑え込もうとしているのか、自分で自分を抱きしめている。
「…も、桃井さん…っ!?」
どうしたのかと、助けを求めるように視線を周りに向けるも、皆それどころじゃないといった様子だ。
「…く、黒子っち…か、かわ…っ!」
黄瀬などは、膝をつき拳を床に叩きつけながら、身悶えている。
「…本当に、お前と言うやつはどれだけ…っ」
「…諦めようよ、これはもう、どうしようもないっしょー」
真っ赤な顔を手で必死に覆い隠そうとしている緑間に、呆れたように言いながらぐりぐりと黒子の髪をかき混ぜている紫原。
「…ほんと、おかしな人たちですね…」
凡人のボクには、やっぱりよく分かりませんと黒子は小首を傾げる。
的確なツッコミを入れられるだけの余裕がある人間は、残念ながらその場にはいなかった。




「…ま、そう大変な事態にならずに済んで、良かったというべきかな。何より、黒子の心と体に傷が残らなかったからね……そうだろう、青峰」
廊下で騒ぐ彼らから僅かに離れた場所で、赤司は軽く肩を竦めながら、背後を振り返った。
「…後は、お前次第だ」
謝罪してなかったことにするにしろ、このまま想いを貫き通すにしろ、とにかく最後まで責任はとってもらおうか。
「…あいつに手を出したんだ、当然だろう?」
「…何でお前がそこまで知ってんだよ、薄気味わりぃ…」
不快そうに眉を寄せ睨み付けてくる青峰に、赤司もまた浮かべていた笑みを消し、強い視線を返した。
「…黒子を求めるなとは言わないさ。が、試合や練習に悪影響を及ぼすことは許さない」
「…分かってる」
「…分かっているなら、自分のものにできない苛立ちを、黒子に向けるのはやめることだ」
「……くそっ」
全て見透かされていることに舌打ちしながら、青峰は赤司に背を向け歩き出した。
向かうのは勿論、仲間に囲まれた相棒の元だ。
謝れば、黒子が許してくれることは分かっていた。
『…いいんです。ボクのことを心配してくれてのことだと、ちゃんと分かってますから』
そう言って、いつもと変わらぬ笑みを返してくれるだろう。そしてまた、いつも通りだ。
――だが、本当にそれでいいのだろうか?
昨日表に現れた黒子に対する凶暴な欲望は、今も確かに青峰の中に存在するのだから。
「……さて、これからどうなるのかな…?」
穏やかな現状に差し込む、ほんの僅かな崩壊の兆し――それがこの先みるみる内に大きくなっていくことを、流石の赤司も見通すことはできないでいた。


外は強い陽射し。彼らが帝光中で迎える、2回目の夏が間近に迫っていた。




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