草木をかき分け、道なき道を進み、漸く辿り着いた場所はもう誰も住んでいないようなボロボロの屋敷だった。炭治郎を筆頭にここまで辿り着いた彼らだが、この異様な空気に眉を顰めていた。
「血の匂いがするな……。でもこの匂いは――」
「えっ? 何か匂いする? それより何か音しないか? あとやっぱり俺達共同で仕事するのかな」
「音?」互いの主張の齟齬に頸を傾げたが、それもつかの間。
がさり、と草むらにあたった音がして振り返れば二人の子どもが身を寄せ合いながら怯えたようにこちらを窺っていた。「子どもだ……」「どうしたんだろう」炭治郎と善逸が顔を見合わせ、不思議に思っているとなまえがゆっくりとした足取りで子ども達に歩み寄る。
「この手をよ〜く見てて?」
見せびらかすように手のひら、手の甲を子ども達に注目させる。
ぎゅっと手のひらを握りしめ、「種も仕掛けも御座いません」握りこぶしを揺らして開けば――
「わぁ! お花だぁ!」
――白く美しいお花が姿を現した。
よかったらどうぞ。優しい眼差しに子ども達は気を許したのかそれを受け取る。すん、と匂いを嗅げば酷く安心するような甘い匂いがした。
「それは胡蝶蘭というお花でね。花言葉があるの」
「花言葉?」
「そう、花言葉!」
楽しそうにすらすらと胡蝶蘭について語り、子ども達の心を開かせた話術もそうだが、いつもの固い敬語口調が砕けたことに炭治郎達は驚きを隠せなかった。なにより驚いたのは普段の彼女の奥底からは冷たい「音」「匂い」がするのに、今だけはそれを一切感じさせない。それはまるで優しくて、あたたかくて、日だまりのような――。
「――それで、何かあったの? そこは二人の家?」
優しい空気感を崩さずに本題を切り出したなまえ。ひゅ、と喉の奥から怯えの音が鳴ったが、すでに彼女に気を許している子ども達はゆっくりとこの場に居る理由を話しだした。
兄妹の話をまとめるならこうだ。
夜道に二人の兄と一緒に歩いていたら二人には目もくれずに兄を連れ去ったそうだ。兄の血の跡を辿りここまで来たが、中に入る勇気が湧かずなまえ達が到着するに至るまで草陰に隠れていた。
「大丈夫だ。俺達が悪い奴を倒して兄ちゃんを助ける」
「ほんと? ほんとに……?」
「うん、信じて」
炭治郎となまえはそれぞれ子ども達の頭を優しく撫でる。溢れ出る涙を拭ってやれば子ども達は安心したように尻餅をついた。
「炭治郎」善逸は先ほどから耳を押さえながらじっと屋敷を見据えている。
「なぁ、この音何なんだ?気持ち悪い音……。ずっと聞こえる。鼓か? これ」
「音?」炭治郎にはそんなものは聞こえず、首を傾げるばかりだ。
一方、なまえは屋敷のある一点を睨みつけていて鞘に手を添えて構えを取っていた。
「何か来る」彼女がそう呟いた瞬間、耳をつんざくような大きな鼓の音が鼓膜を揺らし、音に合わせて男性が窓から飛び出してきた――いや、投げ出された。男性は着物・顔・手足――至る所が血まみれで鬼に手厚く歓迎されたことが窺える。
「大丈夫ですか!?」子ども達に目を塞いで見ないように指示した後、炭治郎は素早く男性に駆け寄り様態を見る。だが、彼は医者でも医学の知識があるわけでもなく、瀕死の男性の命を助けることはできなかった。
炭治郎に悔しさが募った――その時。
「グォオオオオ!!」
化け物の咆哮が開いていた格子戸との隙間から脅えあがる。
此処に鬼が住み着いている確かなる証拠だ。炭治郎と善逸は「匂い」「音」でそれを感じ取った。
「に、兄ちゃんじゃない……。兄ちゃんは柿色の着物を着てる……」
子どもの否定により、新たな事実が発覚する。この屋敷には何人もの人達が捕われていることだ。一刻を争う事態に彼らは肩唾を飲み込む。急がなければ助からないかもしれない。だから――
「なまえ! 善逸! 行こう!!」
**
「炭治郎……。なぁ、炭治郎」
