「     」


唇が上下左右に、生温く動いた。その言霊はとある喧騒に消え。
春だというのに、何処にあるかも解らない"此処"には大雪が未だに溶けず降り積もっていた。












この手にあったぬくもりは既に無く。変わりにまだ冷たいそよ風がその手を包んでいた。
季節は目まぐるしい速度で変わっている。否、自分の歩むスピードが遅いだけかもしれないが。
通り過ぎていく人込み。恋人たち。戯れ。

今年は例年に比べ、比較的寒いのだという。首元にぐるぐる巻いた大きなマフラー。どうにか体温を保っており。
あまりにも雑踏がうるさいので耳もとにはイヤフォンを。外でヘッドホンはあまり音を大きく出来ないし、大きいから。
鼓膜に届くのはあの人の声ではなく、名も知らない誰かの音。

MP3に前は在った筈のとあるフォルダは全て消え、彼と出会う前へとリセットされていた。
もたれかかっている、川の墜落防止用の黒い幾何学的な模様をした鉄棒。ふと、花弁が髪にひとひら。
気づいて反射神経で上を見上げてしまった。そして、眼に映りこんだもの。
桜が舞い散って舞って待ってと時を急ぐ。其れらは川に心中し、せせらぎが其れを最果てへと案内する。
たくさん、無駄に立てられた無機質なビルたち。それに平行して並び、他の建物とは違い清潔感を漂わせる大きな、赤い十字架を背負った病院。

ふわり、ぱさぱさと風に揺られるはサッパリと堕とした短い髪。
その冷ややかな色は彼自身の内を今は悟っているようであった。

確かこの辺りならば、あの病院だ。そう彼の今までの人生情報がそう告げる。心拍数が、重く想い。ずるずると、底なし沼に落とされるような感覚が身体を支配していく。
ふるふると、わけのわからない寒気に襲われる。

「――、っ……馬鹿か俺は」

まだ完全に支配されていない口元が、冷えた唇が吐き出す。ひとりごと。自己嫌悪。自分への罵倒。
息が荒ぶる。肩が上下に揺れてろくに呼吸さえ出来ない。

ただ、友人が告げた言葉が耳なりとして響いて。
それを掻き消すように想いっきり頭を振る。ぐらぐら。頭の中がごちゃまぜになる感覚がした。



気づけばその場にしゃがみこんで、ついに鼓膜は震えるのを止めた。








からん。落ち着いた自然色をテーマにした喫茶店が目の前に広がった。
そして気づいたように駆け寄ってくる従業員のひとり――親友。

「あれ、風丸髪切ったの」
きょとん。まあねー、と親友に笑って言う。
抹茶色の長い彼の髪が揺れる。何時見ても雰囲気からお花畑だと感じてしまう。
「うん、……何と言うか」
「何だ?」
「いやー、うん。我ながら悔しいほど男前だぞ、我が友人よ」
「あー……」
そう言ってくしゃくしゃと頭を触る彼。其の眼は新しい玩具を貰った子供のように輝いており。

「ふがーっ。でもこりゃ凄い事なってそうだなー」
やれやれ、と笑う彼。そして全く言っている意味が解らない自分。
「大学の風丸ファンクラブが」
「がぶふっ!?」
平然と言ってのける姿にその言の葉に。全ての意味で手元のコーヒーを噴出しそうになった。ああ、危ない危ない。
「っ、緑川冗談よせ。俺まだ入学したばっかだぞ」
「いやあ…、風丸のことだからすぐ出来っしょ?――あ、もう出来てるんだっけ」
「おい待て。どっから聞いたんだ其の情報。つか俺何も知らないんだけど!」
「そりゃあ風丸は鈍感だから」
だからってそれは無いと思う。風丸は再びそのコーヒーを喉に通す。コーヒー豆の香りが唯一彼の心境を和ませた。
「……つーかお前大学行ってないのに何でそんな事知ってんだよ」
一番の疑問。躊躇いもせず彼に投げかける。
「ああ、それは前玲名が呆れてたから。」
「…呆れられても俺が困る。」
「まあ玲名らしいけどねー」
あはははと笑う彼。相変わらず彼は笑顔が似合うと頭の隅。


ばこんっ。


鈍く鳴り響いた音。当事者も、全く関係の無い自分でさえ唖然とした。

「仕事やれグリリバ」
「っつー!だからってフライパンで頭叩かないでよ晴矢っ。常人なら今頃死んでるよ!そしてグリリバ言うなっ」
「お前常人じゃないのか」
がやがやと、客のいない今の時間帯に繰り広げられる漫才トーク。お前等どっかの事務所にでもオーディション行ってみればいいのに。そう言えば今度は緑川にチョップされた。地味に頭が脳震盪を起す。

