先生の涙





ああ、嫌だ。この時期、本当にたまらない、とカカシは口布の下で盛大な溜め息をついた。
三十路を過ぎたら体質も変わってしまうものなのだろうか。
昔はこんなことなかったのに、数年前からどうにもおかしい。
春先から夏にかけて涙腺が緩くなり、鼻がむずむずし、くしゃみが出るようになった。
額当てと口布があるおかげでほとんど分からないが、目も鼻も赤くして過ごしていることが多い。
……つまり、花粉症らしい。

日によって何ともない日もあるのだが、今日はどうにかある日だった。
家を出て少しすると、目も鼻もむずむずむずむず……。何回かくしゃみを繰り返し、目は既に涙目だ。
今度ちゃんと病院に行こう……などと考えながら、普段同様遅刻気味に集合場所へ向かう――と、


「もーあったまきた!!今日という今日は言わせてもらうってばよ!ふざけんなよ!!二時間だってばよ!に・じ・か・ん!!こんな待たされるって分かってたら俺だって家で寝てるってばよ!寝なくても修業でもしてるってばよ!ただ待ってるだけの無意味さって分かるか!?分かんねーよな!!先生はいつも待たせる側だもんな!毎日毎日毎日毎日それでも上忍かよ!!責任感はねーのか、恥ずかしくねーのかよ!カカシ先生のアホ!!」

よくもまあそう息継ぎもしないで舌が回るな……と感服してしまうほどの勢いでナルトにビシッと人差し指を突き付けられ、カカシはとりあえず愛想笑いした。
サクラはナルトの後ろで「本当ですよ」と呆れた顔をしており、サイは普段と変わらぬポーカーフェースでやり取りを見ている。

「いや……悪い悪い。色々と事情があって……」

ははは、と頭の後ろに手をやって目を細めると、鬼面のような顔をしたナルトが「事情だぁ?」と迫って来て、カカシは軽く両手を上げ、「いやいや、まあまあ落ち着け、ナルト」と後退りした。
くしゃみが出そうだ。
あまり顔を寄せられた状態でくしゃみをするとナルトに唾をかけてしまいそうだし、それは憚られる。
だからあまり寄るな、と言いたいが、言える雰囲気でもなく、カカシは今にも出てしまいそうなくしゃみを必死でこらえた。鼻腔が気持ち悪いし、くしゃみをこらえた代わりに今度は目頭が熱くなってくる。

「落ち着けるかってばよ!時は金なりって言葉知んねーの!?一度や二度じゃねーんだってばよ!俺ってばマジでうんざりしてんだ!カカシ先生が心入れ換えるつもりねーんなら、綱手のばあちゃんに言って班替えてもらうってば!付き合ってらん……」

マシンガンのようにけたたましく喚き続けていたナルトは、不意に言葉を切り、ぽかんと口を開けた。
サクラも目を丸くしてカカシを見つめ、「あ」と呟く。
そして、ナルトは急にオロオロと慌て始めた。

「カ、カカシ先生、何も泣かなくたって……」

くしゃみをこらえたことで目の辺りが熱くなってきたかと思ったら、カカシの視界はぼんやりと涙で滲んでしまった。
どういう仕組みなのかは分からないが、鼻と目は繋がっている為に、時にこのような反応が起こってしまう。
くしゃみをこらえるのはやはりよろしくない。唯一出ている右目は真っ赤で涙目だ。
ナルトからすれば、責め立てている途中でカカシが目に涙を溜めて鼻まで啜り始めたものだから、自分が泣かせたとしか思えない状況である。
大人が小さい子を泣かせてしまった時みたいに「ごめん」と狼狽し、カカシの顔を覗き込んできた。

「カカシ先生、俺ってばカッとなってつい言い過ぎちまったけど、気をつけて欲しいだけなんだってばよ。泣かせるつもりはなくて」

「ああ……分かってる……」

苦笑し、返すカカシの言い分は真意だが、ウサギのように真っ赤な目と、ぐす、と鼻を啜る鼻声ではいまいち説得力がない。
それどころかまたくしゃみが出そうになり、カカシはスンスン鼻を鳴らせて顔を俯かせ、自分の目と鼻を手のひらで覆った。

「……カカシ先生、意外とメンタル弱かったのね。そうよね……教え子にあんな風にボロクソ言われちゃ誰だって傷付くわよ。可哀相だわ」

先程までナルトと一緒にカカシを責めていたはずのサクラまでカカシに同情し、白い目でナルトを見る。
カカシはというと、今は何を置いても花粉症の方が辛く、「ええ?俺がワリィの!?」と声を裏返すナルトとサクラの会話も聞く耳半分で鼻と口をおさえた。

(……出そうだ)

くしゃみが。
息を吸い込み、のけ反った瞬間、

「カカシ先生!」

ナルトがカカシの懐に飛び込み、顔を寄せてきた。

「俺、何もマジでカカシ先生と別の班になりたいとか思って言ったわけじゃ――……」


避けきれない。悟ると同時、頭が働くよりも先にカカシの身体は動いていた。
目の前のナルトを思わずガバリと抱きしめ、突然の力強い抱擁で俄かに頬を赤らめたナルトのその肩越しに……

――ハックション!!

近くの木々で羽を休めていた鳥達が驚いて飛び立っていくほどの大きなくしゃみを、その場で解放した。



のちに残されたのは、白けきった表情のナルトだった。

「……花粉症?」

「そゆこと」

ナルトを抱きしめた状態でくしゃみを連発し、ぐすぐすと鼻を啜りながら「あ〜やっとちょっと落ち着いた」とカカシがようやくナルトを解放すると、ナルトは男に弄ばれたのちに放置された女のような恨みがましい目をカカシに向けた。

「紛らわしい真似すんなよ……俺が泣かせたのかと思って申し訳なく思ってたのに!心配して損したってばよ!」

「いや、お前が泣かせたようなもんだって。くしゃみ出そうだってのにガンガン顔近付けてくるから無理してこらえてたら涙出てきたんだから。やめてちょうだいよ、先生困っちゃうでしょ」

眉をハの字にして言うカカシと、顔を赤くして歯噛みしているナルトのやり取りに「な〜んだ、それもそうよね。カカシ先生があのくらいで泣くわけないもの」と、サクラが呆れたように手を広げて頚を緩く横に振る。
すっかり日常の雰囲気に戻ったカカシ班。
「さて、じゃ、任務については移動しながら説明するぞ」とカカシが足を踏み出すと、一同もその後を追うように歩き出す……その中でナルトだけが未だ場に留まり、物言いたげにカカシの背中を見てボソリと呟いた。

「……ん?何か言った?」

小さな呟きを聞き取れず、カカシが振り向くと、「……何でもねえ!」とこちらに向かって元気よく駆けてくる。

『抱きしめられて、ドキドキして、損したってばよ』

そんな秘密の声を聞いたのは、木々を揺らす風だけだ。
















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