屋敷に入ることを拒否していたが、炭治郎に般若のような顔を向けられ、なまえには恐怖の笑みで眺められ、この二人に逆らってはならないと感じた本能に従い炭治郎となまえに着いてきた善逸。「守ってくれるよな? 俺を守ってくれるよな?」と情けない声を出して震えながら二人の後を追っている。
「……善逸。ちょっと申し訳ないが」
先陣を切っていた炭治郎が善逸に顔を向け、前の戦いの傷が癒えていないと眉を下げながら彼に告げた。善逸は目玉が飛び出すのではないかという程目をかっ開き、死んでしまうと何度も何度も泣き喚く。
「そそそそそそうだなまえちゃん!」
「はい。なんでしょうか」
「なまえちゃんなら俺を守ってくれるよね!? ね!?」善逸はなまえにぐっと顔を近づけ問いかける。
「先に謝罪しておきます、申し訳ございません」
「えっ……え"え"え"え"ぇ"ぇ"え"!?」
どうしてかと再び問いかける善逸に彼女は自分も前の戦いで利き手首が折れているのだという。
「それ大丈夫なの!? 大丈夫じゃないよねぇ!?」「痛み止めは飲んでいるので大丈夫ですよ」「そういう問題じゃないってぇええ!」眉を寄せながらなまえの手首をぺたぺたと触り、痛くない? 痛くない? と問いかける。その都度彼女は大丈夫ですよと返答するが、善逸は心配でたまらなかった。
なまえちゃんは外で待ってなよ! そう声を掛けたがなまえは平然とした笑みで彼を見るだけだ。
「ほんとに大丈夫なの……?」
「はい。平気です」
「む、無理しないでね……?」
「ありがとうございます。我妻くんは優しいですね」
にっこり。なまえのいい顔に女子顔負けの嬉しい悲鳴をあげ、善逸は体をくねくねさせる。
女の子に微笑みかけられちゃった!! 脳内が一瞬でお花畑に変わる善逸だが、なまえの笑顔は珍しいものではない。
「うふふ! このままなまえちゃんとけっこ――」
「駄目だ!!」
「ギャ――ッ!!」
驚き絶叫する善逸に耳を塞ぐ一同。
「お前急に大声を出さないでくれよ! あと何が駄目なんだよ!! 俺となまえちゃんは婚約者――」
「入ってきては駄目だ!!」
善逸の被害妄想には耳も傾けず、焦ったように叫ぶ炭治郎。彼の視線の先は善逸のずっと奥にあり、それを辿れば先ほど外で待っているように指示した子ども達が何かから逃げるように走ってきているではないか。
「お、お兄ちゃん! あの箱カリカリ音がして……」
「だ、だからって置いてこられたら切ないぞ。あれは俺の命より大切なものなのに……」
屋敷に入る前、炭治郎は背負っていた木箱を子ども達に授けていた。何かあっても守ってくれるものなのだと告げて。
「二人は危ないから戻ろうか。おねえちゃんが送ってあげるよ」
「う、うん……」
なまえが二人に手を差し伸べた――その時だ。
床が軋む不気味な音が彼らの耳に到達する。聴覚が人一倍敏感な善逸は誰よりも大きな反応を見せ、それがアダとなり炭治郎と女の子と鼓の音に合わせて離れてしまった。
「死ぬ死ぬ死ぬ死んでしまうぞ!! これは死ぬ!! 炭治郎と離れちゃった!!」
両手を頬に当て咽び泣く姿に「まあまあ、落ち着いてくださいな」と宥めるくるいばな。
「落ち着けないよォ……! 助けてなまえちゃん!!」
「そういうときは深呼吸です。心を落ち着かせる深呼吸の方法があって――」
「てる子! てる子!!」離ればなれになってしまった妹を危ぶみ、辺りを見回しながら姿を探す男の子。善逸は「だめだめだめ大声出したらだめ! ちょっと外に出よう!」と男の子とくるいばなを引っ張って玄関へ向かおうとするが、男の子の饒舌な毒により心から吐血した。
「違うんだよ! 俺じゃ役に立たないから人を……大人を呼んでこようとしているんだよ!!」
子どもだけではどうにかできる問題ではないと言うが善逸とくるいばなは剣士だ。戦う武器も技術もある。
「我妻くん、引っ張らないでください」折れている手首を掴まない辺り、彼の優しさが垣間見えるが、みっともないものはみっともない。