こうやって笑いあったり、馬鹿しあったりする日常。ほんとうに、あの人が自分の中から消えたら何も変わらなかった。そう、前自分が恐れていたもの。彼が自身の中に居なくても、自分はもう何も感じない。――そう、何も。いや、感じてしまっては駄目なのだ。だから髪だって切った。彼が愛撫していた自分の一部をころした。


がやがやぎゃーすかぎゃーすか。絶えることなく、逆にどんどんとヒートアップしていく口論と言う名の喧嘩。そろそろ止めようかと身体を動かした時。


「貴様等うるさいぞ。せっかくの儀式が中断しざるおえなくなっただろう!」

ぱたぱたと部屋の隅の階段から降りてきたのは、ぼさぼさの寝起きのような髪に、これまた寝起きのようなスエットにちゃんこをを来た男子。右手には蜜柑装備。

「っるっせーよこのニート!ちったあお前も仕事しやがれ。あと儀式とかどうせゲームやってんだろ」

「っふ、貴様の蟻の様に小さな脳では理解しがたいものだよ」

「今すぐこっち来いやごら。その寝癖、二度と寝癖つかねえようにしてやる」

「……へえ、君がこの大魔術師の私をつぶすとでも?」

また別のところに火が移り、それは先ほどのより濃く、温度は数倍以上高く。

「そう言ってる晴矢が一番仕事してないよね。」

お茶らけて言う緑川。それは彼のある意味最後の言葉であった。






「ただいまー……あれ、何か妙に静かだね」
からんと戸を鳴らして扉を潜ってくるは、その紅蓮にも似た紅い髪。時たまぴょっこりと跳ねた髪が可愛らしく。いや、同姓に可愛らしいというのも少し違う気が。そんなことを風丸の思考が考え込んでいた。

「あれ、風丸君来てたんだ。」

「ん、まあ。そう言うお前は今学校終わったのか」

「午後は俺の学科関係無かったしねー」

そう笑う彼。この人間にしろなんにしろ、全くこの喫茶店の人間は笑顔が絶えない奴等ばかりである。
すると、眼に映るはその鞄。少し大荷物というところに小さな疑問を覚える脳。

「……にしても結構な荷物だな」

「今日はちょっと多い方だからね。実習もあったし」

へえ。そう感嘆を漏らして、興味が沸いたので彼の鞄の中を見させてもらう。鞄は二つ有り、実習の道具用鞄ともうひとつ、テキストなどの講習用の鞄。
しかし、更に風丸は唖然とする。

「……すっげ、これ科学分野じゃないか…。」
しかも特に高度な。風丸が大学にて選択していないものまで。
「美容師ってのは言い換えれば人の"身体を弄る"っていうもんだしね。仮に頭だけだとしても、皮膚、其れに伝わる神経やら人骨のノウハウとかは絶対教えられるんだよ。他にも元素とかそう言うのは勿論、化学変化だったりとか理系は大体。髪とか皮膚だって人それぞれ特徴があるから、"この人に合うのはコレ"とか仕舞いには自分で考えなきゃいけないときあるし」

ずらつらと喋る彼の唇。ペラペラとそのテキスト内容を理解しようと必死になる風丸。
そんな姿を見て、あ、と声を漏らす彼。

「君ら今まで何してたの?」

散々喧嘩という戯れをしていた奴等に向き直った。

「緑川も」
「い、いやーぁっ、色々あったんだヒロト。ね、ね風介、晴矢」

基山ヒロトの鉄槌が下るまで、あと3秒。






がやがや。彼の魔法の一言(俗に恐喝とも言う)が彼らの思考回路を一転させた。風介に至っては、いても行動が遅いと二階の自室に強制帰還させられた。
そして先ほどとは嘘のように賑わう店内。忙しいほど。というかコレこそ魔法か何かではないかと思うひとひら。

そして現在風丸とヒロトは窓際の席に居た。
「そう言えば髪切ったんだね」
「それ緑川の第一声と同じだ」
「ほんと?」
彼は彼で笑む。そして気づけば自分の髪を触っており。
「行動もほとんど同じ。……お前ら本当はほんとの兄弟だったりしてな」
「んー、でもずっと一緒に暮らしてたらこんなものじゃないかなあ」
「そりゃ凄い」
「切るんなら言ってよ。俺喜んだのに」
「一人前になってからな」
「えー」
そう言いながら触られる頭。あの人とはまた違う掌が自分を愛撫する。
「あれ、風丸君照れてる?」
「な、何でそんなこと」
「頭触られるの苦手?」
「………ま、まあ触られる事はあんま無いけど」
言ってやれば「よしよし」と犬みたいに頭をなでられた。あれ。
俺は犬じゃない! と一喝入れてやったら笑いながら其の手を止めた。

「――あ、」

彼の手元でくるくると波紋を描く紅茶が、二人を映す。其れは映画のとあるシーンのようで。
「ちょっと話変わるけどさ、」

ぴり、何かが風丸の中で迸る音。同時に悪寒もせりあがってきた。……いつも、何か嫌な予感がする時に感じる何か。
「研崎っていたでしょ」
くるぐる。歪むコーヒーのうつせみ。歪んで壊れていく風景の中、自分はその問いに答える。
そう言えば彼には言っていなかった。彼と自分の前までの関係。ガラスが割れるまでの関係を。――でも、きっと。

