ただ、"好き"なだけ



それは雅様の専属使用人になって参ヶ月半が過ぎたころの出来事だった。
その日は何故か朝からとても不機嫌で、朝の挨拶をしても目も合わせてくださらなかったし、お声も掛けてくださらなくて憂鬱な溜息ばかりが零れて落ちていた。昨日までは確かに普通…だったと思う。とくに失敗もなかったし、普通に話してくださっていた。なのにたった数時間の間に私は雅様を怒らせる何をしてしまったのか…考えてみても何一つ浮かびはしなくて。溜息ばかりが増えていく。



「アンタ、また雅様を怒らせるようなことしたの?」

「…違うわよ、…何もしていないと、思うの。いくら考えてみても私自身が身に覚えがないんだもの…!」

「…はぁ、けれど朝の雅様…結構怒っていらっしゃったみたいじゃない。アンタが気づいてないだけで何かやったのよ、…たぶん」

「たぶん、ね…。そうだと思う…きっと私が何かしたのよね…」



雅様が不機嫌になるのは珍しいことではない。
好き嫌いがハッキリしている方だから少しでも気に食わないことがあればすぐに不機嫌になってしまう。専属として仕えるようになって少しずつではあるけれど分かるようにもなって、出来る限り不愉快な気持ちにさせぬよう努めてはきているけれど…空回り…なのは自分で認めるしかなくて。時間を見てみれば雅様がご帰宅する時刻は参拾分程が過ぎていたけれど戻られる気配はない。もしかして帰られるのが嫌になるくらい私はあの方を怒らせているのだろうか…。やっと専属の仕事も分かるようになってきたというのに外されてしまうかもしれない。ううん、それどころか…解雇という最悪なこともありうる。
もちろんそれは嫌だ、辞めたくない。
けれどそれ以上に私の心を深く締め付けるのは…雅様に嫌われたくない、そんな使用人である自分が抱いてはいけない気持ちだった。



ご帰宅予定時間から壱時間余りが経過した頃、あと少しでお屋敷に着くという知らせを受け、逸る気持ちで雅様をお迎えする為に玄関先で右往左往する自分に、たえちゃんは呆れ顔で深い溜息を吐きながら、しっかりしなさいよ!、と少し激しい口調で注意を促すと屋敷の中へと戻っていった。気持ちを落ち着かせるため深呼吸を繰り返し心を落ち着かせる。すると黒塗りの見慣れた自動車が屋敷に入ってきた。雅様が乗車するお車だ。ゆっくりと自動車は私の前で止まると、宮ノ杜家の人間らしい優雅な動作で車を降りる雅様に慌てて駆け寄った。



「お、お帰りなさいませ!雅様。鞄を、お持ちいたしますね」

「……………」

「あ、あのっ…」

「…何、鞄…持つんじゃないの?」

「はっ、はい!お持ちします!」




ああやっぱりだ。
雅様はまだ怒っている、しかもその原因は身に覚えはないけれど、私、らしい。
いつになく冷たい態度である雅様に花が萎むような感覚で心が委縮していく。
鞄を持ち、前を歩く雅様を見つめる。
やっぱり嫌われてしまったのだろうか…もう私はいらない存在になっているのだろうか。怒らせた理由がわからないから謝ることも出来ない。きっと謝ったところで、何に対して謝っているのかを問われる。けれど身に覚えがないのだから何に対してだと問われたとしても、その答えは解らないのだ、私には何一つとして。



小さなため息が零れて落ちる。どうして上手くいかないのだろう。自分では努力しているつもりでも空回りばかりしてしまう。
怒らせるつもりなどないのに、どうしてこうなるのだろう。




「ま、雅様…あのっ」

「……なに」

「っ、…いいえ…なんでも、ありません」

「………あっそ」




何か言わなきゃ、と思うのに言葉が出ない。
雅様のことが解らなくて。
背中をただ見つめていると、心が、ぎゅうっと締め付けられる。
痛くて、苦しくて、泣きたくなってしまうけれど必死にそれを堪えて顔を上げれば、立ち止まって私を見下ろした雅様がいた。その瞳に映った自分はなんて滑稽で、情けない姿だろう。そんな自分の姿を見られているのかと思うと、ますます泣きたくなってしまう。