「いやだあぁぁ! なまえちゃんも一緒に出るの! 君手首折れてるんでしょ!?」
「確かに折れてますけど……戦えますよ」
「手首折れてたら刀握れないじゃん!! おおお俺を守れないよォ!」
スパァァアン!! 勢いよく玄関の格子戸を開けたはいいが、そこにあるはずの景色が存在しない。
「嘘だろ嘘だろ嘘だろ!? ここが玄関だったのに! 外は何処に行ったの!? この戸が――」
他の出口を探すべく辺りをキョロキョロと見回す。最初に目についた襖に手をかけ、激しい勢いで乱暴に開ければ。
「化ケモノだァ――ッ!!」
獣の頭の少年が鼻息を荒くしながら突っ立っていた。彼は善逸の叫び声を聞くと地面を蹴って部屋から飛び出した。
「ギャアァァ!!」善逸は身を屈めて咄嗟に突き飛ばされるのを防いだ。その後男の子――正一になんとも言えないような表情で見つめられ、もはや彼の特技である雄叫びを上げながら泣き喚くのであった。
**
「嫌ぁあああ!! 何でそんなこと言うのォ!!」
善逸はなまえに縋り付いてまたもや泣き喚いていた。原因はなまえのとある一言。
――二手に分かれましょう。
その言葉だった。
「正一くんは我妻くんに任せます。……あの、離してください」
「嫌だよォ!! 俺は物凄く弱いんだぜ!? くるいばなちゃんが離れたら誰が俺達を守るんだよォ!!」
「簡単な話です。我妻くんがご自身と正一くんを守れば良いのですよ」
そんな無茶な!! 善逸は顔を歪めて腰に回していた腕に力を入れる。なまえが優しく善逸の腕に触れて解こうとすると彼はより一層力を込めた。
「はぁ……。困りましたねぇ」
頬に手を当て、溜息を吐く彼女に「なんかごめんねェ!!」と謝罪する善逸だが、腰を離す気はない様だ。
「分かりました」
「へっ」
前言撤回してくれるの!? 嬉しさからか込めていた力が緩み、なまえの顔を見上げる。目を細め、口元を綻ばせる彼女に感極まって飛びついた。
「なまえちゃんなら分かってくれると思ってた!!」
背中に手を回してぎゅぅうと抱きしめるとなまえは善逸の背中を少女の手にはそぐわない、乾燥した手でぽんぽんと叩く。
「ありがとうなまえちゃん!!」
「何がですか?」
「だって一緒に行ってくれるんでしょ!?」
何を言っているのですか? なまえは不思議そうに首を傾げる。その真相が知りたく、背中に回していた手を解いて彼女から離れる。なまえの頭の上には疑問符が浮かんでいた。
「え……? ち、違うの?」
結局なまえに言い負かせられた善逸は彼女と別れ、正一の手を引きながら屋敷の中を恐る恐る歩いていた。
息は乱れ、汗を掻き、震えながら歩いては時々にやにやと顔を緩ませる様に正一が思わず「すみません、善逸さん」と声を掛けると、善逸は後ろにすっ転び、大げさなほど悲鳴を上げた後正一の腰に腕を巻き付けた。
「合図合図合図。合図をしてくれよ。話しかけるなら急に来ないでくれよ。心臓が口からまろび出るところだった。もしそうなっていたら正しくお前は人殺しだったぞ!! わかるか!?」
理不尽な言い文句に咄嗟に謝罪の言葉を口にし、善逸の汗・息・震えが酷いと訴えれば「なんだよォ! 俺は精一杯頑張ってるだろ!」と必死の形相で返ってくる。
「いや、申し訳ないんですけど俺も不安になってくるので……あと、にやけるのがちょっと」
「やだごめんね!」
でもな! でもな! と目からぽろぽろと涙を流しながら鬼に見つからないように静かにするのはどうかと提案すれば。
ガサ、と後方の床下から物音が鳴る。振り返れば長い舌をじゅるりと舐め回している四つ目の鬼が床に這いつくばっていた。
「ぐひ、ぐひっ。子どもだ……。舌触りが良さそうだ」
「ほらご覧!! 出たじゃない!! 出たじゃない!!」