「事故に遭ったんだって。」

ひとこと、ほつり。コーヒーを持つ手が一瞬、びくりと反応し、其れを悟られないように再び喉に通す。しかし思った以上にあまり呑めなかった。

「不慮の事故だったらしいよ。あともう少し救助が遅れていれば死んでたかもしれないってさ」

ぽちゃん。可愛らしく弾ける音。角砂糖が紅茶に吸い込まれて消えていく。まるで人の命のように。

「で、昨日目覚めたって。でも、」

波打つ何か。其れを気づかれないように、吐き出さないように、必死に喉の奥に押し込める。流し込む。この黒い液体に粉を消すように。

「自分の名前しか覚えてなかったらしい。全生活史健忘。つまり」

記憶喪失。
ぼろぼろと落ちていくシュガー。何事も無かったように、あったことも嘘のように。多分、きっと彼もこうやって全てを忘却していったのだろうか。そう考えたらとてつもない空虚感が自分を包んだ。この小包のように。

「………でも、そんなの俺に教えても意味無いだろ」

「まあ、そうかもね。確かに、ある意味君を傷つけた人間だから」

「……別に、そういうんじゃなくて」

あの最期の言葉を吐いた舌が、またうつらずらと並べる文字の羅列。嘘の繰り返し。

「この近くの病院らしいよ。どう、行ってみたら?」

投げられたボール。けれど今はそんなもの、受け取れるはずが無かった。
後ろで幸せそうにしているカップルの会話が時折耳を突き刺す。

「……そう言うヒロトが行ってみたらどうなんだ。」

一応知り合いだろ。そう言えば、こう言う。

「俺は別に。それよりももっと大切なひとが見舞いしなきゃ意味ないでしょ」

ほら、やっぱり知ってやがった。なんだかんだ言って目の前の人間は他人を誘導したりするのが上手い。頭がいいから、口実やらなんやらわかるのだ。それに彼の人脈を使えばすぐそんなちっぽけなこと、わかるはずで。

かたりと椅子が動く音。こんなところじゃそれは何の意味も持たないただの雑音で。

「行ってあげるの?」

「お前等二人とも冗談が好きみたいだな」

そう言って歩きだす。ひとり。彼に導かれない自分の道を。
そして振り替えずに、ひとりごと。

「――たぶん、そういうことだったんだよ。どんな数式でも簡単な事」




俺とあの人はどちらにしろ"別々になる"っていうかみさまのお告げ。




春にも関わらず、冬風はこの街を歩いていった。










後悔はあっても無い。
でもその答えは本当は二人とも影では気づいていたんだ。正直者の影だから。
ひとは別れを繰り返していきていくってよく誰かが云う。確かに、あってるとは思う。それで逢って離れての無限ループというものが人生なんだから。
でも確かにそれは否定のこころを揺さぶる言葉。特に恋人たちの間では。自分だってそのひとりだったから。
それでも、今最愛のひとが傍に居て、でもどちらにしろ最期は分かれるんだろう。しんで、わかれてしまうのだろう。
でも、そんなわかれかただったらきっと自分はうらやましく想う。だって、そんなのどちらもこの時が来るまで相愛してたってことなんだから。

でもやっぱり、どうあがいても無理なものは無理。道というレールを辿って行けばふたりの道はあってるはずが無いんだ。あくまでも、今こうやっていたりするのは、たまたまの"交差点"。完全に同じ道なんてこの世には無い。否、元々"絶対"という言葉も在り得ない筈の単語。

確かに過去となった今でも、それは自分が今まで歩んできたちっぽけな線路の上ではとても輝いて見えた。これを、幸せと呼ぶんだろう。
咲き乱れる華。ずっとこうだったら今の自分はどれだけ変われたんだろう。
現在立ってる駅からはいろんな線が発進しているというのに。毎回どの電車に乗ろうか迷ってしまう自分がいるんだ。人生は一回しかないから。この電車は一回しか、今しか乗れないから。
多分、だからだと想う。その迷いでどちらも両立できなくなってしまったんだ。


「さようなら」


そして自分はこの電車を選んだ。自ら、飛び込んで。
今の自分ではこれしか選べないから。こんな自分は愛舞過ぎるから。
貴方の駅を見渡して、そう決意した。感情なんて放っぽいて。
もし、また貴方と一緒の電車の中で寝れればそれはとても嬉しい事。でも、もうこんな継ぎ接ぎは駄目だから。
貴方と一緒に居るならば、ちゃんとした自分で在りたいから。




でも、また、また願ってもいいのならば自分は――。




そしてふたりは反対の駅を逝く。



(ありがとう。そしてまた来世で)