――それは、稲妻が落ちるのが如く。
老人に助けられ、恩返しのように最終選別に受けることになった我妻善逸は震えていた。
鬼だ。鬼に追いかけ回されているのだ。顔を酷く歪ませ、涙を滝のように流している。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――!」
足をもつらせながら走り回るその様は鬼にとって滑稽だ。弱者をいたぶりたいという感情が鬼を高ぶらせた。しかし、体を掴もうと手を伸ばせば我妻善逸は意外にもひょろりと避けてしまう。鬼はイラつくが空腹には逆らえない。
支配するのは今目の前の人物を食し、自分を満たしたいという欲だ。おいしそうには見えないが、相手は子ども。きっと舌触りがよくて血肉も若々しく、自身を満たしてくれるだろう。何せ、子どもと女は栄養価が高いのだ。じゅるり、と涎が口の端から溢れる。
――嗚呼、早く食べたい。
舌を舐め回し手を伸ばしながら欲を追い求める――その時だ。
「楽しそうですね」
一人の少女の声がりんとして響く。
止まる足、声の居場所を探ろうと見渡す視覚、聴覚。それらを嘲笑するかのようにひらりと木の枝から舞い落ちた。
「落ちたぁ!?」
我妻善逸は絶叫する。明らかに骨が折れてしまうような高さから落ちたのだ。
「危ないよォ!」目を覆い、現実から背ける。しかし、考えていたような想像の音は聞こえず、そろりと指の隙間から少女の姿を覗き見た。
――少女は、立っていた。
自分の足で着地し、お辞儀をしている。それはまるで昔息抜きにと恩師と見に行った芸者の様だった。
「大丈夫ですか?」
「へっ……?」
こちらを振り返り、心配する声に我妻善逸は目を丸くした。
赤く彩られた唇、二重で大きく柔らかな瞳。肌は白く、美しかった。――脳裏に浮かんだのは水面だ。水滴が面に落ちる、その瞬間。中心から広がっていきゆらゆらと漂うような、そんなイメージ。
「――美しい……」
思わず感嘆の声が洩れる。鬼も少女に見惚れていたのか厭らしく口角を上げた。
「それはどうもどうも。
道化師として姿を褒められるのは、とても嬉しい所存でございます」
少女はゆるりと口元を緩める。ゆっくりとした動作で足を交差させ、再び頭を垂らした。
「しかし、わたくしは鬼に厭らしい視線を投げかけられ喜ぶような変態では御座いません。そちらの方は鬼を切りもしないで
鬼ごっこを楽しんでいたようですが」
「えぇ!? 俺変態扱いィ!?」
横目で流され、くすりと笑みを溢す様はとても愛くるしいが、それ以上に馬鹿にされるような発言に我妻善逸は絶叫する。姿が美しいと感じていたが故に、この毒は効いた。胸を押さえて泣き喚く姿に少女は再び口元を綻ばせたが、それも一瞬。体ごと顔を鬼に向けると刀を抜いた。
「そんなひょろい体で俺様に勝つつもりか? 女ァ、それは自信過剰だろ!」
高らかに笑い声を上げる鬼。我妻善逸に至っては恐怖で身を固めている。
――下がってて。
少女は小さな声で呟くとゆっくりと歩き出す。鬼は一瞬、ぽかんと口を開けていたがやがてそれが
自分を馬鹿にする行為だと気がつき、大声を上げて飛びかかる。その様に我妻善逸は手を伸ばして止めようとするが、肝心なときに体は言うことを聞いてくれない。
死んでしまう。俺のせいで。
我妻善逸は自身に絶望した。
己が弱いせいで、勇気がないせいで、少女は死んでしまうのだと自責の声が頭に響き続ける。
「動かないと――」
こんな時、思い浮かぶのは恩師の姿だ。瞼を閉じればその姿が鮮明に思い出される。
『馬鹿野郎!』そんな声が聞こえた気がした。ハッとし、瞼を開ければ未だ少女は歩き続け、鬼は今にも襲いかかろうとしている。今ならまだ間に合うかもしれない。我妻善逸は己を振るい立たせ、震える足を叱咤し、構えを取る。
「ふふっ」
突如聞こえた少女の笑い声に構えが緩む。
一度、瞬きをした。次に目を開ければ鬼の頸が落ちていた。
はっ? と自分でも情けない声が出る。やったのか? あの少女が。今にも食われそうだったこの少女が。雷が落ちるよりも速い現実に我妻善逸はぽかんとするほかなかった。
「驚いていますねぇ。こう見えて、わたくしは強いのですよ?」
いつの間にか目の前に来ていた少女。目をぱちくりさせ、固まった。何故なら。
「近い近い近いッ! 顔が近い! ええええちょ、待ってぇぇええ!?」
顔から火が出た。全力で腕を振る我妻善逸に少女は笑みを崩すことなく問いかける。
「わたくしは道化なまえと申します。あなたの名前を教えてくださいな」
「お、俺は我妻善逸! ……なまえちゃん!」
はい、なんでしょう。少女――道化なまえはきょとんとし、鈴のような声で返事をした。
それに気をよくした我妻善逸は鼻の下を伸ばして興奮気味にこう告げる。
「俺と結婚して!」
「結婚……とは、男女が仲睦まじく共に生涯を過ごす結婚のことでしょうか」
「そう! それ! ナカムツマジク!」
はて、それは困りましたねぇ。道化なまえは頬に手を当てて首を傾げる。それも当然、我妻善逸と道化なまえはたった今しがた出会ったばかりなのだ。道化なまえが我妻善逸を助けたのは偶然であり、決して結婚を申し込まれるためではない。
「俺は弱いから直ぐに死ぬ! だから今のうちに女の子と暮らして幸せになりたいの! お願いだから結婚してぇえええ!」
道化なまえの腕にしがみつき、離す様子のない我妻善逸に「では、これはどうでしょう」と問いかける。
「藤襲山ここを抜け出すことができたら、その結婚を考えてあげましょう!」
「へっ?」我妻善逸は驚きで腕を掴む力が緩む。道化なまえはやんわりとしがらみついていた腕を解くと「本当ですよ」と柔らかに笑う。
元より、我妻善逸は騙されやすかった。己の聴力を持ってしても人に騙されてしまう。それは彼自身が『信じたい』と思った人を信じたからだ。
「本当に本当!? 俺達結婚する!? しちゃうの!?」
「はい。“抜け出せば”の話ですが」
「きゃあああ! 挙式はどこであげる!? 誰を呼ぼうか! うふふ!」
抜け出せばの話ですよ。あの……聞いてます? 道化なまえは眉尻を下げ、困ったように笑う。聞いてるよォ! 我妻善逸はそう返答するが道化なまえには彼が自分の話を聞いているようには見えなかった。
「まあ、あなたは本当は強いので抜け出すのは容易いでしょうが――」
「何言ってんの? なまえちゃん。俺ものすごく弱いよ」
道化なまえは困惑した表情をさらに深める。何か言いたげに口を開いたがすぐに閉じて表情を取り繕った。笑顔だ。
「そうですか……。でも、大丈夫ですよ! お互いちゃんと生き残ってからお話ししましょうねぇ。では」
空中に身を投げ出し後ろに回転をして徐々に離れていく道化なまえに引き留めようと我妻善逸は腕を伸ばす。しかし、次に目を開けたときには彼女の姿は見えず、しょんぼりと肩を落とした。だが、次の瞬間には顔をにんまりとさせ、「俺が結婚かぁ……」と嬉しそうに笑うのだった。
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