すかさず正一の手を引き、走り出す。甲高い声を出しながら自分たちはきっと美味しくないから食わないでくれと懇願する。しかしそれが鬼に通じるならば最初から人食い鬼など存在しない。案の定鬼は食べてみないとわからないじゃないかと四つん這いになりながら追いかけ回し、彼らを捕らえようと舌を伸ばす。情けない悲鳴をあげながらも善逸は正一を守るように引き寄せ、鬼の攻撃をぎりぎりで避けた。鬼の舌は近くにあった水瓶に当たり、ぱっかりと真っ二つに割れる。
「ありえないんですけど!!」
前を見ていなかったせいか、引き戸にぶつかった。今まで動かしていた足もそれを機に力が抜ける。
「善逸さん立って!」善逸の手を引っ張り、立たせようとするが彼の恐怖の八割が足に来てしまい、正一の願いは叶わなかった。
「おおおお俺のことは置いていけ逃げるんだ」
せめて正一だけでも。その思いからこの場を離れるように促したが、正一はそんなことはできないと目を潤ませながら必死に縋り付く。正一に戦う手段はなく、今頼れるのは情けなく泣き喚く彼しかいない。お願いだから立ってと願い求める正一ともう立てないと善逸は首を横に振った。
気がつけば鬼は死んでいた。善逸の足下で崩壊していく鬼の頸に彼は思わず叫喚する。
「急に死んでるよ何なの!?」
理解しがたい恐怖に身を守るように両腕を交差し、胸の前に当てる。自身に鬼の頸を斬った覚えはなく、まさかと思い当たりを見渡せば。
困惑した表情でこちらを見つめるの正一の姿を、善逸の瞳が捕らえた。
「ありがとう助かったよ〜! この恩は忘れないよ〜っ! こんなに強いなら最初に言っといてよ〜!!」
正一に抱きつき、やってもいない感謝の言葉にただただ困惑するしかない。
確かにこの目で彼が――我妻善逸という人物が目にも留まらぬ速さで鬼を仕留めたのだ。気を失って鼻提灯を膨らませてはいたが、正一を守る動作、剣技。さらに言えばこれ程頭の悪い人間に正一は出会ったことがなかった。
「――! そういえばなまえちゃん!」
あの子手首折れてるのに一人で戦えるわけがない、しし死んでしまったらどうしよう……!?
ハッとしたように廊下の方を見つめ、恐る恐ると覗き見る。右、左と様子を窺うが彼女の姿や鬼の姿は見当たらない。“音”はするのにまるで気配がしないのだ。
「と、とりあえず行きましょうか」正一は離ればなれになってしまった妹の身も考え、前に進むことを提案する。それに頷いた善逸は四つん這いの状態から立ち上がり、正一の手を握る。
耳にねちっこく纏わり付くような音が響いていた。
**
いくら走れど走れど、何処に進んでも一向に出られる様子がない。それどころか同じ場所をぐるぐると回っているように思える。気色の悪い“音”は彼の脳内を揺さぶって判断を鈍らせていた。
「あの……善逸さん」
「ぎゃああ!! 何!? 何!?」
前に言われたとおり、話しかける前に手を強く握って合図をしたというのに善逸はそれに気づかずに驚嘆の声を上げた。それに呆れつつ「同じ場所を回っている気がする」と伝えればやっぱりそうなのね! と甲高い声で同意した。
廊下を進むだけでは出られないのだろうか。そう考えた善逸はそろりと障子を開けるが其処に誰かがいる様子はない。
「炭治郎ー? #nane#ちゃーん? 出ておいで……?」
再び正一の手を引き、今度は早歩きで廊下を歩んでいく。
ポン、と鼓の音が屋敷中を駆け回った。刹那、視界は九十度回転する。
へあっ? と気の抜けた声が出た。そのまま重力に従い、体は垂直に落下していく。
「うああああ!!」
「――さん! 善逸さん!」
涙をぽろぽろと流しながら自らを呼ぶ声に、善逸はふと瞼を開けた。
何故そんなに泣いているのか問えば、正一を庇った際に下敷きになり、後頭部から血が出ているのだという。
「成る程ね!? 俺が頭から落ちてんのね!?」
「はい……」
後頭部に手を宛がえばぬるりとした感触が神経を伝って脳に伝達される。