「雅、さま…」

「……お前、昨日の夜、…随分と楽しそうに話してたじゃん、博と」

「…え…?」

「髪なんか触られてさ、恥ずかしそうに笑って…バカじゃないの」

「あ、あの…、」

「お前は僕の専属なんだから、博のバカと仲良く話してるとか不愉快なんだけど、何、それともお前は僕よりも博みたいなのがいいわけ?」

「ちっ違います!そんなことないです!私は、雅様にお仕えすると誓っています、それだけはありませんっ!」

「っ、なら、お前は僕だけを見てればいいじゃん!なんなのさ、なんなんだよ、お前っ」




怒気を含んだ声が、一気に私を攻めたてていく。
けれどその声には少しばかりの違う何かがあるように思えて、ダメだとは思ったけれど気づけば雅様の手を握る自分がいた。少しだけ震えている私より大きな手が、握った瞬間、小さく更に震えた。




「…藪入りしたあの日、私は誓いました。ずっと雅様の専属で居続けると。ずっとお傍にいると誓いました、その言葉に嘘や偽りはありません。…それだけは、信じてくださいませんか?」



この方に嫌われたくない。
お願いだから、嫌わないでください。仕えるべき方にこんな想いなど許されないことなど承知しています。けれど、どうか…好いて頂かなくてもいいから…嫌わないでください。お傍にいさせてください、どうか―――。
わたしのそんな願いが届いたかどうかは解らない、けれど、ふっと力を抜いた雅様は私より傷ついたような表情を見せて、小さな声で、「…信じてもいいけど」と仰ってくれた。




「……これ、お前にやる」

「…え、あの、頂けません!千富さんに叱られてしまいます!」

「っ、いいから受け取って!黙ってればいいじゃんこれくらい!」

「し、しかし…」

「…受け取らないなら専属から外して解雇してやる。まぁ、お前がそれでいいならいいけど?」

「…ずるい、です…」

「使える手はなんでも使わなきゃね、お前と違って僕は頭がいいし」




仲直り(?)をしてお部屋へと入ると帝國百貨店の包みを貰った。中身は確認していないけれど小さくて硬いもののようだ。使用人は本来、このようなものは受け取ってはいけない。千富さんにバレたら大目玉を頂いてしまうだろう。けれど壱枚も弐枚も上手な雅様はどう言えば私が受け取るか解っていて。解雇すると言われてしまえば…受け取るしかないわけで。開けてみろというお言葉に恐縮しながら包みを開けてみれば。そこに入っていたのは綺麗な細工が施された髪を留めるピンだった。




「ま、雅様これ…!」

「べっ、別に買ったわけじゃないから!それ、拾ったの!ゴミなの、ゴミ!だからゴミであるお前にピッタリでしょ!」

「…ですがこれ帝國百貨店の…」

「っ、うるさいな!そんなことどうでもいいでしょ!気に入ったか気に入らないかどっち?!」

「は、はい!…とても気に入りました!…ありがとうございます、雅様。大切に、します」

「…ふんっ、最初からそう言えばいいんだよ」



雅様はそう言って少し頬を染めて顔を背けた。それを見つめて、思う。
ああ私は、この方が好きなのだと。もちろんこの想いは許されはしないけれど、せめて、どうか心の中で想うことだけは許してほしい。我儘で、好き嫌いが激しくて、けれど、不器用で優しいこの方を想うことを。綺麗な細工がされたピンを髪に挿して、それを雅様に見せると。満足そうに微笑む雅様は、「似合うじゃん」と言葉をくれた。
それだけで、さっきまでの苦しさも痛みもなくなって、ただ心に宿るのは、あなたへの想い一つだけだった。




>>>あとがき







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