このまま死んでしまうのではないかと慌てふためいていれば。目を覚ましたとき、一番に感じていたうるさい足音がじょじょに近づいてくる。
「猪突猛進!! 猪突猛進!!」
玄関の戸を突き破る勢いで――実際に突き破っている――姿を現したのは猪頭の人間。日輪刀を二つ所持していて、上半身素っ裸。鬼の気配がすると興奮した様子で炭治郎がいつも背負っていた木箱に突進していく。
「やめろォ――!!」すかさず善逸は木箱を背に庇う。
「この箱には手出しさせない! 炭治郎の大事なものだ!!」
「オイオイオイ。何言ってんだ? その中には鬼がいるぞォ。分からねぇのか?」
「そんなことは最初から分かってる!!」
善逸は生まれつき耳がよかった。寝ている間にされた会話の内容も聞こえていて気味悪がられたこともある。鬼の音は人間とは違う、気味の悪い音がしているのだ。箱の中から少し違えどそんな音がずっと鳴り響いていることに善逸が気づいていないはずがないのだ。
――でも、それでも。
炭治郎からは泣きたくなるような優しい音がした。今まで聞いたこともない、何処までも優しい音色。そんな炭治郎が鬼を連れているのは何か大事な理由があるのかもしれない――いや、きっとある。
善逸はそこまで考え、猪頭の人間を睨みつける。
「俺が……直接炭治郎に話を聞く。だからお前は、引っ込んでろ!」
善逸の顔に突如衝撃が伝う。つー、と鼻から溢れた赤いそれに、蹴り上げられたのだと理解するまでそうそう時間はかからなかった。それでも善逸は箱を守るように覆い被さり、少しでも中のものに衝撃が来ないようにと優しく包み込む。
音がもう一つ聞こえてくる。
水面に漂うような、ゆらゆらと安定した、、、、音――なまえちゃんだ。なまえちゃん、無事だったんだ。
「何をして、いるのでしょうか。あなたは」
「なんだお前!」
「わたくしは道化なまえです。そちらの金髪君と同期の。」
「……貴方とも同期ですが」そうなまえが告げれば猪頭の人間はお前なんか知らないと大声をはる。
「こいつはなァ!鬼殺隊のくせに刀も抜かずに戦わない弱味噌なんだよォ!」
木箱に覆い被さっている善逸を遠慮無く足蹴りしていく。
――水面が揺れた。それは大きく荒れて、大地を呑み込む。
「いい加減になさい」
「なまえ……ちゃん?」
普段発せられている鈴のような音とは違う、地を這うような声が、その場に居た人物達の鼓膜を揺らした。ずかずかと猪頭の人間に歩み寄り胸ぐらを掴む。そのまま猪頭の人間を背負い投げ飛ばす。
「あなたは鬼殺隊員でしょう? 何故彼が刀を抜かないか分かりますか」
「お前! よくも……ッ!」
地面がえぐれる勢いで猪頭の人間はなまえのところへ掛けだしていく。
「俺を投げ飛ばしたお前は強い! そんなお前を倒したら俺はもっと強いと言うことになる!」
暴論だ。
右、左、下――次々と襲ってくる攻撃をなまえはのらりくらりと余裕の表情で躱していく。その動きに規則性はなく、まるで水面のようだ。捌いては受け止め、流す。捌いては受け止め、流す――それを繰り返していくうちに猪頭の人間の興奮は最高潮にまで上る。
「お前は強い! だがな、俺様はもっと強い!!」
刹那、なまえの腹に触れられた感触と激痛が走る――蹴り飛ばされたのだ。
「く、はッ……。」彼女の口から空気が洩れる。
「なまえちゃん!」善逸は今すぐにでもなまえに駆け寄りたかった。しかし、今この場を離れれば炭治郎の大事なこの木箱が狙われてしまう。
なまえを倒したことに満足したのか猪頭の人間は目標を変更し善逸の元へ歩み寄っていく。
「威勢のいいこと行ったくせに、刀も抜かねぇこの愚図が!」下から善逸の顔を蹴り上げる。
「同じ鬼殺隊なら戦ってみせろ!」何度も何度も善逸を痛めつける。
それでも彼はその木箱を手放すことはなかった。
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